真夏の夜空が、文字通り「割れた」。
物理的な崩壊ではない。世界を覆っていた異質な魔術の膜が引き裂かれ、その奥から、本来この次元に存在してはならない圧倒的な質量の『力』が顕現したのだ。
巨大な水翼を持つ存在——『大天使』。
海沿いの街の暗がり、路地裏の物陰に身を潜めていた空は、その神々しくも禍々しい姿を見上げた瞬間、本能的な恐怖で全身の産毛が逆立つのを感じた。
(……冗談だろ。なんだよ、あれは)
好奇心から本能的に対象の法則を解析しようと稼働しかけ——直後、強烈な防衛本能によってその処理を強制シャットダウンした。
次元が違いすぎる。
もしあの水翼を構成するテレズマや神の法則を、僅かでも自身の演算領域にエミュレートしようとすれば、その瞬間に自身の脳細胞が文字通り「一瞬で消滅する」。直感が、いや、魂そのものがそう警鐘を鳴らしていた。
その絶望的な存在に対し、たった一人で死闘を繰り広げている者がいた。
『聖人』神裂火織。
彼女の振るう七天七刀の斬撃が、大天使の振るう水翼と激突するたびに、空間そのものが悲鳴を上げて震動する。神話の再現としか思えない、人間を超越した者同士の次元の違う闘い。
「……ッ!」
その時、大天使の巨大な水翼が大きく羽ばたいた。
神裂との衝突で弾かれた莫大な余波が、巨大な『衝撃波』となって街の方角へと——よりにもよって、上条当麻の父親らが逃げ込んだ海の家の方向へと一直線に向かっていくのが見えた。
(あそこは……上条の親父さんがいる場所……ッ!)
あの威力が直撃すれば、建物ごと中にいる人間は跡形もなく消し飛ぶ。
親友である上条当麻は今、自分の家族を守るために戦っている。
「……ふざけるな。あいつの日常を、壊させてたまるかッ!!」
空は物陰から躍り出た。
疲労とダメージで限界を超え、まともに動くはずのない両足を、強引なベクトル操作で無理やり前へと進ませる。
迫り来る神話級の衝撃波の前に立ち塞がった空は、コートの裏地から触媒である『ペン』を引き抜き、アスファルトの地面へと深々と突き刺した。そこから大地の地脈へアクセスし、強引に魔力を吸い上げる。
「『
空の空っぽな演算領域の中で、複数の能力と術理が同時並列で組み上げられていく。
第一層、学園都市の能力である『念動力』による物理障壁。
第二層、同じく『空力使い』による空気の壁。
第三層、さきほど神裂火織の太刀筋から強引に読み取った魔術の術理で作られた結界。
科学と魔術、本来交わることのない相反する理を無理やり重ね合わせ、見えない巨大な盾を構築する。
ズドォォォォォォォォォンッ!!!
直後、大天使の羽ばたきから生じた衝撃波が、空の展開した盾に激突した。
「ガ、ァ、アァァァァァァァァァッ!!!」
激突した瞬間、空の両腕の骨にピシッ、と嫌なヒビが入る音が響いた。
重圧などという生易しいものではない。まるで巨大なダンプカーと正面衝突したような衝撃が、盾越しに空の肉体を容赦なく蹂躙する。
展開した障壁がミシミシと悲鳴を上げ、許容量を優に超えた演算負荷によって、空の両目、耳、そして鼻から、おびただしい量のドス黒い血が間欠泉のように吹き出した。
バックグラウンドで展開している『肉体再生』と『痛覚遮断』をフル回転させても、破壊のスピードに再生が追いつかない。筋肉が千切れ、毛細血管が次々と破裂し、血が霧となって空中に散る。
一歩でも気を抜けば、防壁ごと肉体がミンチにされる絶望的な圧力。
それでも、空は一歩も引かなかった。
靴底をアスファルトに食い込ませ、血反吐を吐きながら、ただひたすらに前を睨みつける。
——俺の存在価値は、誰かの日常を守ることにしかない。
——だから、絶対に譲らない。上条が帰るべき、あのバカみたいな日常を守るために!
「おおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉッ!!!」
限界を超えてなお、空がさらなる演算を捻り出そうとした、その直後だった。
パリンッ——。
何かが、根底から崩れ去るような、乾いた音が世界に響いた。
空の全身を押し潰そうとしていた神話級の重圧が、まるで最初から存在しなかったかのように、嘘のようにフッと消え去る。
空を見上げれば、大天使の姿はすでに無く、ヒビ割れていた夜空が、本来の静かで美しい夏の星空へと戻っていくところだった。
「……あ……」
空は、支えを失ったようにガクンと膝から崩れ落ちた。
全身は血まみれで、両腕はだらりと垂れ下がり、呼吸をするたびに肺がヒューヒューと情けない音を立てる。
だが、その虚ろな瞳の奥には、確かな安堵が宿っていた。
遠くの空を見つめ、空はボロボロの口元を歪めて、いつものニコニコとした笑顔を作った。
「……ははっ。やっぱり、お前はすげえよ……上条」
何が起きたのかわからない。ただ全てが解決したことがわかった。
周囲に集まっていた魔術師たちは、大魔術の崩壊と共に蜘蛛の子を散らすように撤退を始めており、街を覆っていた異変も完全に解けた。
もう、空がこの場にいる理由は無い。
表舞台の英雄である上条に、裏で立ち回る掃除屋である自分が声をかける必要もない。上条には上条の、光の当たる場所での日常があるのだから。
空はふらつく足に力を込め、血だまりの中からゆっくりと立ち上がった。
「帰ろう……」
ぽつりと、誰に言うでもなく呟く。
夏休みが明ければ、また上条や土御門たち、悪友たちとの騒がしい学校生活が待っている。
そして何より——学園都市の片隅にあるあの薄暗い廃研究所には、自分のお帰りを待ってくれている『5人の家族』がいる。
『早く帰ってきてくださいね、ソラ』
『怪我をしたら私の特製サプリを飲ませますからね、マスター』
『美味しいコーヒーを淹れて待っていますよ、ソラさん』
『服が破けたらすぐに直してやりますからね、ボス』
『気をつけてくださいね、お兄ちゃん』
脳裏に蘇る、彼女たち一人ひとりの不器用で温かい声。
その響きを思い出すだけで、空っぽだった胸の奥底に、確かな熱が灯るのを感じた。
空は、ミトから渡されていたポケットの中の極甘の缶コーヒーを取り出し、震える指でプルタブを開けた。
一口飲む。強烈な砂糖の甘さと、口の中に残っていた鉄錆のような血の味が混ざり合い、ひどく泥臭い味がした。けれど、今の空にはそれが最高の美酒のように思えた。
「ただいま、って……ちゃんと言わないとな」
空は誰にも気づかれることなく、静かに夜の街から姿を消した。英雄の背中を守り抜いた、見えざる掃討戦の終わりだった。