九月上旬の休日。
オルソラ=アクィナス誘拐事件という、学園都市外部での大規模な魔術騒動から帰還して数日後。第七学区の片隅に佇む多層階の廃研究所には、秋の気配が混じり始めた穏やかな週末の空気が流れていた。
空は、マグカップに注いだ極甘のコーヒーを片手に、研究所の五階——工学階へと足を踏み入れた。
エレベーターの重厚な扉が開くと同時に、ツンとした機械油の匂いと、ハンダが焦げる特有の香りが鼻をくすぐる。
かつては埃を被った機材が転がるだけの無機質なフロアだったが、今やここは巨大な旋盤や3Dプリンター、電子顕微鏡、そして無数の工具が所狭しと並ぶ、立派な『
「おお、やってるな、シノ」
空が声をかけると、作業台に向かって火花を散らし、重々しい溶接用の保護マスクを被っていた小柄な少女が、ビクッと肩を揺らして振り返った。
マスクを上に跳ね上げた彼女——10504号改め『シノ』は、オイルと煤で薄汚れた頬を手の甲で拭いながら、得意げな笑みを浮かべた。彼女はいつもの常盤台の制服ではなく、動きやすいグレーの作業用ツナギを身に纏っている。
「お待ちしていました、ボス。ミサカの最高傑作たちが、ついに実戦投入の時を待っています、とシノは徹夜明けの充血した目を輝かせながら報告します」
「……徹夜したのか? 無理はするなっていつも言ってるだろ。目の下にクマができてるぞ」
「ボスの生存率を〇・一%でも引き上げるためなら、睡眠時間の削減など些末な問題です。さあ、こちらへ、とシノは誇らしげに作業台の上のアタッシュケースを開きます」
シノの言葉には、確かな熱がこもっていた。
彼女たちは皆、空が自分たちを守るために、どれほど血反吐を吐き、身体を壊しながら戦っているかを知っている。だからこそ、工学担当のシノは、少しでも空の負担を減らそうと己の技術のすべてを注ぎ込んでいたのだ。
カチャリ、と重厚なロックが外される。
シノが恭しく開けた漆黒のケースの中には、スポンジの緩衝材に包まれた無数の『日用品』が、まるで高級な宝石か精密兵器のように整然と並べられていた。
ただのガラスのビー玉、市販のトランプ、そして百円のプラスチック製ボールペン。
だが、空の目には、それらが以前自分が使い捨てていた粗悪な市販品とは、全く違う次元の代物にチューンナップされていることが一瞬でわかった。
「まず、トランプです。表面にカーボンナノチューブを用いた特殊な極薄コーティングを施しました。ボスの『空間断裂』や『空力使い』の強烈なベクトルを付与した際の自壊を防ぐため、物理的な耐久性と耐熱性を極限まで向上させています。一枚あたりの空気抵抗や、空中で軌道を変えやすいエッジの形状も計算し尽くしています、とシノは胸を張ります」
空はトランプを一枚手に取り、指先で弾いてみた。
しなり具合、表面の滑らかさ、そして重さ。
「……すごいな。触った感触からして全然違う。これなら手首の軽いスナップだけで、今までの倍の初速が出せそうだ」
驚きを隠せない空に、シノはさらに次のアイテムを指し示す。
「次にビー玉です。一見ただのガラス玉ですが、内部のコアに極小のタングステン球を仕込み、質量を大幅に底上げしました。以前、ボスは『運動エネルギー』と『無摩擦』をかけても、相手の防壁に質量の軽さで威力が減衰してしまうとこぼしていましたが、これなら強固な魔術的防壁も容易く貫通可能です、とシノは破壊力の向上を断言します」
「なるほど……これなら、撃ち出した瞬間に砕け散ることもないな」
「そして、最大の自信作がこのペンです、とシノは黒いボールペンを恭しく差し出します」
空がそのペンを手に取ると、外装はどこにでもある百円のプラスチックペンの偽装が施されていたが、ずしりとした確かな重みがあった。
「外装こそ偽装していますが、内部の芯の構造にはチタン合金と特殊セラミックを採用し、衝撃に対する絶対的な強度を確保しました。『直進』と『刺突』のベクトル操作も考慮した設計です。これで、ボスがどれだけ無茶な事象を上乗せしても、触媒が先に砕け散ることはありません、とシノはふんわりと微笑みます」
空はペンを指先でクルクルと回し、その完璧な重心バランスに舌を巻いた。
ただ頑丈に作られているだけではない。この触媒たちは、今の空にとって『最高のピース』となる。
天草式の術理を解析して手に入れた、動作と演算を紐づける『多重補完の術理』。身体の動きそのものを演算のトリガーとするこの技術において、触媒の重心や形状、空気抵抗が常に『均一』であることは、演算の安定化と高速化に直結するのだ。
シノの完璧な工作精度は、空の新しい戦術を根底から支え、引き上げるものだった。
自分が暗部の掃討戦で泥臭く生き残るための武器を、ここまで真剣に、そして愛情を込めて作り上げてくれる存在がいる。
これまで、武器はただの使い捨てのゴミだと思っていた。自分自身も、ただの使い捨ての空っぽの器だと思っていた。
だが、彼の手の中にあるこの触媒たちは、彼が帰るべき『家』の温もりそのものだった。
「……シノ。お前、天才だな」
「っ……! 職人としての矜持を刺激する最高の賛辞です。徹夜した甲斐がありました、とシノは真っ赤になった顔を隠すように、照れ隠しでゴーグルを少し下げます」
空は、シノのオイルで汚れた頭を、愛おしそうにポンポンと撫でた。
「せっかくの最高傑作だ。さっそく、地下の試射場でテストしてみよう。天草式の連中からパクった『新しいアルゴリズム』と、お前の作った触媒が合わされば、どれだけ化けるか楽しみだしな」
「了解です、ボス! 計測機器とターゲットの準備はできています、とシノは弾んだ声で工具箱を抱え上げます」
空っぽだった彼の手元に、家族が作ってくれた確かな「武器」が揃った。
もう、無茶をして血まみれになって帰るわけにはいかない。彼女たちの作ったこの武器で敵を圧倒し、無傷で、必ずこの場所に帰ってくるのだ。
二人は足取りも軽く、これからの戦いを確かなものにするため、地下の試射場へと向かうエレベーターに乗り込んだ。