鉄錆のような血の匂いが、むせ返るようにリビングに充満していた。
つい先ほどまで、世界規模の認識書き換え魔術『エンゼル・フォール』を自身の演算領域だけで強引に相殺し、血反吐を吐いて倒れていた空は、今はソファに身を預け、荒い息を繰り返している。
「お兄ちゃん、これ以上動かないでください。まだ目や耳からの出血が完全に止まっていません、とミサカは涙声で警告しつつ包帯を巻きます」
末っ子のイツキが、震える手で空の頭部や首筋に真っ白な包帯を巻きつけていく。普段はパソコンの前に座りっきりの彼女が、今は必死に空の傷を塞ごうと顔を歪めていた。
「ボス、制服の血痕は特殊な溶剤で拭き取りましたが、完全には落ちきっていません。予備のシャツとコートを準備したので着替えることを推奨します、とミサカは手早く新しい衣服を差し出します」
工学階担当のシノが、血に染まった制服を手際よく回収し、裏地に無数の仕掛けが施された黒のロングコートを空の肩に掛けた。
バックグラウンドで稼働し続けている『肉体再生』と『痛覚遮断』により、致命的な出血はすでに塞がっている。しかし、無理やり肉体を繋ぎ止めたことによる激しい疲労と、脳を直接かき回されたような不快感は消えていない。
それでも空は、ボサボサの髪の隙間から虚ろな笑顔を覗かせ、ゆっくりと立ち上がった。
「ありがとな、イツキ、シノ。……いいか、お前ら。俺がいない間、絶対に外には出るな。今の世界は、巨大なバグに侵されてる」
空は、5人の妹達の顔を一人ずつ見つめながら厳命した。
「俺の目には、お前たちはお前たちの姿のままに見える。でも、今の外の世界の連中の目には、お前たちが『誰の姿』に見えるか分からない。大統領かもしれないし、指名手配犯かもしれないし、ただのオッサンかもしれない。外に出れば、大混乱に巻き込まれるリスクが高すぎる。1階の防犯システムを最大にして、絶対にここから動くな」
空の鋭い言葉に、妹達は緊張した面持ちで頷いた。
「ソラは、どうするつもりですか、とイチは血の匂いに不安を覚えながら尋ねます」
リーダー役であるイチが、空の袖をきゅっと掴みながら問いかける。その手は微かに震えていた。
「俺は……このバグの発生源を探る。多分、あいつが巻き込まれてるからな」
空の脳裏には、ツンツン頭の無二の親友の顔が浮かんでいた。上条当麻。彼の右手にある『幻想殺し』ならば、この異常な大魔術の影響さえも打ち消し、元の世界を認識しているはずだ。
そして上条は今、「家族と一緒に神奈川県の某海岸に旅行に行っている」と出発前に聞いていた。これだけの大事件だ、あの上条当麻が巻き込まれていないはずがない。直感がそう告げていた。
「マスター、それならばこの特製『超即効性造血サプリ・極』を持っていってください。失った血液を無理やり生産します。副作用で猛烈な吐き気と激痛が来ますが、とミサカは不敵に笑いつつも心配そうに小瓶を渡します」
「サンキュー、ニナ。痛覚は切ってるから問題ない。後でまとめて飲ませてもらう」
薬学階担当のニナから怪しい薬瓶を受け取り、ポケットに放り込む。さらにシノが調整してくれた大量の触媒が、コートの裏地にずらりと装填されているのを確認した。
「ソラさん、これ……。出先で糖分とカフェインが足りなくなった時のために、とミサカは特製コーヒーを差し出します」
最後に、農学階担当のミトが不安げな顔で極甘の缶コーヒーを差し出した。
空はそれを受け取ると、プルタブを開けて一気に喉へ流し込み、空になった缶をゴミ箱に放り投げた。焼け焦げそうな脳髄に、劇薬のような糖分が染み渡っていく。
「心配するな。俺の『日常』はここにある。……必ず帰ってくる」
空は妹達の頭を順番に撫でると、虚ろで、しかし確かな温もりを持った笑顔を見せ、廃研究所を後にした。
♢
学園都市を抜け出し、神奈川県の海へと向かう道中。
空の視界には、完全にバグと化した「ありえない日常の風景」が広がっていた。
すれ違う家族連れの父親が女子高生の姿をしていたり、コンビニの店員が屈強な外国人傭兵の姿でレジを打っていたりする。世界中の人間の外見と内面がシャッフルされた狂気の世界。
(本当に、胸糞悪い魔術だ……)
空は、あえて交通機関を使わず、最短ルートを選んだ。
「白井さん、ちょっと使わせてもらうよ…」
『空間移動』
ビルの屋上から屋上へと飛び移り、あるいは人目のない影を一直線に駆け抜け、神奈川の海へと急いだ。
俺の仕事は、表舞台で英雄になることじゃない。
あいつの日常を守るため、そして自分の日常を脅かすバグを排除するため。
親友が存分に戦い、理不尽な幻想をぶち殺せるように——裏で立ち回り、泥臭く盤面を整える「掃除屋」の仕事だ。
「待ってろよ、上条。今、極上の舞台を用意してやる」
血まみれの口元を歪め、空は暗闇の中を砲弾のような速度で駆け抜けていった。目指すは、親友のいるである神奈川の海。自らの命を燃やしながら、彼は自らの役割を果たすために飛び込んでいった。