炎が揺らめく。
熱風が焼け落ちた廊下を吹き抜け、黒煙が天井を覆い尽くす。
瀬川の亡骸を抱くことすらできず、幼い空はその場へ立ち尽くしていた。
涙は出ない。
叫びも出ない。
感情という感情が、胸の奥から音もなく崩れ落ちていく。
その時だった。
空の周囲の空間が、不自然に軋んだ。
まるで蜃気楼のように景色が歪む。
空気が震える。
世界そのものが、一瞬だけ悲鳴を上げた。
「――――」
幼い空は無意識に右手を持ち上げる。
その掌へ。
ぽう、と。
小さな炎が灯った。
赤く、揺らめきながら。
それは数秒前まで襲撃者が振るっていた炎と、寸分違わぬ”理不尽”だった。
科学では説明できない炎。
物理法則を踏みにじる炎。
ー魔術。
本来なら能力者が触れられるはずもない異世界の法則。
しかし、その炎は生まれた瞬間から制御を失っていた。
ゴォォォォォッ!!
轟音。白い閃光。
施設全体を揺るがす爆発が巻き起こり、残っていた壁も天井も吹き飛ばされる。
炎と瓦礫が夜空へ噴き上がった。
♢
「……何だと?」
薄暗い研究室。
壁一面のモニターが一斉に砂嵐へ変わる。
木原虚は、しばらく言葉を失っていた。
やがて口元が歪む。
「……馬鹿な。外部の
あり得ない。
学園都市が積み重ねてきた能力開発理論。
魔術と科学を隔てる絶対的な壁。
その全てが、今この瞬間に否定された。
「何をした……?」
驚愕は数秒しか続かない。
次の瞬間には、それを上回る歓喜が全身を支配していた。
「フッ……」
肩が震える。
「フフフ……!」
笑いが止まらない。
「アハハハハハハハッ!!」
研究者として。
木原として。
これ以上ない成果が目の前で生まれた。
「そうか……!自我を空にしたのか!だから外部法則をそのまま受け入れられる!」
能力とは『
ならば。
その現実が完全な空洞なら。
他者の現実すら入り込める。
「素晴らしい!最高だ!ガラクタを捨て、自ら器を空にした最高傑作!」
木原は狂気に満ちた笑みを浮かべる。
「お前は
その狂笑だけが、研究室へ響き渡った。
♢
同時刻。
学園都市の最深部。
窓のない部屋。
生命維持装置へ接続された一人の男が、
学園都市統括理事長。アレイスター=クロウリー。
『……興味深い。』
無機質な声だけが空間へ響く。
『能力者でありながら魔術を再現した。…いや、正確には、理論そのものを写し取った、か。』
沈黙。
『
その一言だけで、一人の少年の未来は決まった。
♢
数日後。
空は病院の白い天井を見上げていた。
「いやぁ。」
ベッド脇でカルテをめくるカエル顔の医者が困ったように笑う。
「君、本当に運が良かったね。施設は全焼。救助隊が見つけた時には火の真ん中にいたらしい。それなのに火傷は皮膚だけ。普通なら説明できないよ。」
空は何も答えない。
「警備員も原因を調べてるけどね。火元は分からないみたいだね。ガス漏れでも放火でもない。結局、事故として処理されそうだけど…」
事故。
その二文字だけで、瀬川の人生は終わる。
誰にも知られないまま。
誰にも裁かれないまま。
「……精神的なケアも必要だ。」
医者は優しく笑った。
「僕の知り合いが運営してる施設がある。退院したら、そこへ行くといい。」
その声は温かかった。
けれど。
もう誰の優しさも、空の心へ届くことはなかった。
♢
新しい養護施設。
新しい大人。
新しい子どもたち。
新しい生活。
誰も彼を傷付けない。
誰も怒鳴らない。
それでも。
息が苦しかった。
笑えば相手が笑う。
黙れば空気が悪くなる。
期待されれば応える。
求められた姿を演じ続ける。
それだけだった。
“自分”は、もう存在しない。
瀬川と一緒に燃えてしまった。
だから空は考えた。
自分である必要がないなら。
誰かになればいい。
他人へ合わせればいい。
望まなければ傷付かない。
執着しなければ失わない。
そう信じ込むことでしか、生きられなかった。
その空虚さを埋めるように、彼は勉強だけへ没頭した。
数学。
物理。
生物。
化学。
能力開発。
知識だけが、自分を忘れさせてくれた。
年月が流れる頃には息苦しさすら感じなくなっていた。
…いや、慣れてしまった。
それに比例するように、『
他者の能力。
物理法則。
ーそして瀬川を殺した未知の力。
ありとあらゆる「法則」を再現する異形の能力へと変貌していった。
♢
窓のない部屋。
一枚の認定書が机へ置かれる。
「
通常の研究機関による推薦は存在しない。
統括理事会の特例。
いや。
アレイスターただ一人の判断だった。
役割もまた、表には存在しない。
暗部、あるいは掃除屋。
学園都市に生じた不都合を消し去り、矛盾を修正し、痕跡すら残さない”エラーチェッカー”。
「名前を。」
事務的な声が告げる。
空は静かにペンを握った。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
手が止まる。
そして。
迷うことなく書き記した。
瀬川 空
恩人からもらった苗字。
恩人からもらった名前。
誰が何と笑おうと。
自分が空っぽだと理解していようと。
これだけは。
これだけは捨てられない。
(俺は空っぽだ。)
(だからこそ。)
(この街の”ありふれた日常”だけは。)
(俺の中へ詰め込んで守る。)
(偽物でもいい。)
(誰かが笑っていられるなら。)
制服へ袖を通す。
鏡の中には、目の下へ深い隈を作った少年が映っていた。
口角を少しだけ上げる。
何度も。
何度も。
練習した笑顔。
誰にも本心を悟らせないための。
誰にも心配をかけないための。
完璧で、空虚な笑顔だった。
こうして、学園都市の表と裏、その狭間を歩く一人の少年――掃除屋・瀬川空の物語は、静かに幕を開ける。