「はぁ……不幸だ……」
九月一日。新学期を迎えた第七学区の高校。
窓の外では容赦なく照りつける真夏の日差しに焼かれ、蝉がけたたましい合唱を響かせている。クーラーの効いた教室の自分の席で、上条当麻は机に突っ伏し、魂が口から抜け出たような情けない声を上げていた。
「教室まで可愛い女の子がわざわざ追いかけて来てくれて、一体全体どこが不幸なんだにゃー、カミやん?」
「ホンマやで! ボクも夏休みにカミやんと一緒に姫神はんに会ったはずやのに、姫神はんはカミやんのことしか覚えてないみたいやし! ボクの方がよっぽど不幸やで……!」
瀬川空、土御門元春、青髪ピアスの三人が、いつものように上条の机を囲んでヤンヤと囃し立てている。転校生である姫神秋沙が上条と既に顔見知りだったと言うだけでもクラスは十分騒然としたであろうが、その前に謎のシスター、つまりインデックスが上条を訪ねて教室にやって来たとなり、かなりの紛糾を起こした直後であった。
「うるっせぇ! お前らはいいよな、クーラーの効いた部屋で平穏無事な夏休みを満喫しやがって! 上条さんなんて昨日の夜遅くまで……って、あれ?」
文句を垂れ流していた上条は、ふと顔を上げ、空の顔をじっと見つめた。
「瀬川、お前なんか顔色悪くねぇか? 目の下のクマ、いつもよりひどいぞ。なんか死にかけの幽霊みたいだ」
上条の直感的な指摘に、空はビクッと肩を揺らしそうになるのを堪えた。
無理もない。空の顔色は、幽霊どころか文字通り「死に損ない」のそれだった。
(……そりゃそうだろ。お前が海原の偽物と戦ってる裏で巨大な瓦礫を空中で粉砕し続けて、そのあと第一位の演算を強制バックアップして脳髄が破裂しかけたんだからな……)
バックグラウンドで絶え間なく稼働している『肉体再生』と『痛覚遮断』の恩恵で、表面的には平然を装っているが、頭蓋骨の内側では未だに脳細胞が焼け焦げたような鈍痛が渦巻いている。少しでも気を抜けば、鼻の奥からどす黒い血がツーッと垂れてきそうだった。
「あー、ちょっと昨日、夜更かししてゲームのレベル上げを頑張りすぎちゃってさ。夏休みの最終日って、つい徹夜したくなるだろ?」
空はボサボサの頭を掻きながら、いつもの虚ろさを孕んだニコニコとした笑顔で誤魔化した。
「お前なぁ、新学期初日から徹夜明けって小学生かよ」
上条は呆れたようにため息をつき、それ以上は追求してこなかった。
だが、そのやり取りの傍らで土御門元春だけが、サングラスの奥の鋭い視線で空を観察していた。
土御門は小さく口角を上げたが、あえて何も言わず、いつものおちゃらけた態度を崩さなかった。
やがて、午前授業の終わりを告げるチャイムが学校中に鳴り響く。
♢
新学期初日は午前中のみで放課後となる。教室のあちこちから、生徒たちの解放感に満ちた声が上がり始めた。
「さてと、これからアイツの餌付けをしに行くかぁ……今月も財布の中身が氷河期だぜ……」
自身のスッカラカンの財布を覗き込み、再び絶望の淵に沈む上条。
その横で、空は鞄の中からゴソゴソと「あの四角い物体」を取り出した。
「なんやそれ! 瀬川はん、午前で終わりやのに弁当なんて張り切りすぎやないか?」
青髪ピアスが目ざとく見つける。
「しかもその不格好なガムテープの包み方……。空、お前さんさては、女子の手作り弁当だにゃー!?」
土御門の囃し立てる声に、死んでいた上条がガタッと勢いよく立ち上がった。
「なっ、抜け駆けか瀬川!? お前、いつの間にそんな甘酸っぱいラブコメイベントを……! 上条さんにはそんなイベントなんて程遠いのに!」
「彼女じゃねえよ。……家族が、作ってくれたんだ。昼はいらないって言い出せなくてさ」
