ズズズ、という鈍い振動と共に、空の頭上を押し潰そうとしていた数十万トンの重圧が、微かに、だが確実に軽減され始めた。
「……ガッ、ァ……」
血反吐を吐き、意識が白濁する中で、空は空間のズレに気づく。
地下街の天井の崩落を感知した学園都市のインフラ管理システムが、ようやく自動防壁の展開と非常用支柱の隆起を開始したのだ。分厚いチタン合金の隔壁が物理的に空間を支え、空が己の脳髄をすり減らして維持していた『仮想の支柱』の役割を、徐々に、機械の物理的な強度へと引き継いでいく。
ミシミシと悲鳴を上げていたコンクリートの圧力が分散され、空の肩にのしかかっていた絶望的な質量が消失していく。
「……あ……」
完全に防壁が固定されたことを演算領域で確認した瞬間。
ピンと張り詰めていた空の精神の糸が、プツリと音を立てて切れた。
『空間固定』『念動力』『空力使い』の多重展開が限界を迎え、強制解除される。空の身体は自らが吐き出したどす黒い血の海へと、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
ビチャッ、と冷たいアスファルトに頬が打ち付けられる。
指先一つ、いや、まぶたを動かす気力すら残っていない。限界を超えて負荷をかけ続けた全身の筋肉はズタズタに断裂し、呼吸をするたびに肺がヒューヒューと情けない悲鳴を上げる。
バックグラウンドの『肉体再生』が千切れた細胞を強引に繋ぎ合わせようとする激痛に苛まれながら、空は血だまりの中で浅い呼吸を繰り返した。
次第に、空の明滅する意識の中に、一つの決定的な違和感が浮上してきた。
(……ゴーレムは、どこに行ったんだ?)
自分が天井を支えることに全神経を注いでいる間、地下街を揺るがしていたあの巨大な足音と、壁を粉砕する轟音が完全に止んでいる。
逃げたのか? いや、あの質量が動けば必ず振動が伝わるはずだ。
ならば、上層——地上へ向かったのか。
「……クソッ、上条……!」
空は奥歯を噛み締め、ボロボロの肉体に鞭を打って無理やり立ち上がった。
千切れかけた筋繊維がブチブチと鳴るのを『痛覚遮断』で強引に無視し、壁伝いに歩み始める。地下街の非常階段を這うようにして上り、ようやく地上の光を浴びた。
♢
時刻はすでに夕暮れ。真夏の日差しは茜色に染まり、長く伸びた影が学園都市のビル群を覆っている。
途端、数百メートル先の建設現場の方角から、ズドォォォン! と巨大な轟音が響き渡った。
(あっちか……!)
空は再びフラつく足にベクトル操作で推進力を与え、砲弾のように走り出した。
現場に近づいた空は、すぐにその惨状に気がついた。
しかし、ゴーレムに相対しているのは親友の上条当麻ではなかった。
別の「誰か」だ。
「……民間人か!? しまった……!」
暗部の掃除屋として、表の人間を巻き込むことだけは絶対に避けなければならない。空は血まみれの口元を歪め、コートの裏地からトランプを引き抜こうとした。
『空間移動』の演算を立ち上げ、間に割って入ろうとした、まさにその時。
ゴーレムの巨大な岩の腕が、その少女に向かって無慈悲に振り下ろされた。
「危ないッ——」
だが、空の叫びは途中で凍りついた。
ドゴォォォォンッ!!
振り下ろされた質量兵器のような拳を、その「少女」が、細い腕一本で正面から受け止めていたのだ。
「なっ……!?」
空の空洞化されたパーソナルリアリティが、少女から発せられる異常な『力場の歪み』を自動的に解析しようと悲鳴を上げる。
人間の肉体ではない。それは、学園都市に存在する何百万人もの能力者たちが無意識に放つ力場——『AIM拡散力場』が一点に収束し、実体を持った存在。
『科学の天使』。
空はデータベースの深層で、その存在の仮説を見たことがあった。
一人の少女、風斬氷華。
「……作られた、存在……」
空は、血に染まった口元を微かに、自嘲するように歪めた。
親も戸籍もなく、大人たちにモルモットとして扱われ、自我を空っぽの器にされた自分。
第1位を絶対能力者へと進化させるためだけに単価十八万円で製造され、ただ殺されるためだけに存在していた、数万の『妹達』。
そして今、能力者たちの無意識の集合体から偶然発生してしまった、得体の知れない存在——風斬氷華。
学園都市の闇は、どこまでも深く、底なしに黒い。命というものを、ただのシステムの一部、実験の副産物としか見ていない。
ゴーレムの質量に押され、少女の『身体』が傷つき、ノイズのように崩れかけている。
それでも彼女は、必死にゴーレムを食い止めていた。その背後にいるインデックスを守るために。
その場に上条が駆け寄って来ている姿を遠目で確認した。
上条は、風斬氷華の身体の異常に気づいているはずだ。彼女が普通の人間ではなく、学園都市のシステムが生み出した怪異であることに。
だが、上条は迷わなかった。
「……上条」
空は、物陰からその光景を静かに見つめた。
上条は傷ついた少女の前に立ち塞がり、右の拳を強く握りしめた。
「お前は、あんな化け物みたいな正体のあの子のことも……『友達』だって言って、当たり前のように助けるんだろうな」
ポツリと、空の口から温かい言葉がこぼれ落ちる。
自分がどれだけ血反吐を吐いて傷ついても、地下街を支え、日常を守るために戦った。
その事実が、空の空洞化された心に、温かい涙のように染み込んでいくのを感じた。
自分や、家で待つ妹達のような「作られた存在」であっても。
上条当麻のいるこの『日常』の中ならば、笑って生きていていいのだと、世界から許されたような気がした。
表の英雄が、裏の掃除屋の心を救った瞬間だった。
「……帰ろう。俺の、家に」
ゴーレムの顔面に上条の『幻想殺し』が叩き込まれるのを見届けることなく、空はふらつく足取りで夕闇の中へと消えていった。
あいつが守る日常の舞台は、もう崩れないのだから。
♢
すっかり夜の帳が下りた第七学区。
人気の無い廃研究所の重い鉄扉が、電子音と共にゆっくりと開いた。
「はぁ……はぁ……」
「ソラ!? またそんなに血まみれになって……! とイチは慌てて駆け寄ります!」
玄関に足を踏み入れた途端、血の匂いを嗅ぎつけたイチが悲鳴のような声を上げた。
「マスター! 早く止血を! 輸血用のパックと強制再生サプリを今すぐ! とニナが救急箱を抱えてすっ飛んできます!」
「お兄ちゃん、死なないで……! とイツキが半泣きで空の腰にしがみつきます!」
「ソラさん、しっかりしてください! とミトがタオルを持ってきて……!」
「ボス! コートを脱げ、触媒の破片が刺さってるかもしれないぞ! とシノが……」
バタン、と玄関の床に倒れ込んだ空を、五人の妹達がパニックになりながら囲み、必死に介抱を始める。
誰一人として、空の恐ろしい血まみれの姿から逃げ出そうとはしない。
騒がしくて、温かくて、呆れるほどに心配性の家族たち。
「大丈夫だ……ちょっと、地下街の天井を支えすぎただけだから……」
空は血まみれの顔で、五人の顔を順番に見渡した。
もう、あの虚ろさを孕んだニコニコとした防衛機制の笑顔ではない。心の底から安堵し、愛おしさに満ちた本物の笑顔だった。
「ただいま、みんな」
その掠れた声は、学園都市のどんなに残酷な真実よりも、確かな温もりを持って、冷たい廃研究所の空間を優しく満たしていった。