翌日。
学園都市に奇跡が起きた。
計画の根本である『
同日、第7学区。
光の届かない無機質な地下廃研究所の通信端末の前で、瀬川空は統括理事長アレイスター=クロウリーと、音声のみで対峙していた。
『ご苦労だった。計画は凍結され、君の実験周辺における清掃任務も終了となる。残存する9969体の個体は世界各地の協力機関へ送り、身体調整を行う手はずだ』
ノイズ混じりの、機械的で感情の読めないアレイスターの声がスピーカーから響く。
「……あぁ、そうかい。だが、一つ話がある」
空は、いつもの『極甘マックスコーヒー』のプルタブをパキリと開けながら、ひどく冷たい声で切り出した。
「外部要因による実験の強制終了。俺の清掃作業は徒労に終わり、不当に打ち切られたわけだ。契約に基づき、正当な違約金を請求させてもらう」
『奇妙だな。君は金銭や権力を欲する男ではなかったはずだが?』
「金じゃない。……妹達のうち、五体。あいつらの身柄と管理権限を、俺に引き渡せ。それが俺の沈黙の対価だ」
スピーカー越しに、わずかな沈黙が流れる。
学園都市の頂点に君臨する男が、空の要求の意図を推し量っている時間。やがて、機械的な声が短く告げた。
『……許可する。追ってIDを譲渡しよう』
「助かるよ」
通信が切れると同時に、空は小さく息を吐き、甘いコーヒーを胃に流し込んだ。
これで、準備は整った。
♢
昼過ぎ。
第7学区にあるカエル顔の医師がいる大型病院。
第1位との死闘の末、全身ボロボロになって搬送された上条当麻の看病のため、空は病棟の廊下を歩いていた。
「「あっ」」
上条の病室の扉を開けようとした空は、ちょうど中から出てきた少女と鉢合わせになった。
見舞いを終えたばかりであろう、御坂美琴だった。
互いに目を丸くして硬直する。昨夜の、あの凄惨で悲痛な死闘の余韻が、二人を重い沈黙で包み込んだ。
「……この後、少し話したいことがあるんだ。下で待っててもらってもいいか?」
空が慎重に、まるで腫れ物に触れるように切り出すと、美琴は数秒間黙ったまま俯き、小さく「……ん」とだけ言って、足早に去っていった。
「……よし」
空は自身の頬を軽く叩いて気を引き締め直すと、病室の扉を勢いよく開けた。
「よう上条! また厄介なこと首突っ込んで入院したって聞いたから、見舞いに来てやったぜ!」
「げっ! 瀬川!? いやいやいや、俺だって好きで入院したわけじゃ……って痛てててっ!」
ベッドの上で包帯だらけの上条が、いつものようにオーバーなリアクションで悲鳴を上げる。
その姿を見て、空の胸の奥に熱いものが込み上げた。
(……ありがとう。俺の代わりの、主人公)
空は馬鹿な高校生の仮面を被って笑いながら、心の中で彼に深く、深く頭を下げた。
上条の見舞いを終え、病院の一階にある待合室に戻ると、美琴がソファに座って静かに待っていた。
「すまない、待たせたね。ここで話すのもアレだから、場所を移さないか?」
「ええ、そうね」
♢
数分後。
病院内に併設された、落ち着いた雰囲気の喫茶店。
対面して座る二人。テーブルに置かれたアイスティーの氷がカランと鳴った。
「まず、御坂さん。……本当に、申し訳なかった。君を絶望させて、あんな辛い思いをさせて」
空は立ち上がり、周囲の目も気にせず、美琴に向かって深々と頭を下げた。
自分の選択が彼女をどれほど傷つけたか、痛いほど分かっていたからだ。
「……いいのよ」
だが、降ってきたのは、責めを負う言葉ではなく、柔らかな声だった。
空がゆっくりと顔を上げると、美琴は少し照れくさそうに、けれど優しく澄んだ笑顔を浮かべていた。
「瀬川さんも、あの実験の被害者じゃない。……自分のやりたくないことを強制されて、私たちが巻き込まれないように、一人でずっと苦しんでたんでしょ」