空は土御門と青髪ピアスに殴られる上条を横目に、弁当箱の蓋を厳重に塞いでいた銀色のガムテープをベリベリと剥がし始めた。
三人の悪友たちが、どんな可愛らしい弁当が出てくるのかと期待の眼差しを向ける中、空はパカッとプラスチックの蓋を開けた。
瞬間。
夏の熱気が充満していた教室の空気が、少しだけ、いや、完全に凍りついた。
「…………」
「…………」
「…………」
上条、土御門、青髪の三人は、弁当箱の中身を見た途端、声もなく一歩後ずさった。
そこにあったのは、およそ『弁当』という概念から逸脱した、色とりどりのキメラだった。
シノの工学技術によって極限まで圧縮された結果、もはや餅のように固まり、弁当箱の半分を占拠する白米。
その上には、ニナが振りかけたであろう、青白く不気味に発光している謎のサプリメント粉末がまぶされている。
おかずのスペースには、ミトの栽培した特製スパイスにより、赤黒くドロドロに染まった得体の知れない肉炒めが鎮座している。
そして唯一、まともな形を保っているが、端が真っ黒な炭のように焦げた卵焼き。
「せ、瀬川はん……それ、弁当箱の形をした生物兵器と違うか……?」
青髪ピアスが震える声で呟く。
「空……お前さん、家族に命を狙われてるのかにゃー……? 今すぐ捨てた方が身のためだぜよ」
土御門すらもサングラスの奥でドン引きしている。
「失礼なこと言うなよ。愛情たっぷりだ」
悪友たちの反応をよそに、空は迷うことなく割り箸を割り、焦げた卵焼きと青く発光する米を一緒に口へと運んだ。
「……ッ!」
咀嚼した瞬間、舌の感覚が完全に麻痺するような強烈な苦味と、それを無理やり上書きしようとする致死量の甘さ、そして青いサプリメントのミントのようなスースーする痛覚刺激が、口の中でビッグバンを起こした。
控えめに言って、味覚の暴力。人間の脳の処理能力を軽く凌駕する、カオス極まる味がした。胃袋が直接殴られているような不快感すらある。
だが。
「……うまいよ」
空は、内臓の痛みに涙が出そうになるのを堪え、心底嬉しそうに目を細めて笑った。
この弁当には、確かに「彼女たち」がいる。
自分の帰りを待ってくれている、イチ、ニナ、ミト、シノ、イツキ。五人の少女たちの不器用で、いびつで、けれど何よりも温かい愛情が、このプラスチックの箱の中にぎっしりと詰まっているのだ。
恩人である瀬川さんが作ってくれた焦げた卵焼きと同じ、空の空洞を埋めてくれる絶対的な救いの味がした。
「お前……マジかよ。ゲームのやりすぎで味覚にガタが来たのか……?」
上条が、恐怖すら入り混じった引き攣った顔で突っ込みを入れる。
「上条も一口食うか? 頭がスッキリするぞ。……あ、でもこれ以上『記憶』が飛んだら困るか?」
空は冗談めかして箸を差し出す。
「い、いらねぇよ! 記憶が飛ぶどころか命が飛ぶわ!」
上条が全力で後退し、土御門と青髪が腹を抱えて笑い転げる。
騒がしい教室。
窓の外では相変わらず蝉が鳴きしきり、上条の情けない叫び声と、悪友たちの遠慮のない笑い声が心地よく響いている。
空はポケットから取り出した極甘の缶コーヒーのプルタブを開け、暴力的な味の弁当を甘ったるい液体で強引に胃へと流し込んだ。
(俺は空っぽだ)
窓の外の、高く澄み切った青空を見上げる。
(でも、空っぽだからこそ……こんなにも愛おしくて、騒がしい日常を、限界まで詰め込むことができる)
血反吐を吐き、命を削って暗部を駆け抜けたあの長く残酷な夏は終わり、新しい季節が始まる。
自分が守り抜いた表の英雄と、自分が帰るべき裏の家族。
瀬川空の「平和な新学期」は、焦げた卵焼きの味と共に、確かに幕を開けたのだった。