色々ツッコミどころが多いと思います。
ご容赦ください。
8月下旬。うだるような熱波が学園都市を包み込む中、空たち家族の拠点である廃研究所は、5階の工学階担当であるシノの「徹底的な省エネ調整」により、空調が最低限の稼働に留められていた。
リビングの扇風機の前で、空は極甘の缶コーヒーにブドウ糖タブレットを数粒放り込み、一気に喉へ流し込む。過剰な演算によって常に焼き切れそうになっている彼の脳にとって、この劇薬のような糖分摂取は欠かせない儀式だった。
「ソラさん、このミトが栽培した特製カフェイン豆の抽出液です。これを飲めば三日は寝ずに活動できる計算です、とミトは自信満々にどろりとした黒い液体を差し出します」
「いや、ミト……それもうコーヒーじゃなくて毒薬の類だろ。俺の胃に穴を開ける気か?」
空が苦笑しながら突っ込みを入れると、ソファで携帯ゲーム機を弄っていた末っ子のイツキが顔を上げずに言った。
「大丈夫です。胃に穴が開いても、ニナが作った怪しい胃腸薬のモルモットになれるので一石二鳥です、とミトは合理的判断を下します」
「俺の扱い雑すぎないか?」
ボサボサの頭を掻きながら、空はいつもの虚ろさを孕んだニコニコとした笑顔を浮かべる。
イチが呆れたようにため息をつき、シノが扇風機の首振りの角度を微調整している。
なんてことはない、平和な光景。空にとって、己の空っぽな『自我』を繋ぎ止めるための、絶対的な錨とも言える大切な日常だった。
——その時だった。
空は突如として、内臓を直接鷲掴みにされて引きずり出されるような、猛烈な吐き気と眩暈に襲われた。
「……ッ!?」
手から缶コーヒーが滑り落ち、床に黒い染みを作る。
(なんだ、これ……ッ!? 空間が……いや、世界そのものが……!)
ぐにゃり、と。
空の視界が歪んだ。物理的な異常ではない。脳の奥底、彼が空洞化させたはずの『自分だけの現実』に対して、外部から巨大で、暴力的で、あまりにも強引な『データの書き換え』が迫り来るのをはっきりと感じ取ったのだ。
親友である上条当麻の周囲で起きた事件を通し、空はこの法則外の力の正体をすでに知っていた。
これは科学の能力ではない。紛れもない『魔術』の理。
それも、これまでに触れたどんな魔術とも次元が違う、世界中を丸ごと書き換えようとするほどの神話級の大儀式だ。
「ソラ!? どうしたのですか、とミサカは急変した事態に慌てて駆け寄ろうとします!」
「来、るなッ!!」
イチをはじめとする5人の妹達が駆け寄ろうとするのを鋭い声で制止し、空は床に這いつくばった。
空の『疑似発現』が、迫り来る魔術の術理を自動的に解析しようと悲鳴を上げる。
読み取った術式の効果は——『外見と内面の入れ替わり』。
もしこの書き換えを許容してしまえば、空の認識は世界中の人間と共に歪められ、目の前にいる妹達が『全く別の誰か』に見えてしまう。
(ふざけ、るな……ッ!)
それだけは、絶対に許容できなかった。
彼が正気を保っていられるのは、「他者の日常を守ること」、とりわけこの5人の妹達という『家族』を認識できているからだ。もし彼女たちの姿が別の何かに書き換えられてしまえば、とてもじゃ無いが正気でいられない。
空は床のコンクリートを血が滲むほど強く掻き毟りながら、無意識下で強引な並列処理を展開した。
大魔術の術理を自らの演算領域にコピーし、その術式を反転。自身の体内だけで『相殺』するためのカウンター魔術を構築する。
人間の脳で処理できる情報量ではない。
「ガ、アァァァッ!! ァアアアアッ!!」
異能の力である魔術を行使したことによる、強烈な拒絶反応。
全身の血管が爆ぜ、神経が焼き切れるような激痛が空を襲う。彼は瞬時にバックグラウンドで『肉体再生』と『痛覚遮断』の能力を同時ペーストした。
キャパシティオーバーの限界を知らせる強烈な頭痛。頭蓋骨の中で脳髄が沸騰し、今にも破裂しそうな圧力がかかる。
「お兄ちゃん! 目から血が……! ニナ、早く救急箱を! とイツキは……ッ!」
妹達の悲鳴が遠く聞こえる。空の両目から、鼻から、耳から、どす黒い血が止めどなく噴き出していた。
血反吐を吐きながら、空は無理やり肉体を繋ぎ止める。
千切れては再生し、破裂しては強引に縫い合わせる。痛覚を遮断してなお脳を焼くような不快感と幻痛の中、空はただひたすらに「妹達の姿」を脳裏に焼き付け、迫り来る世界の書き換えを自身の中だけで弾き返し続けた。
数分にも及ぶ、地獄のような拮抗。
やがて、世界を覆い尽くした不気味な気配が定着し——空への直接的な干渉が止んだ。
「はぁッ、はぁッ、はぁ……ッ」
荒い息を吐きながら、空はゆっくりと顔を上げた。
視界は血で赤く染まっている。床には小さな血だまりができていた。
「ソ、ソラ……」
イチが震える声で空を呼ぶ。他の4人も、顔面蒼白になりながら空を見つめていた。
赤く染まった視界の中で、空は彼女たちの姿を確かめる。
同じ顔。同じ軍用ゴーグル。同じ制服。
イチ、ニナ、ミト、シノ、イツキ。彼の大切な日常の象徴たちは、空の目には全く変わらぬ「元の姿」のまま、涙ぐんでそこにあった。
「……よかった」
口からツーッと血の筋を垂らしながら、空はボロボロの顔でいつものように微笑んだ。
それは、凄惨な状況に全くそぐわない、ひどく虚ろで、けれど確かな安堵に満ちた笑顔だった。
「お前たちは、お前たちのままだ……」
自らの命と引き換えに近い代償を払いながらも魔術を相殺した空。
彼はこうして、世界中を巻き込んだ『外見入れ替わり』の異変の中で、世界を正しく認識し、上条当麻と同じく「元の姿」を見ることができる数少ない存在となったのだ。