『疑似発現』。
自らのパーソナルリアリティの壁を叩き割った瞬間、空の脳髄に、世界中に散らばる約一万人の「妹達」の思念と、第一位・一方通行が構築しかけていた神の如き演算式が、凄まじい濁流となって流れ込んできた。
「ガ、ガァッ……ゴハァッ!!」
一瞬で眼球の毛細血管が弾け飛び、空の視界が真っ赤な血の色に染まる。両耳の奥で、鼓膜がパチンと弾け飛ぶ嫌な音がした。
普段なら無意識下で即座に展開される『肉体再生』と『痛覚遮断』のプロセスすら、一万人分のネットワークの処理に演算領域のすべてを奪われ、真っ赤なエラーを吐き出して強制終了していく。
痛い。熱い。頭蓋骨の中で脳髄が風船のように膨張し、今にもスイカのように弾け飛びそうだ。
自我が、瀬川空という一人の人間の輪郭が、巨大なデータの海に溶けて消え去りそうになる。一万人の意識の波に呑み込まれれば、自分という存在は跡形もなく霧散してしまう。
(消えろ、消えろ消えろッ! 俺はどうなったっていい! だから、あいつらの……ッ!)
激痛と恐怖に発狂しそうになる精神を、空は「5人の妹達の顔」を思い浮かべることで強引に繋ぎ止めた。
薄れゆく意識の中で、必死にキーボードを叩くような感覚で、一方通行が残したコードの欠片を脳内の演算領域でかき集める。
一方通行が自らの脳を撃たれながらも紡ぎ出した、ミサカネットワークを救うための緻密で美しい数式。その最後の数行を、空は自分の脳細胞を燃料として燃やしながら構築し、広大なネットワークの海へと叩き込む。
「……ッ! これで、最後だッ……!」
血反吐を吐きながら、空は脳内で決定のキーを押し込んだ。
その瞬間。空の脳裏で何かがショートするような、強烈な閃光が走った。
「……あ……」
視界の端、路地裏で倒れ伏していた幼い少女——打ち止めの苦悶の表情が、スッと和らいだ。
彼女の脳内で暴走しかけていたウイルスコードが完全に書き換えられ、消去されたのだ。それに伴い、ミサカネットワーク全体の異常な負荷も沈静化し、完全な安定化が完了する。
「……ははっ……間に合っ、た……」
直後、空の意識を繋ぎ止めていた細い糸がプツリと途切れた。
彼は物陰の暗がりの中、自らが吐き出した血だまりの中へと、糸の切れた操り人形のように力無く座り込んだ。
一方通行が最強の座を捨て、自らの命を懸けて守り抜いた少女。そして、空が己の自我と命を削って裏から繋ぎ止めたネットワーク。
決して交わることのない二人の行動が、奇跡的に一つの悲劇を食い止めたのだ。
(終わった、な……)
遠のく意識の中で、空は夜空を見上げた。
エツァリの襲撃の裏での瓦礫処理、そして一方通行の演算のバックアップ。
空の長く、濃く、そしてあまりにも血生臭い『8月31日』は、ようやく終わりを告げたのだ。
♢
それから、数時間が経過した。
日付はすでに9月1日へと変わっている。
学園都市の片隅に佇む多層階の廃研究所。その重厚なセキュリティ扉が、電子音と共にゆっくりと開いた。
「はぁ……はぁ……」
足を引きずるようにして中に入ってきた空は、もはや立っているのが不思議なほどの満身創痍だった。頭痛は治まらず、衣服は自身の血と汗でどす黒く変色している。
リビングへ向かうと、そこにはソファーやラグの上で、身を寄せ合って眠る5人の少女の姿があった。
ウイルスによるネットワーク暴走の影響は一切見られない。彼女たちの穏やかな寝息が、空の命を懸けた演算が成功した何よりの証拠だった。
その平和な光景を見た瞬間、空の張り詰めていた緊張の糸が、完全にほどけた。
ガクン、と膝の力が抜け、床に手をつく。
その僅かな物音に気づき、毛布にくるまっていたイツキが目をこすりながら起き上がった。
「ん……お兄ちゃん……? おかえりなさい、とイツキは……」
寝ぼけ眼で空を見たイツキの言葉が、途中で凍りつく。
「えっ……お、お兄ちゃん、血だらけ!?」
イツキの悲鳴のような声に、他の4人もビクッと体を震わせて跳ね起きた。
「ソラ!? どうしてそんな……急いでイツキ、救急キットを! ニナも手伝って! とイチがパニックになりながらも指示を飛ばして叫びます!」
「マスター! 待っていてください、すぐに細胞を強制分裂させる劇薬の準備を……ッ、とミサカは顔面蒼白で白衣を翻します!」
「ソラさん……っ、血が、こんなに……! とミトは震える手でソラさんの顔を拭おうとします!」
「ボス、しっかりしろ! 倒れるならこっちに倒れろ! とシノが慌てて体を支えます!」
イチが救急箱を探して走り回り、ニナが物騒な薬を取りに研究所の奥へ向かおうとし、ミトが涙ぐみながら空の顔の血を拭い、シノが崩れ落ちそうになる空の体をその細い腕で必死に支え込む。イツキは空の腕にしがみついて半泣きになっている。
「……ははっ」
血まみれで、ボロボロで、今にも死にそうな状態だというのに。
空の口からこぼれたのは、いつもの虚ろさを孕んだものではない、心底幸せそうな、柔らかい笑い声だった。
彼女たちが、彼女たちのままで、こうして無事に生きている。
自分を呼んでくれる、5つの大切な名前がある。
その事実だけで、空っぽだった彼の胸の奥は、これ以上ないほどの温かさで満たされていた。
「ただいま、みんな。……ああ、最高の夏休みだったよ」
限界を迎えていた空の意識は、今度こそ完全にシャットダウンした。
しかし、路地裏の冷たい血だまりに倒れ伏した時とは違う。
ボスの体を支えるシノの力強い腕。泣きながら顔を拭いてくれるミトの手。ソラ、マスター、お兄ちゃんと、自分を呼んでくれる家族たちの温かい声。
それらに包まれながら、空は泥のように、深く、安らかな眠りに落ちていった。
明日から始まる新学期。
またバカ騒ぎをする表の日常と、血反吐を吐きながら世界を守る裏の日常が始まる。
だが、帰るべきこの場所がある限り、瀬川空という器が壊れることは、決してない。