第四十七話:見えざる防波堤(インビジブル・ウォール)
九月一日、午後。
新学期初日の放課後を迎えた学園都市の地下街は、多くの学生や買い物客で溢れ返り、活気に満ちていた。地上で猛威を振るううだるような残暑を避けるための巨大な地下空間は、適度に冷房が効き、友人同士の談笑やショップのBGMが響き渡る、平和な日常の象徴そのものだった。
だが、その平穏は突如として、科学の街には決して存在してはならない理不尽な暴力によって打ち砕かれた。
ズドォォォォォンッ!!
「キャアアアアアアアッ!?」
「逃げろ! 早く!!」
悲鳴と怒号が地下街のドーム状の天井に反響する。
強固なはずの地下通路の分厚いコンクリート壁が、まるで泥細工のように内側から崩れ落ちた。もうもうと舞い上がる土煙の中から姿を現したのは、岩とコンクリート、アスファルトの破片で構成された全高三メートルを超える巨大な腕——いや、巨大な『人型の怪物』だった。
イギリス清教の魔術師、シェリー=クロムウェルが使役するゴーレム・エリス。
科学の最先端たる学園都市のど真ん中に顕現した魔術の産物が、無機質な唸り声を上げ、無差別に地下街の施設とインフラを破壊し始めていた。
「そこまでですのッ!」
逃げ惑う群衆を背に庇うように、小柄なツインテールの少女が躍り出た。
風紀委員の腕章を翻す、常盤台中学の白井黒子だ。
彼女は太もものホルダーから鉄矢を引き抜き、瞬時に『空間移動』の演算を立ち上げる。ヒュンッ、という風切り音と共に、鉄矢がゴーレムの関節部分の空間へ直接転送され、巨大な腕を内側から切断した。
だが、黒子の顔には余裕ではなく、焦燥の色が濃く滲んでいた。
「くっ……なんだってんですの、あの化け物は! 壁の材質を取り込んで、瞬時に再生している!?」
切り落とされたはずのゴーレムの腕が、床に転がる瓦礫や壁のコンクリートを磁石のように吸い寄せ、数秒も経たないうちに元のサイズ以上のいびつな腕として修復・肥大化していく。
圧倒的な質量と、物理法則を無視した再生能力の暴力。空間移動という強力な攻撃手段を持っていながらも、倒すたびに再生を繰り返す怪物に対し、風紀委員の力だけでは次第にジリ貧に追い込まれようとしていた。
ギギギ……と不気味な音を立てて、ゴーレムの巨大な拳が振り上げられる。狙いは、市民を避難させるために足を止めた黒子の頭上だった。
(しまっ——!)
『エミュレート——摩擦係数ゼロ、及び流体反発』
誰にも聞こえない、感情の抜け落ちた低い声と共に。
地下街の天井付近、薄暗い通風孔の影から弾き出された数個のガラスのビー玉が、振り下ろされるゴーレムの拳と黒子の間に滑り込んだ。
ガンォォォォンッ!!
耳を劈くような轟音。
直撃すれば人体など容易くひしゃげるはずのゴーレムの巨大な拳が、空中の見えない『何か』に激突したかのように、不自然極まりない角度で大きく軌道を逸らされた。
凄まじい運動エネルギーの行き場を失った拳は、黒子のすぐ横のコンクリートの床に直撃し、クレーターのような大穴を穿ちながら粉砕した。
「え……?」
すぐ横で起きた現象が理解できず、呆然と立ち尽くす黒子。
「……よし、間一髪だな」
混乱と土煙に包まれる現場から少し離れた、通風孔の暗がり。
瀬川空は、黒のロングコートの裏地に手を突っ込んだまま、静かに息を吐いた。
だが、その安堵とは裏腹に、彼自身の身体は悲鳴を上げていた。
(……っ、ガッ……)
ズキン、と頭蓋骨の内側をハンマーで殴られたような激痛が走る。複数の物理法則を小さなビー玉という触媒に同時ペーストし、巨大な質量を持つゴーレムの拳の軌道を強引に捻じ曲げた代償だ。
空の鼻の奥から、ツーツーと赤い血が垂れ落ちる。それを袖口で乱暴に拭いながら、彼は即座にバックグラウンドで『肉体再生』と『痛覚遮断』の演算を立ち上げ、千切れかけた脳の毛細血管を無理やり縫い合わせた。血反吐の味を唾液ごと飲み込み、空は乱れた呼吸を整える。
彼の耳には、ポケットに突っ込んだ通信端末から、統括理事会直属の暗部回線による冷酷な指令が流れ続けていた。
『——第七学区地下街にて未登録魔術師の侵入を確認。対象の排除、及び地下街被害の隠蔽・清掃を速やかに実行せよ』
「あいつの正体はイギリス清教の魔術師、シェリー=クロムウェル。……やっぱり、上条も近くにいるな」
空の研ぎ澄まされた感覚——空洞化したパーソナルリアリティは、地下街のさらに奥深くで、親友である上条当麻の気配を明確に捉えていた。
彼が『幻想殺し』の右手を握りしめ、インデックスではないもう一人の少女——どこか人工的な歪さを纏った謎の少女のために、魔術師本人と正面から対峙し、戦っていることを。
「表の英雄が動いてるなら、俺の出る幕じゃない。あいつの邪魔はしないさ」
あのバカなお人好しは、目の前にいる少女を救うためなら、相手が魔術師だろうが何だろうが迷わず右の拳を叩き込む。その結末を、空は少しも疑っていなかった。
だが、この閉鎖された地下街というフィールドで、魔術師と上条が全力で死闘を繰り広げ、さらにゴーレムが暴れ回ればどうなるか。
最悪の場合、地下街全体を支える支柱が崩壊し、上層の地盤ごと陥没して甚大な人的被害が出る。上条が魔術師を打ち倒したとしても、彼が帰るべき『日常の舞台』そのものが瓦礫の下に沈んでしまうのだ。
「俺の仕事は、この地下街という舞台を……あいつが生きる日常を、絶対に壊させないことだ」
空は、コートの裏地に用意した大量のトランプとガラスのビー玉を弄びながら、いつもの人の良い高校生の仮面を完全に脱ぎ捨てた。
瞳の奥から温かな感情が消え去り、あるのはただ、理不尽な被害を消し去るための冷徹な『掃除屋』の貌だけ。
ミトが作ってくれた特製カフェイン豆のコーヒーと、限界まで甘くした缶コーヒーを混ぜ合わせた劇薬のような液体を一口煽り、空は通風孔から音もなく地下通路の梁へと飛び降りた。
「さあ、始めようか。誰にも見えない、裏方の掃討戦を」
『エミュレート——念動力、及び空間断裂。多重展開開始』
空の空洞化された演算領域で、複数の術理が並列で構築されていく。
狙うのはゴーレム本体ではない。ゴーレムが破壊しようとしている巨大なコンクリートの支柱や、逃げ惑う人々の頭上に降り注ごうとしている天井の瓦礫だ。
落ちてくる瓦礫はトランプに付与した『空間断裂』で空中で微塵切りにし、崩れかけた支柱は『念動力』で外側から強制的に固定する。
表の英雄が全てを解決するその瞬間まで、この巨大な地下インフラの崩壊を、自らの血と肉を削って裏から支え続ける。
見えざる防波堤としての孤独な戦いが、地下の暗闇の中で静かに幕を開けた。