学園都市を外界から隔絶する巨大な壁。その厳重なセキュリティゲートを、面倒な検問もフリーパスで抜け、瀬川空を乗せた黒塗りの公用車が外部の一般道へと滑り出した。
窓の外の景色が、無機質で計算し尽くされたビル群から、どこか雑多で生活感のある『外の世界』の街並みへと変わっていく。
「……まさか、出張なんて名目で外の世界に出されるとはな」
冷房の効いた後部座席で、空は極甘の缶コーヒーを煽りながら深いため息を吐いた。
学園都市の能力者は、原則として外部への外出を厳しく制限されている。機密保持の観点からも、それが絶対のルールだ。しかし、今の空は『学園都市外部の提携研究施設への、超能力者による特別視察』という、仰々しい大義名分を与えられていた。
数時間前。空の暗部専用端末に、統括理事会——アレイスター=クロウリーからの直接指令が下ったのだ。
『学園都市外部にて、ローマ正教とイギリス清教、および天草式十字凄教が接触する兆候あり。上条当麻が巻き込まれる公算が高い。現地へ赴き、事態の監視、魔術データの収集、並びに必要に応じた隠蔽・清掃を行え』
文面上はただの監視任務だ。だが、空にはわかっていた。
これは、七月末以来度々魔術の法則に触れ、それを相殺・行使してしまった自分を、「対魔術師用の遊撃戦力」として本格的にテストするための、アレイスターの悪趣味な試験なのだと。
自分は今、統括理事長という巨大な化け物の掌の上で、都合のいい駒として踊らされている。その自覚は十二分にあった。
(……上条を囮にして魔術サイドを牽制しつつ、俺を裏のセーフティネットとして使う気か。本当に腹の立つ野郎だ)
奥歯を噛み締めながら、空は缶コーヒーの残りを飲み干した。
どれだけ理不尽な命令であろうと、空には断るという選択肢はない。彼が命令に背けば、その報復は間違いなく、彼が帰るべき『日常』へと向かうからだ。
「……ソラ。外の世界には、学園都市内とは違う危険なバグがたくさん潜んでいます。怪我には十分注意してください、とイチは今朝の玄関でのやり取りを反芻しながら心配します」
「マスター、いざという時のための青色造血サプリ・改を忘れないでくださいね。出血多量でも三分は意識を保てますから、とニナは物騒な薬瓶を押し付けて……」
「ソラさん、向こうの食事が口に合わない時のために、とミトはお手製の強烈なカフェインクッキーを……」
「ボスの服、裏地の防弾繊維と触媒ホルダーの調整は完璧だ。存分に暴れてきてくれ、とシノは……」
「お兄ちゃん、お土産に外の美味しいお菓子買ってきてね! 絶対だからね! とイツキは……」
窓の外の流れる景色を眺めながら、空の脳裏には、今朝の廃研究所の玄関で見送ってくれた五人の妹達の姿が、鮮明に浮かんでいた。
シノにアイロンをかけてもらった、裏地に無数の仕掛けが施された黒のロングコート。ミトから渡された自家製カフェイン飲料の入った水筒。ニナの怪しいサプリ。
彼女たちの不器用な愛情と、騒がしいお見送りが、暗部の泥沼に足を踏み入れようとする空にとって、どれほど心を落ち着かせる『安全装置』になっているか。
「……お土産、何がいいかな。五人分となると結構な荷物になりそうだな」
そんな平凡で平和な悩みを口にしながら、空は虚ろな瞳の奥に確かな温もりを灯した。
♢
やがて車は、目的の街へと到着した。
学園都市のすぐ外側に位置する、パラレルスウィーツパークなるテーマパークが併設された街。
空は一般の観光客に紛れるように車を降り、人通りの少ない路地裏へと歩を進めた。
路地に足を踏み入れた瞬間。空の暗部としての経験則と、魔術をエミュレートしたことで研ぎ澄まされた知覚が、街の各所に張り巡らされた『異物』の気配をチリチリと捉え始めた。
(いるな。……それも、かなりの数の魔術師だ)
科学の街である学園都市にはない、魔力という異質なエネルギーの残滓。それが、この街のあちこちから、血の匂いのように漂ってきている。
空は壁を蹴り、足音を殺して建物の屋上へと飛び乗った。
そこから街の俯瞰図を見下ろすと、空の視界の先に、見慣れたツンツン頭の少年の姿があった。
上条当麻だ。
そして彼の隣には、純白の修道服を着たインデックスと、長身に黒衣を纏ったイギリス清教の魔術師・ステイル=マグヌス。
さらに彼らと対峙するように、見慣れない奇抜な修道服に身を包んだ、アニェーゼ=サンクティス率いるローマ正教のシスター部隊が、何やら深刻な顔で立ち話をしている。
暗部の事前情報によれば、ローマ正教の暗号解読の専門家である修道女、オルソラ=アクィナスが、日本の十字教の一派たる『天草式十字凄教』に誘拐されたという。彼らはオルソラと、彼女が解読法を知るとされる魔道書『法の書』を奪還するための、イギリス清教とローマ正教の合同部隊らしい。
「相変わらず、厄介事のど真ん中にいるな、上条」
空は屋上の縁に身を潜め、風にボサボサの髪を揺らしながら小さく呟いた。
記憶を失ってもなお、誰かのピンチを見過ごせずに事件に首を突っ込むあの親友の性質は、全く変わっていないようだ。
「さて、俺の仕事はデータの収集と、あいつの背中の掃除だ」
空は裏地から、触媒であるトランプとビー玉の感触を指先で確かめる。
ローマ正教のシスター部隊二百五十名。そして、天草式の魔術師たち。
魔術サイド同士の争いに科学の異端児が巻き込まれるこの巨大な舞台で、空は完全に気配を消し、冷徹なエラーチェッカーの貌へと切り替わった。
「手並みを拝見させてもらおうか。……お前が真っ直ぐに誰かを救えるように、死角のゴミは全部俺が片付けてやるからな」
夏の終わりの乾いた風が吹き抜ける中、瀬川空は静かに夜の街へとその身を溶け込ませた。