8月31日、朝。
長かった夏休みも今日で終わりを告げようとしている。
学園都市の片隅にある多層階の廃研究所は、今日も5人の少女たちの賑やかな声で満ちていた。
リビングのソファに腰を下ろした空は、ボサボサの髪を片手で掻き回しながら、マグカップになみなみと注がれたコーヒーをすすった。ミトが栽培した特製カフェイン豆を抽出し、そこにこれでもかと砂糖をぶち込んだ極甘仕様だ。
「ソラ、忘れ物はない? 今日の仕事は、あなた自身が『過酷な任務』だと評していたと記憶しているけれど。宿題の進捗は問題ないのですか、とイチはスケジュールの最終確認を促します」
軍用ゴーグルを額に押し上げたイチが、クリップボードを手に真面目な顔で聞いてくる。
「ああ、宿題は夏休み初日に全部終わらせたから問題ない。ただ、これからの仕事は夏休みの宿題をもう一周した方がマシに見えるほど厳しい戦いだ。」
「マスター。極度のストレスと演算の並列処理は脳のカロリーを著しく消費します。追加のブドウ糖タブレットと、ついでに私の特製『超活性化アドレナリン・サプリ』を支給します、とニナは白衣のポケットから怪しい小瓶を差し出します」
薬学階担当のニナが不敵に笑いながら差し出してきた、緑色に発光する小瓶。
空は苦笑しながら、タブレットだけを受け取り、小瓶はそっとテーブルの端に避けた。
「ありがとう、イチ、ニナ。行ってくるよ。今日は……バカどもとの付き合いがあるから、帰りが少し遅くなるかもしれない」
「ソラさん、いってらっしゃい。夕食には今日収穫する予定の野菜をたっぷり使ったシチューを所望します、とミトは笑顔で手を振ります」
「ボスの戦闘用ジャケット、裏地の修繕と予備触媒の補充は完璧に完了している。トランプもビー玉もペンもフル装填済みだ。いつでも暴れられるぞ、とシノは物騒なセリフと共に親指を立てます」
「今日は暴れる予定はないって。ただ頭を使う戦いだな。」
空が苦笑いを浮かべて立ち上がると、後ろからドンッと小さな衝撃がぶつかってきた。
「お兄ちゃん、予定が終わったら早く帰ってきてね! 一緒に新しい対戦ゲームする約束なんだから! とイツキは空の腕に抱きついて甘えます」
末っ子のイツキが、空の腕をホールドして上目遣いで見上げてくる。
(……ああ、最高だな)
イチは「ソラ」と呼び、ニナは「マスター」、ミトは「ソラさん」、シノは「ボス」、そしてイツキは「お兄ちゃん」と呼ぶ。
全員が同じ顔、同じ声をしているのに、彼女たちは確かに別々の個性を持ち、それぞれが異なる距離感と愛情で自分を慕ってくれている。
空洞化させていた空のパーソナルリアリティの奥底が、じんわりと温かいもので満たされていく感覚があった。
他者の日常を守ること。その究極の形が、この場所にある。
「任せとけ、シノ、ミト。イツキも、すぐ帰ってくるからな」
空は5人の頭を順番に撫でていく。最初は戸惑っていた彼女たちも、今では気持ちよさそうに目を細めてそれを受け入れていた。
いつもの虚ろさを孕んだニコニコした笑顔ではなく、自然とこぼれ出た柔らかな笑みを浮かべ、空は足取りも軽く研究所の扉を開けた。
♢
「なあ、頼むよ。ここはひとつ上条さんを助けるためだと思ってさ! な!? 減るもんじゃないだろ!?」
学園都市の一角。燦々と降り注ぐ真夏の太陽の下で、ツンツン頭の少年——上条当麻が案の定のお願いをしてきた。
「いやー、そう簡単に宿題は見せられないんだにゃー。カミやんが夏休みの間、あっちこっちでフラグを立てて回ってたツケが回ってきただけなんじゃないかにゃー?」
「カミやん、ここはいっそボクと一緒に小萌センセのあつーい補習指導を受けようやないか。あの合法ロリのセンセに叱られるのもまた一興……!」
切羽詰まっている上条とは対照的に、サングラスをかけた土御門元春と、青髪ピアスの二人はおちゃらけた態度で笑い飛ばしている。
