第四話:悪友(カルテット)
四月。
桜が散り始めた学園都市第七学区は、新年度を迎えた学生たちの熱気で満ちていた。真新しい制服に身を包み、期待と不安を胸に校門をくぐる者。友人と再会して騒ぐ者。緊張した面持ちで校舎を見上げる者。どこを見渡しても、春らしい喧騒が広がっている。
その中を、瀬川空は周囲と同じ制服を着て歩いていた。
制服は皺一つなく整えられている。寝癖だけは直そうともしない黒髪と、目の下に刻まれた濃い隈だけが、その少年の異質さを静かに物語っていた。
高校への入学。
それは世間一般の高校生にとって、新しい人生の始まりを意味する。
しかし空にとっては違う。
学園都市統括理事長、アレイスター=クロウリーが用意した『表向きの身分』。
昼は高校生。
夜は暗部の掃除屋。
それだけの話だった。
だから、この学校に何かを期待していたわけではない。
誰かと仲良くなろうとも思っていなかった。
ただ、目立たず、与えられた役割を演じるだけ。
それで十分だった。
教室の前で一度だけ深呼吸をする。
ガラリ、と扉を開けた。
その瞬間。
「不幸だぁぁぁっ! なんで入学初日から午後まで拘束されないといけないんだよ! 上条さんは弁当もなければ購買で何か買う金も持ってきてないことですよ!?」
教室中に響き渡る絶叫。
空は思わず足を止めた。
「にゃー。ちゃんと入学案内に午後までオリエンテーションって書いてあったぜよ。ひとえにカミやんの注意不足なんだにゃー」
金髪にサングラス、しかも制服ではなくアロハシャツという校則への挑戦そのもののような男子生徒が、呆れたように肩をすくめる。
「いやいや、土御門はんは分かっとらんなぁ」
今度は長身の青髪男子が、人差し指を立てて得意げに語り始めた。
「ここは隣のクラスの巨乳でドジっ子な委員長キャラが『あの……良かったら食べますか?』って手作り弁当を差し出すイベント発生のフラグなんや! ラブコメの基本やで!」
「そんな都合のいいイベントが現実にあるか!」
「カミやんは夢がない!」
「いや、お前が現実見ろ!」
三人のやり取りに、教室中の視線が集まる。
しかし誰も近付こうとはしない。
「ああいう連中なんだな」と距離を置きながら、苦笑して眺めているだけだった。
空も、その輪を少し離れた位置から眺める。
自然と口元が緩んでいた。
ーなんだろう。
あんなくだらないことで、本気になって騒げるんだ。
ただ弁当がない。
それだけの理由で大騒ぎをしている。
昨日まで自分が処理していた暗部の仕事では、人が死に、証拠が消え、血の匂いが夜風へ溶けていた。
それなのに。
目の前では昼食一つで世界が終わるかのように騒いでいる。
あまりにも馬鹿馬鹿しい。
だからこそ。
眩しかった。
ーこんな日常が、本当にあるんだ。
気付けば身体が動いていた。
「あのさ」
三人が同時に振り向く。
空は少しだけ困ったように笑いながら、鞄から小さな保存容器を取り出した。
「今日、弁当のおかずを少し作りすぎちゃってさ。よかったら卵焼きくらいなら分けられるけど」
教室が一瞬だけ静まり返る。
三人ともぽかんとした顔で空を見つめていた。
最初に反応したのは、ツンツン頭の少年だった。
「……マジで?」
「うん」
「マジでくれるのか!?」
「捨てるより食べてもらった方が嬉しいし」
次の瞬間。
「うおおおおおおっ!!」
上条当麻は勢いよく空の両肩を掴んだ。
「ありがとう! 本当にありがとう! 恩に着る! これで俺は生き延びられる!」
「大げさだな」
「瀬川はん!」
青髪ピアスがタッパーを見つめる。
「男子高校生の手作り弁当……! これは新たな属性の可能性――」
ゴンッ。
「痛ぁっ!」
「変なこと言うな!」
上条の拳骨が綺麗に頭へ落ちた。
「瀬川空、だったかにゃー」
土御門がニヤリと笑う。
「見た目は大人しそうなのに、いきなりこっちへ来るとは意外だぜよ」
「そうかな」
「普通は近寄らん」
「そういうもの?」
「そういうものなんだにゃー」
空は三人を見比べ、小さく笑った。
「でも、楽しそうだったから」
その一言で。
三人も笑った。
「俺は上条当麻!」
「土御門元春だにゃー!」
「青髪ピアスと呼んどくれ!」
三人が次々と名乗る。
空も軽く頭を下げた。
「瀬川空。よろしく」
その日。
教師ですら頭を抱えることになる問題児四人組が誕生した。
もっとも。
当の本人たちはそんな大層なものではなく、「昼飯を一緒に食べるようになっただけ」くらいにしか思っていなかったが。
♢
放課後。
四人は駅前のファミリーレストランへ流れ着いていた。
「おいカミやん、そのメロンソーダ何杯目や」
「三杯」
「子どもか」
「青髪、お前に言われたくねぇ!」
「瀬川はんは?」
「俺?」
空はテーブルへ置かれた缶コーヒーを軽く持ち上げる。
「ドリンクバーあるのに缶コーヒー持ち込む奴初めて見たぜよ」
「これじゃないと頭が回らなくてさ」
そう言って缶を傾ける。
極端に甘いコーヒーが喉を通る。
脳へ糖分が回っていく感覚に、小さく息を吐いた。
他愛もない話が続く。
好きな漫画。
ゲーム。
都市伝説。
教師の愚痴。
補習になったら誰が一番先に寝るか。
どれも取るに足らない話ばかりだった。
それでも空は、その時間が不思議でならなかった。
誰も死なない。
誰も泣かない。
誰も誰かを傷つけない。
こんな時間が、この街には確かに存在している。
ガラス越しに夕陽が差し込み、三人の笑顔を橙色に染めていた。
空は缶コーヒーを握ったまま、その光景を静かに目に焼き付ける。
ー守ろう。
この、どうしようもなく馬鹿で、どうしようもなく平和な時間を。
たとえ自分が空っぽでも構わない。
この日常だけは、決して壊させない。
その決意は誰にも知られることなく、甘いコーヒーの香りとともに、少年の胸の奥へ静かに沈んでいった。