九月一日、朝。
学園都市に降り注ぐ真夏と変わらぬ強烈な日差しが、第七学区の廃研究所のコンクリート壁をじりじりと焼き付けている。換気扇の回る微かな音に混じって、遠くからけたたましい蝉の鳴き声が響いていた。
「……ん、ぁ……」
リビングのソファで目を覚ました空は、全身の骨がギシギシと軋むような鈍い痛みと、鉛を引きずるような体の重さに小さく呻いた。
視界がチカチカと明滅し、耳の奥では不快な耳鳴りが絶え間なく鳴り続けている。口の中に広がるのは、ひどく泥臭い鉄錆のような血の味だ。
昨夜、ミサカネットワークのウイルス除去という、一万人規模の並列処理を己の空洞化した演算領域で強引に引き受けた代償は、たかだか数時間眠ったくらいで消え去るほど生易しいものではなかった。
バックグラウンドで絶え間なく展開し続けている『肉体再生』と『痛覚遮断』のおかげで、眼球や鼻腔の毛細血管の破裂、千切れた筋肉の繊維などは無理やり縫い合わされている。しかし、規格外の情報量を処理した脳細胞の奥底には、真っ黒に焼け焦げたような疲労感がべったりと張り付き、呼吸をするだけで脳髄が軋むような幻痛を訴えていた。
(……それでも、俺は生きているし、世界も回ってる)
「お兄ちゃん! 目が覚めたのですか! とイツキは安堵のあまり空の胸に飛び込みます!」
「ぐふっ!?」
思考をまとめようとした矢先、ドンッ! と勢いよく小さな質量がダイブしてきた。
末っ子のイツキを咄嗟になんとか受け止める。ひび割れを接着したばかりの肋骨に鈍い衝撃が走ったが、腕の中に伝わる確かな温もりと、石鹸の柔らかな香りが、昨日までの絶望的な死闘が本当に終わったのだという実感を、空の空っぽな胸の奥に与えてくれた。
「よかった……。昨夜は血まみれで倒れ込むものですから、どうなることかと生きた心地がしませんでした、とイチは今更ながらに震える息を吐き出します」
リーダーのイチが、いつもの軍用ゴーグルを額にずらし、目元を少し赤くしながら空の顔を覗き込む。彼女の細い指が、空のシャツの袖口をきゅっと強く握りしめていた。
「心配かけてごめんな、イチ、イツキ。もう大丈夫だ。……今日から新学期だし、しっかりしないとな」
ボサボサの頭をゆっくりと撫でながら身体を起こす。
すると、キッチンの方から何やら不穏な焦げた匂いと、微かに鼻を突く化学薬品のような異臭、そしてカチャカチャと食器が慌ただしく触れ合う音が聞こえてきた。
見れば、ニナ、ミト、シノの三人が、キッチンのカウンターにずらりと並んで立っている。彼女たちの目の前には、何やら四角い箱が一つ、まるで重要な祭壇のように置かれていた。
「マスター。本日から学業が再開されるとのことですね。そこで、ニナたちはマスターのカロリー消費と健康状態を著しく憂慮し、一つの重要プロジェクトを遂行しました、とニナは自信満々に白衣の胸を張ります」
ニナが恭しく両手で差し出したのは、黄色いプラスチック製の不格好な弁当箱だった。
しかし、ただの弁当箱ではない。
蓋の周りにはなぜか銀色のダクトテープが厳重に貼られて密閉されており、隙間からは謎の青みがかった液体が微かに滲んでいるようにも見える。
「ソラさん。ソラさんの低下した基礎代謝と栄養価、そしてカフェイン摂取効率を極限まで高めた、ミサカたちの特製弁当です、とミトは笑顔で中身の危険性を隠蔽しつつ報告します」
「ボスの激しい運動と暗部活動に耐えうるよう、米粒の圧縮率は通常の三倍。衝撃吸収用に高密度の卵焼きを配置し、さらに外装は断熱材と耐衝撃コーティングを施した完全な戦術的携行食料に仕上がっているぞ、とシノは弁当箱の圧倒的な耐久性をアピールします」
空は、引き攣りそうになる頬を引き締めながら、その弁当箱を両手で受け取った。
ずしり。
見た目のプラスチック感からは想像もつかない、まるで鉄アレイでも持たされたかのような恐ろしい重量感が腕に伝わってくる。
「……お前ら、まさか俺が寝ている間に、早起きしてこれを作ってくれたのか?」