「へっ、お前ら二人には端から期待してねぇよ! 瀬川さん、空様! 是非ともこの哀れな不幸少年に慈悲とお恵みを……!」
上条が縋るような目で空を見てくる。
空は目の下の深いクマを撫でながら、ニシシと笑った。
「悪いな上条、見せるのは構わないけど、俺の字、絶望的に汚いぞ? 読解するのに辞書がいるレベルだ」
「それでも構わねえ! 白紙で提出するよりはマシだぁぁぁ!」
(そういえばここら辺、常盤台の寮の近くだよな……)
上条の嬉しい悲鳴を聞き流しながら、空は周囲の景色に目を向けた。学園都市第七学区でも有数の高級住宅街。常盤台中学の学生寮が立ち並ぶエリアだ。
「あっ、あー! ごめーん、待ったー?」
ふと、空の耳に聞き慣れた声が届いた。
声の方向を見ると、栗色のボブカットを揺らしながら、美琴がこちらに向かって大きく手を振って小走りで寄ってくる。わざとらしいほど明るい声で、誰かと待ち合わせをしていたような素振りを見せている。
(なるほど。最近文句を言っていた海原から逃げるためのカモフラージュか、それともただの口実か……上条、だろうな。さあ上条、どうするんだ?)
美琴本人は認めないだろうが、空にとって美琴が上条に好意を寄せていることは明らかであった。
一人内心でニヤニヤと盛り上がりながら、空は上条の反応を窺う。
「あー、それで瀬川。マジで頼むわ。最初の国語のプリントだけでもいいからさ!」
期待するだけ無駄だった。
上条は上条だったのだ。彼の『幻想殺し』は都合の悪い空気までは殺せないらしい。まるで美琴の声が耳に入っていないかのように、空にすがりついて話を続けている。
「って、無視すんなやゴラァァァ!!」
バチバチッ! と青白い火花を散らしながら、美琴が突如として上条の横っ腹にタックルを仕掛けた。
「ぐふぁッ!?」
常人なら黒焦げになる電撃も、上条の右手が触れた瞬間に打ち消される。しかし、物理的な体当たりは見事にクリーンヒットし、上条は蛙が潰れたような声を出してよろけた。
確かに空やバカカルテットの面々から見れば、それは「怒りのタックル」以外の何物でもなかった。
だが、周囲を歩いていた世間知らずな常盤台のお嬢様たちからは、そうは見えなかったようだ。
「あら……御坂さま、いきなり殿方に抱きつくだなんて…」
「超能力者の御坂さまと、白昼堂々あのようなご関係になるだなんて、あちらの殿方はどなたなのでしょう……?」
ひそひそと、しかし確かな興奮を孕んだ声が周囲から漏れ聞こえてくる。当然、寮の目の前での大胆な行動は、あっという間に注目を集めてしまった。
「カミやん、宿題なんて隠れ蓑にして、俺らにお嬢様とのイチャイチャを見せつけようって魂胆だったのかにゃー?」
土御門が怒りからかピクピク震える。
「女子中学生にまで手を出すやなんて、カミやんはどれだけ悪食なんや…!」
青髪ピアスが謎の涙を拭う。
バカ二人にも、タックルには見えなかったようだ。
「う、う、うわーーーん!」
周囲の好奇の目線に耐えかねた美琴は、顔を真っ赤にして茹でダコのように沸騰した。
そして、美琴は上条の手首をガシッと掴むと、そのまま凄まじい脚力で上条を引きずりながら、脱兎のごとく逃げていってしまった。
「えっ、ちょ、ばっ、俺の宿題がぁぁぁ!!」
最後に上条が何か叫んでいたが、もうどうにもならない話であった。
残された三人は、上条の悲鳴が遠ざかっていくのを眺めていた。
空は、缶コーヒーを一口飲み、彼らのドタバタ劇を生暖かい笑顔で見送る。
裏社会で血反吐を吐きながら戦う暗部の掃除屋としての自分。
そして、こうして親友のバカな日常を笑って見守る自分。
(……やっぱり、この日常は守る価値がある)
空洞の心を心地よい温もりで満たしたのであった。