第七学区の中心地から少し外れた所にある、廃棄された総合研究施設。
そこを改装した瀬川空の拠点は、これまでの朝、常に無機質で静まり返っていた。
広い空間に響くのは、空調設備の低い駆動音と、暗部からの暗号通信を受信する漆黒の端末が発する電子音だけ。
昨夜の清掃任務でこびりついた血の匂いをシャワーで洗い流し、冷蔵庫から出した冷たい缶コーヒーを胃に流し込む。誰とも言葉を交わすことなく、感情のスイッチを切り、ただ他人の人生をなぞるための『空っぽの器』として息を潜める。
空にとっての「日常」の始まりは、いつもひどく冷たく、そして孤独なものだった。
しかし。
あの長く残酷な実験が凍結された翌日、八月二十三日の目覚めは、今までとは全く違っていた。
「じーっ……、とミサカは対象の無防備な寝顔を至近距離から観察します」
「報告によると、人間のオスは起床時に急激な血圧変動を起こし、極めて不機嫌で凶暴になる傾向があるとのこと。不測の事態に備え、より慎重な観察が必要不可欠である、とミサカ10502号は推測に基いて提案します」
「……いや、もう起きてるし。普通に怖いからやめてくれないか」
空が薄く目を開けると、視界いっぱいに自分と同じ茶髪の頭が二つ、ベッドを覗き込むように並んでいた。
ミリタリーゴーグルを額にずらした、10501号と10502号だ。無表情のまま、瞬きもせずにこちらを見下ろしている姿は、ホラー映画のワンシーンのようでもある。
いつものように脳の奥がズキリと痛む感覚はあったが、それは能力の多重展開による細胞が焼き切れるような致命的な過負荷ではない。ただの、寝起き特有の気怠さだ。
空は小さく苦笑しながらベッドから身を起こし、二人の頭を軽くポンポンと撫でてから、リビングスペースへと足を踏み入れた。
その瞬間、空の鼻腔を突いたのは、いつものオゾンや血の匂いではなく――。
「……焦げ臭い!?」
「あ、おはようございます、とミサカ10503号は挨拶を試みます。現在、朝食の準備中ですが、加熱機器の火力が想定外の挙動を示しており、タンパク質の熱変性が予測値の三百パーセントを突破して——」
「ストップストップ! フライパンの火が強すぎる、卵が完全に炭になりかけてるぞ!」
空が慌ててキッチンに駆け込むと、そこにはカオスが広がっていた。
白衣の代わりに空のブカブカのTシャツを着た10503号が、黒煙を上げるフライパンを片手にオロオロしている。
その横では、10504号がなぜか精密ドライバーを握りしめ、新品のトースターの裏蓋を開けようとしていた。
「構造解析を開始します。この熱源ユニットを電磁誘導で直接励起すれば、より効率的な加熱が可能になるとミサカは仮説を立て——」
「トースターは分解しないで! そのままで十分パンは焼けるから!」
空がフライパンを取り上げ、コンロの火を消し、さらに10504号からドライバーを没収して息をついたのも束の間。
ふとリビングのソファに目をやると、10505号が、空の私物である少年漫画の単行本を逆さまに持ったまま、首を傾げていた。
「疑問。この二次元の視覚データは、右から左へ処理するべきか、下から上へ処理するべきか……文脈の整合性が取れません、とミサカ10505号は高度な情報処理に難航します」
「それは逆さまだからだね。あとで俺が読み方を教えてあげるから、とりあえず本は置いて手を洗っておいで」
ドタバタと駆け回りながら、五人全員に指示を出していく。
ふと見渡せば、昨日まで殺風景で無機質だった地下研究所のあちこちに、彼女たちのゴーグルや、タオル、ブランケットが散乱しているのが目に入った。
棚には五つの新しいマグカップが並び、玄関にはお揃いの革靴が乱雑に脱ぎ捨てられている。
わずか一晩。
たったそれだけの時間で、この冷たい空間は『暗部の待機施設』から、確かに血の通った『生活空間』へと変貌を遂げていた。
騒々しくて、まとまりがなくて、好奇心旺盛で、放っておいたらすぐにどこかへ行ってしまいそうな、五人の少女たち。
(ああ……)
換気扇を回しても消え切らない、焦げた卵焼きの匂い。
同じ声帯から発せられる、五つの異なる抑揚のない呟きと足音。
空はキッチンカウンターに手をつき、小さく息を吐いた。
無意識のうちに、口元がだらしなく綻んでいくのがわかる。
(俺はもう、一人じゃないんだな)
自身の『空っぽ』な現実から目を背けるために、そして表の世界の眩しい日常を守るために、必死で他人の裏側を掃除してきた。自分には何も手に入らないと、ずっと諦めていた。
だが、今は違う。
誰かの
この騒がしくて愛おしい朝こそが、空にとって何よりも優先すべき、自分自身の力で絶対に守り抜くと誓った『俺の日常』だった。
「ソラ? 目元が緩んでいますが、顔面神経痛ですか、とミサカ10501号は医療的介入の必要性を検討します」
「違うよ。ちょっと、嬉しかっただけだ」
空は笑いながら、炭の一歩手前までこんがりと焼けた目玉焼きを、六つの皿に手際よく取り分けていく。
「よし、とりあえず朝飯にするぞ。席につけー。……焦げてる部分は、俺が食うから」
「気遣いに感謝します、とミサカは胸をなでおろします。焦げた炭水化物は発がん性のリスクを伴うため……」
「朝から物騒なこと言わないの。ほら、いただきますは?」
「「「「「いただきます」」」」」
少し焦げたトーストと、失敗作の目玉焼き。
だけど、これまでの人生で飲んできたどんな極甘コーヒーよりも、甘くて温かい朝食。
五つ子の妹達に囲まれながら、瀬川空の本当の意味での新しい人生が、今、騒がしい朝とともに幕を開けた。