第三十話:模造品たちの夜(フェイク・オア・レプリカ)
八月中旬。真夏特有の、纏わりつくような熱帯夜。
第七学区の繁華街から数ブロック離れた、光の届かない路地裏。そこに充満していたのは、夏の夜の気配などではなかった。
鼻の奥にこびりつくような、鉄錆に似た強烈な血の匂い。そして、大気が焦げたようなオゾンの異臭。
瀬川空は、むせ返るようなその死臭の中、感情を完全に排した無表情で、数枚のトランプを宙に舞わせていた。
『エミュレート――念動力、及び空間断裂』。
空の低い呟きと共に、トランプが不可視の刃、あるいは見えない手となって路地裏を縦横無尽に飛び交う。
学園都市の第1位・
第1位による『
それが、統括理事会直属の
清掃が淡々と進む路地の真ん中。
空の足元には、黒いストレッチャーに乗せられた一つの『物体』があった。
それは、つい数十分前まで生きて呼吸をしていた、一人の少女の遺体。
茶色の髪、常盤台中学の制服、そして……数時間前に空に向けて眩しい笑顔を見せていた、御坂美琴と全く同じ顔。
しかし、その瞳に光はない。肉体は理不尽な力で破壊され、ただの命を失った肉塊と化している。
単価十八万円で作られた、命の
「…………」
空は、光の消え失せた暗い瞳で、その虚ろな顔を静かに見下ろした。
(模造品、か)
心の中で、自嘲するような冷たい声が響く。
代用品として作られ、大人たちの都合で使い捨てられる命。それは、かつて木原の実験で自我を焼き切られ、心を空洞化され、他者の能力を
彼女たちは、俺だ。
血の通わない、空っぽの器。誰にも人間として扱われず、闇の中で死んでいく存在。
だからこそ、理不尽に命を奪われる彼女たちの痛みが、声にならない絶望が、空には誰よりも痛いほどに理解できてしまう。
(助けたい)
ポケットの中で、爪が掌に食い込むほど強く拳を握りしめる。
(こんな狂った実験、今すぐ俺がぶっ壊してやりたい。第1位の首を刎ねて、この子たちを全員連れ出してやりたい……っ!)
殺意と怒りが、冷え切った胸の奥で黒い炎となって渦巻いている。
今すぐこのストレッチャーを蹴り飛ばし、第1位を追撃してその心臓を抉り取ってやりたいという衝動が、何度も何度も空の脳髄を焼き焦がす。
だが。空は動けない。
足が鉛のように重く、コンクリートに縫い付けられたように、反逆の一歩を踏み出すことができないのだ。
この異常な『絶対能力進化計画』の背後には、学園都市の頂点に君臨する統括理事長、アレイスター=クロウリーの絶対的な意志がある。
もし自分がここで感情に任せて反逆すれば、確実に統括理事会からの「粛清」の波が起きる。その波は、裏の世界に生きる自分一人だけを飲み込むのではない。確実に、表の世界へ波及する。
いつも教室で一緒に馬鹿騒ぎをしている上条当麻や青髪ピアスたち。
平和な日常を信じて笑っていた御坂美琴や白井黒子、佐天涙子に初春飾利。
自分が泥を被ってでも守りたかった、あの眩しい『表の世界の友人』たちまで、暗部の底なしの闇に引き摺り込み、無惨に殺すことになる。
(俺が動けば……上条たちが死ぬ。御坂さんが、絶望に潰される)
何かを守るためには、何かを見殺しにしなければならない。
表の光を守るためには、裏の闇で起きる悲劇に目を瞑らなければならない。
それが、空っぽの掃除屋に課せられた、決して逃れられない呪いだった。
「……ごめんな」
震える声で、ただ一言だけ呟きながら。
空は、ストレッチャーの上の遺体の顔に、静かに真っ白な布をかけた。
美琴と同じ顔が布で覆い隠された瞬間、空の胃が激しくせり上がり、強烈な自己嫌悪で吐き気を催した。
自分は結局、木原と同じだ。大義名分を並べ立てて、目の前で死んでいく子供を見殺しにしている。あの夜、燃え盛る施設で自分を見捨てた大人たちと、何も変わらない。
「うっ……げぇっ……」
路地裏の隅で胃液を吐き出しながら、空は荒い息を吐いた。
それでも彼は、涙一つ流すことを許されなかった。泣く資格など、今の自分にはない。
空は血の気の引いた顔を上げ、再び虚空にトランプを舞わせる。
同類たちの血を拭い去り、悲劇を隠蔽し、誰も知らない無機質な日常を演出する清掃作業を、ただ機械のように暗闇の中で続けた。
終わらない夜が、空の心を少しずつ、しかし確実に削り取っていった。