「いや、俺は……見殺しにした。言い訳はできない」
「いいのよ! もう!」
食い下がる空を、美琴はいつもの強気な調子でピシャリと制した。
「アンタも、あの子たちも、被害者なの! これ以上自分を責めるようなら、ここで電撃お見舞いするわよ!」
彼女の真っ直ぐな瞳に、空は言葉を失った。
この少女は、どれだけの絶望を味わっても、決して光を見失わない。その強さに、空は改めて眩しさを覚えた。
「……そうか、ありがとう。でも、俺個人の感情は、それだけじゃ解決できないからな」
空は席に座り直し、真剣な眼差しで美琴を見た。
「せめてもの贖罪として、五人の妹達の面倒を、俺が見ることにした」
「えっ……?」
「さっき、統括理事会と掛け合って身柄の引き渡しを許可させた。俺の家は無駄に広くて、あの子たちの身体調整をできるだけの機材や設備も一通り揃ってる。五人くらいなら、新しく住み込みで生活させることもできるしね」
空は一呼吸置き、静かに言葉を継いだ。
「それに……あんな狂った実験をした学園都市の上層部に、あの子たちのこれからを全部任せっきりってのも、どうしても癪だしな」
勿論、美琴が不安に思うなら無理にとは言わない。
「変な真似は絶対にしないし、心配なら御坂さんはいつでもウチの研究所に抜き打ちで入れるように、セキュリティのパスも渡しておく。……どうかな?」
断られても仕方ない。だが、空は彼女たちを救い出し、自らの手で守らなければならないという、強迫観念にも似た強い思いに駆られていた。
だが、美琴の反応は、空の悲壮な覚悟をあっさりと飛び越えていった。
「いいの!? ありがとう!」
美琴はパッと顔を輝かせ、身を乗り出した。
「あのリアルゲコ太みたいな顔のお医者さんも信頼できるけど、先生が側にいてくれる方が、私もずっと安心できるわ! たまに差し入れ持って顔出しに行くから、よろしくね、瀬川さん!」
あまりにもあっさりとした快諾。
空はポカンと口を開け、呆気にとられた。
「い、いいのか? 俺はてっきり、俺みたいな暗部の人間には任せられないって怒られるかと……」
「だぁーっ! いいったらいいの! 今日の瀬川さん、なんかグジグジしてて女々しいわよ!」
またしても美琴に明るく制され、空は思わず吹き出してしまった。
「……ありがとな、御坂さん」
その言葉は、空っぽのはずの心から自然とこぼれ落ちた、温かい響きを持っていた。
♢
その日の晩。
第7学区の人気の無い研究所ビル。広すぎて寒々しかった空の廃研究所に、五人の少女たちが立っていた。
無機質なミリタリーゴーグルをつけ、御坂美琴と同じ顔をした、五人の妹達。
「……実験は終了しました。ミサカたちの新たな目的は何ですか、とミサカ10501号は問いかけます」
代表して口を開いた10501号の問いかけに、空は彼女たちの前に順に立ち、その一人一人の顔を愛おしそうに見つめた。
自分と同じ、作られた模造品。他者の代替品。
だが、もう二度と見殺しにはしない。暗闇の中で、誰の身代わりにもさせない。
「……俺は瀬川空。君たちと同じ、中身が空っぽの人間だ」
空は優しく微笑み、一番前にいた10501号の頭を、大きな手でそっと撫でた。
ビクッと肩を揺らした彼女に、空は穏やかな声をかける。
「目的はないよ。……今日からここが、君たちの家だ」
暗部の掃除屋として、他人の人生をなぞるだけの空っぽの器として、孤独に生きてきた少年の冷たい研究所に。
今、初めての温かい火が灯った。
彼が「家族」という名の、何にも代えがたい救いを手に入れたこの瞬間。瀬川空の物語は、過去の因縁とこれからの希望が交差する、新たなフェーズへと静かに動き出したのだった。