事態は、最悪のどんでん返しを迎えていた。
オルソラ=アクィナスを誘拐した凶悪な魔術結社だと思われていた天草式十字凄教。しかし、彼らはオルソラを保護しようとしていただけの善人であり、彼女を異端として暗殺しようとしていたローマ正教のアニェーゼ部隊こそが、真の敵であった。
その残酷な事実に気づいた上条当麻とステイル=マグヌスは、迷うことなく天草式と手を結んだ。囚われたオルソラを救い出すため、二百五十人にも及ぶアニェーゼ部隊の修道女たちを相手に、圧倒的な数的不利を覆すための絶望的な共闘を開始したのである。
舞台は、パラレルスウィーツパークに隣接するオルソラ教会の巨大な敷地内。
中枢に陣取るアニェーゼを目指し、突破口を開こうと突進する上条たち。しかし、修道女たちの圧倒的な数の暴力は、彼らの決死の突撃を容易く飲み込もうとしていた。
彼女たちが一斉に十字架の杖を構え、統制の取れた陣形で四方八方から魔術の十字砲火を浴びせてくる。
「くそっ……! この数、まともに相手にしてちゃ、本命のアニェーゼに辿り着く前に潰されるぞ……!」
上条が『幻想殺し』の右手で炎の魔術を打ち消しながら、焦燥に歯を食いしばった、その時だった。
上条たちの死角を突き、背後から強襲しようとしていた数十人の修道女たちの足元で、突如として大気が爆発したかのように急激に膨張した。
「キャアアアアッ!?」
ドンッ! という鈍い衝撃音。
見えない風の巨大なハンマーで下から殴りつけられたように、修道女たちが一斉に空中に跳ね飛ばされ、為す術もなく気絶して石畳に転がっていく。
「な、何が起きたんですの!?」
「伏兵!? どこから攻撃が——」
混乱する修道女たちの外周。オルソラ教会の高い屋根の上の暗がりから、無数のガラスのビー玉とトランプが、まるで意志を持った蜂の群れのように降り注いできた。
『エミュレート——パッケージ展開』
屋根の上で、瀬川空は黒いコートの裾を夜風に翻しながら、両手をオーケストラの指揮者のように優雅に振るっていた。
これまでの彼であれば、この数の敵を同時に無力化しようとすれば、即座に脳血管が破裂し、顔面を血まみれにして絶叫していただろう。
だが、今の空の頭の中では、天草式の術理を応用した『多重補完の術理』が、一切の熱暴走を起こすことなく、極めてスムーズかつ静かに稼働していた。
呼吸という無意識の動作に『肉体再生』と『痛覚遮断』の維持を紐づけ、メインメモリから切り離す。
指先の細やかなスナップに『念動力』と『空間断裂』のトリガーを紐づけ、視線の移動に合わせて『空力使い』の座標を指定する。
行動と演算を完全にリンクさせることで、脳のキャパシティへの負担を劇的に圧縮・分散させる新次元の並列処理。
ビー玉による『念動力の弾丸』が、修道女たちが魔術を発動する直前に彼女たちの杖をピンポイントで弾き飛ばす。
宙を舞うトランプが『空間座標の固定』によって見えない壁を構築し、遊撃に回ろうとするシスターたちの退路を完璧に塞ぐ。
さらに、下方でステイルが放った炎の魔術の余波をエミュレートし、上空から降り注ぐ冷気とぶつけることで人為的な気圧変化を起こし、修道女たちの周囲の酸素濃度を操作して、彼女たちの意識を安全かつ広範囲に刈り取っていく。
「……素晴らしい」
空は、自らの鼻元にそっと指を当てた。
赤い血は、一滴も付着していない。
脳の奥で警鐘を鳴らす不快な頭痛も、眼球が破裂しそうになる眼圧の異常も、全く起こらない。
「脳血管が、全く痛まない」
空の瞳には、かつてのように寿命を削るような血走った苦痛の色はなかった。
あるのは、この巨大な盤面を完全に掌握し、主人公の進むべき道を誰よりも綺麗に舗装していく、絶対的な『
空は屋根の上から、上条の背中を見下ろした。
「行け、上条。外周の有象無象の雑魚は、俺が裏から全部寝かせておく。……お前は真っ直ぐ、あのふざけたシスターの顔面に、その右手を叩き込んでこい!」
空の呟きが直接届いたわけではないだろう。だが、上条は背後の敵が次々と不可解な現象で自滅し、包囲網に致命的な穴が開いたこの混乱を、決して見逃さなかった。
「今だッ!」
上条はステイルや天草式の面々と共に、崩壊した陣形の隙間を縫って、一気に中枢のアニェーゼの元へと肉薄していった。
♢
数十分後。
アニェーゼの振るう強力な魔術『蓮の杖』の猛攻を掻いくぐり、上条当麻の『幻想殺し』が彼女の顔面にクリーンヒットしたことで、事件は完全な終結を迎えた。
オルソラ=アクィナスは無事に保護され、ローマ正教の目論見は打ち砕かれたのだ。
「……終わったな」
教会の屋根の上で、空は手元に残った最後のビー玉をポケットにしまい、夜空に向かって大きく背伸びをした。
顔に血の汚れはない。息も乱れていない。
これほどの大規模な能力の多重展開を行いながら、無傷で戦場に立ち続けている。
学園都市外でのアレイスターの悪趣味な試験を、空はこれ以上ないほどの『成長』と『最適化』という結果で、完璧にクリアしてみせたのだ。
「さて、と。上条たちの凱旋を見届けたら、俺も帰るか」
空は、足元に倒れ伏している修道女たちを一瞥し、ふと思い出したように小さく笑った。
「そういえば、イツキに外の美味しいお菓子を買って帰る約束だったな。シノやミトたちも待ってるし、このままじゃ機嫌を損ねられそうだ」
血生臭い魔術の戦場と、暗部の冷酷な仕事。
そこから、彼が守るべき温かく騒がしい『日常』へと、空は鮮やかに意識を切り替える。
空は、朝焼けが薄っすらと照らし始めた学園都市の方向を見つめながら、帰りを待つ五人の家族の元へと、これまでになく軽やかな足取りで家路についたのであった。