潮の香りと、まとわりつくような潮風。
神奈川県、海沿いの観光街。本来であれば夏休みの行楽客で賑わうはずのその場所は、世界規模の認識書き換え魔術『エンゼル・フォール』の渦の中心と化していた。
「……ゲホッ、はぁ、はぁ……ッ」
裏路地の暗がりの中、空は口元を押さえ、どす黒い血の塊をコンクリートに吐き捨てた。
学園都市から自身の肉体を極限まで酷使して駆けつけた代償、そして何より、先刻この大魔術を自身の演算領域だけで強引に相殺した余波が、未だに彼の肉体を内側から破壊し続けていた。
バックグラウンドで展開している『肉体再生』と『痛覚遮断』の処理が僅かでも遅れれば、瞬時に脳髄が破裂して絶命する。綱渡りどころか、蜘蛛の糸の上を全力疾走するような極限状態だった。
ふと視線を上げると、遠くの浜辺や通りを、見慣れたツンツン頭の少年が走り回っているのが見えた。
上条当麻。空の無二の親友にして、右手に『幻想殺し』を宿す少年。
彼もまた、周囲の異常な「外見の入れ替わり」に気づき、混乱しながらも事態の核心へ向かおうと奔走しているようだった。
「……よかった。あいつは無事みたいだな」
ボサボサの髪の隙間から、空は目の下に深いクマを刻んだ顔に、いつもの虚ろでニコニコとした笑顔を浮かべ、ホッと息を撫で下ろした。
表舞台に立ち、理不尽な幻想をその右手でぶち壊すのは、いつだって上条当麻の役目だ。空はそれでいいと思っている。英雄の背中を守り、彼が帰るべき『日常』を死守することこそが、空っぽな自分に存在意義を与えてくれるのだから。
だが、空の安堵は長くは続かなかった。
(……チッ、嗅ぎつけてきやがったか)
虚ろな瞳が、路地裏の影から街の周囲へと鋭く向けられる。
巨大な魔力のうねりに引き寄せられたのか、あるいはこの異変をいち早く察知して制圧に動いたのか。海沿いの街の周囲に、魔術サイドの有象無象の結社や、正体不明の術師たちが次々と集結しつつあった。
彼らの動きは統制が取れていないが、そのベクトルは明確に「異変の中心」——つまり、現在進行形で走り回っている上条当麻の周辺へと向かっていた。
「あいつの邪魔は、させない。……極上の舞台を用意してやるって、決めたんだ」
空はポケットから、市販のブドウ糖タブレットを取り出して数粒噛み砕く。脳に無理やり糖分を叩き込み、路地裏のさらに深い影へとその身を溶け込ませた。
——掃討戦の開始だ。
「そこまでだ、科学の犬共……ッ!?」
街の入り口を封鎖しようとしていたローブ姿の魔術師が、不可視の一撃に吹き飛ばされ、建物の壁に深々とめり込んだ。
「な、何が起きた!? 迎撃しろ、術式を展開——」
混乱する別の魔術師が防壁のルーンを空中に描こうとした瞬間、闇夜の中から放たれた『何か』が、展開された魔術障壁ごと魔術師の肩を打ち抜いた。
「アッ、ガァアアアッ!?」
悲鳴を上げて崩れ落ちる魔術師たちの前に、足音もなく空が姿を現す。
彼の手のひらには、何の変哲もないガラスの「ビー玉」が数個握られていた。
『疑似発現』——演算領域拡張。
空は空洞のパーソナルリアリティに、常盤台中学のエースである御坂美琴の能力と物理法則を同時ペーストする。
指先に挟んだビー玉に『摩擦ゼロ』の理を付与し、さらに莫大な『運動エネルギー』を強引に乗せる。
「シッ——!」
空が親指でビー玉を弾く。
大気との摩擦すら消し去られたそれは、音もなく、光も発さず、ただ純粋な『擬似超電磁砲』となって暗闇を一直線に駆け抜けた。
衝撃波すら置き去りにするその不可視の狙撃は、術師たちの結界を紙切れのように撃ち抜き、次々と意識を刈り取っていく。
「ふざけるなッ! どこから撃ってきている!?」
「あそこだ! あのガキを殺せ!!」
生き残った魔術師たちが、空の位置を特定し、一斉に炎や雷光を伴う攻撃魔術の詠唱を開始する。
だが、遅い。
空は服の裏地から、安物の「トランプ」の束を引き抜いた。
カードの一枚一枚に『空間断裂』の理を乗せ、手首のスナップを利かせて周囲に扇状に投擲する。
ヒュンッ! という風を裂く音と共に、空間そのものを切断する刃と化したトランプが乱舞した。術師たちが練り上げていた炎の槍も、雷の矢も、そして詠唱を紡ごうとしていた杖や魔導書すらも、トランプが通過した瞬間に物理的な断面を残して「ズレ」て崩壊する。
「な、バカな……空間そのものを……ッ!?」
驚愕に目を見開く術師の首筋に、空が手刀を叩き込んで気絶させる。
これで、この区画のノイズは片付いた。
(……ッ、ガァッ……!!)
だが、その直後。空の視界が明滅し、強烈な吐き気が込み上げた。
咄嗟に大魔術を相殺したダメージが癒えきっていない状態で、高度な空間能力と運動エネルギー操作を並列展開したツケ。
立っているだけでも内臓を吐き出しそうなほどの激痛。鼻孔からとめどなく赤い血が滴り落ち、地面を汚す。
『肉体再生』の処理が追いつかず、脳の血管が何本か破裂する音を、空は自身の頭蓋の内で聞いた。
「はは……ッ、まだまだ、足りないな。バグが多すぎる」
それでも。空は足を止めなかった。
ふらつく足取りを、強引なベクトル操作で無理やり前へと押し出し、次の魔術師の集団が潜む区画へと向かう。
親友が、何の憂いもなく事件の核心に向かい合えるように。
理不尽な魔術の元凶の顔面に、その右手を叩き込めるように。
空はただそれだけのために、己の命と血を削りながら、周囲のノイズを徹夜で狩り尽くした。
夜明けの光が海を照らす頃には、上条当麻の進む道には、ただの一人の魔術師の影すら残されていなかった。