「はい! 卵焼きは、お兄ちゃんが前に作ってくれたのを思い出して、イツキが自分でフライパンを握って巻いてみました! ちょっと火力が強すぎて焦げちゃいましたけど……とイツキは照れくさそうに指をこすり合わせながら自慢します」
「……」
イチが深々と、心底疲労したようなため息をついた。
「ニナの怪しい青色造血サプリや、ミトの致死量に近いカフェイン香辛料が大量に混入するのを防ぐため、このイチが調理過程を厳重に監視し、命懸けの味見を行いました。……多少の味の乱高下と、シノの圧縮技術による顎関節への負担はありますが、直ちに生命の危機に達するような代物ではないはずです、とイチは視線を逸らしつつ、リーダーとしての最低限の保証を提示します」
「致死量には達していない」という、本来弁当に対して使ってはいけない物騒な保証の言葉に、空は限界を超えていたはずの脳みそが嘘のようにクリアになるのを感じ、思わず吹き出してしまった。
「ははっ、あははははっ! なんだよそれ、兵器か何かかよ」
空の笑い声が、冷たいコンクリート剥き出しの廃研究所に響き渡る。
虚ろさを孕んだいつもの防衛機制の笑顔ではなく、お腹の底から湧き上がる、どうしようもないほどの愛おしさに満ちた笑いだった。
手の中にある、いびつで、重たくて、少し焦げ臭いプラスチックの箱。
それは、かつて木原虚によって「他者に愛着を持った瞬間にすべてを破壊される」というトラウマを植え付けられ、自己防衛のために心を空洞化させた瀬川空にとって、絶対に手に入らないはずだったものだ。
「自分なんて空っぽの代替品でいい」と、他人の日常をエミュレートし、誰かの平和な舞台の裏で血反吐を吐いて死んでいくことだけが己の存在価値だと思い込んでいた。
だが、今は違う。
彼が昨夜、脳の血管をブチ撒けながら命を懸けて守り抜いた「結果」が、この不器用で愛おしい手作りの弁当として、確かな重みを持って彼の手の中にある。
昔、自分に名前をくれた恩人・瀬川さんが不器用に作ってくれた焦げた卵焼きや、温かいコーンスープ。あの時感じた、胸の奥がじんわりと熱くなる感覚が、今、五人の少女たちを通して空の心に鮮やかに蘇っていた。
「……ありがとう。お前たちの気持ちが、すっげぇ嬉しい。今日の昼休みに、絶対残さず全部食うよ」
空は弁当箱を大切に胸に抱え込み、五人の家族に向けて心の底からの本物の笑顔を向けた。
その表情を見た妹達も、軍用ゴーグルの奥の瞳を和らげ、少し照れくさそうに、けれど嬉しそうに口角を上げる。
「マスター。極度のカロリー摂取に向け、胃粘膜を保護するための食前薬を……」
「いや、ニナ、それはいい。お前らの愛情だけで胃薬は不要だ」
軽口を叩き合いながら、空はソファに置かれていた新しい高校の制服に袖を通す。
シノが仕立て直してくれたその制服は、裏地から触媒であるトランプやビー玉が取り出しやすいようにミリ単位で調整されていた。
「よし、それじゃあ行ってくる。今日は始業式だし、バカどもと顔を合わせるだけだから早く帰れると思う」
空は玄関でスニーカーの踵を鳴らし、冷蔵庫から取り出した極甘の缶コーヒーのプルタブをパキリと開けた。
一口飲み込み、暴力的な糖分で脳にスイッチを入れる。
「ソラ、気をつけていってらっしゃい。お帰りを待っています、とイチは代表して見送りの言葉を述べます」
「いってらっしゃい、お兄ちゃん! 帰ってきたら、この前セーブしたゲームの続きをやりますからね! とイツキは大きく手を振ります」
ニナ、ミト、シノもそれぞれ小さく手を振って彼を見送る。
「ああ、行ってきます」
重たい弁当箱の入ったカバンを肩に掛け、空は廃研究所の重い鉄扉を開けた。
外の世界に広がるのは、相変わらず理不尽で、暗部の影が蠢き、表の英雄である親友が走り回る、過酷な学園都市の日常だ。
だが、今の彼には、どんなに血反吐を吐いてでも必ず帰らなければならない「特等席」がある。
夏の終わりの眩しい太陽の光の中へ、瀬川空は足取りも軽く、新学期の始まりへと歩き出した。