九月中旬。
アスファルトから立ち上る陽炎が視界を歪ませ、肌を刺すような厳しい残暑が学園都市の表側を支配している。
しかし、第七学区の片隅に佇む多層階の廃研究所には、うだるような外気とは無縁の、薄暗く冷やりとした空気が流れていた。
そして、その空気をさらに絶対零度まで冷え込ませているのは、空の手元の暗号化端末に表示された、ひどくきな臭い暗部のネットワークからの情報だった。
「……『
極甘に調整された缶コーヒーを片手に、瀬川空は端末の液晶画面を険しい目で見つめていた。
普段の、少し虚ろでニコニコとした高校生の仮面は完全に剥がれ落ち、そこには血生臭い暗部を這いずり回る『掃除屋』としての冷酷な貌があった。
「はい。先日破壊されたはずの、学園都市最高のスーパーコンピュータ。その破片が軌道上のデブリ群から何者かによって密かに回収され、学園都市の外部、あるいは内部の敵対組織によって復元されようとしている……というのが、統括理事会から下りてきた極秘情報です、とイチは報告の文面を読み上げます」
リビングのテーブルの向かい側で、リーダーであるイチがクリップボードを両腕で抱きしめるようにして、不安げに空の顔を窺っていた。彼女の声には、普段の冷静なトーンに混じって、微かな震えが混じっている。
無理もない。
『樹形図の設計者』。それはかつて、妹達が第一位・一方通行に惨殺され続けるという狂気の実験『
それがもし復元されれば。またあのような、命を数値としてしか見ない非道な実験が再開されるかもしれない。
イチだけでなく、部屋の隅で聞き耳を立てていたニナやミトたちも、息を呑んで体をこわばらせていた。
「……安心しろ。そんなふざけた真似、俺が絶対に許さない」
空は低い声で告げ、手に持っていた缶コーヒーのアルミ缶が微かに軋むほど、ギリッと力を込めた。
やっと手に入れた家族の平和を、二万回の殺戮を肯定した機械の残骸に再び脅かされるなど、断じてあってはならない。
「……復元をもくろんでいるのは誰だ。回収の実行犯は割れているのか?」
「『結標淡希』。
「結標……よりによって、あの女か」
空は忌々しげに舌打ちをした。
自身がアレイスター直轄の掃除屋である以上、案内人である結標とは何度か顔を合わせたことがある。彼女は強力な空間移動能力者でありながら、自身の能力で自分自身を移動させる際に激しいトラウマを抱えている。
そのトラウマのせいで精神的なアンバランスさを抱え、目的のためなら手段を選ばない危うさを持っていることを、空は熟知していた。
だが、空の表情をさらに曇らせ、焦燥感を駆り立てたのは、端末に表示されたもう一つの付随情報だった。
『——現在、第177支部
「……白井さん」
空は思わず、呻くようにその名前を口にした。
常盤台中学の生徒であり、特別講師として教鞭をとる空の教え子。そして何より、御坂美琴の一番の親友。
正義感に溢れ、常に市民の平和と日常を守るために奔走する、誇り高き風紀委員の少女。
だが、この『
結標淡希と白井黒子。同じレベル4の空間移動系の能力者であっても、基本スペックに決定的な差がある。結標の『座標移動』は、対象に触れることなく、指定した座標から任意の座標へ物体を転送できるうえ、移動可能距離も移動可能重量も結標の方が圧倒的に上回っている。
まともにやり合えば、白井に勝ち目はない。
「あの真っ直ぐな正義感で、結標が抱える狂気に正面から挑めば……確実に殺されるか、運良く生き延びても、暗部の泥に足を引きずり込まれる」
表の世界の光を信じ、正義を貫こうとする彼女の真っ白な心に、暗部の血反吐の味を教えるわけにはいかない。美琴が信じた日常の傍らにいる彼女もまた、空にとって絶対に守るべき『表の住人』なのだ。
空は勢いよく立ち上がった。
「シノ。この前調整してくれた触媒、全部持っていくぞ」
「了解しました。ボスの生還率を最大化するフルロードで準備しています、とシノは速やかに対応し、アタッシュケースを開きます」
工学階から上がってきたシノが、素早い手つきで黒のロングコートの裏地に、特殊コーティングされたトランプ、タングステン内蔵のビー玉、そしてチタン合金芯のボールペンを次々と装填していく。
「マスター。戦闘時の緊急回復用に、この青色サプリ・改を……」
「ああ、貰っておく。今回は出し惜しみしてる余裕はなさそうだからな」
ニナから怪しい薬瓶を受け取り、席を立つ。
「ソラ、無茶はしないでくださいね、とイチは不安げに見つめます」
「わかってる。俺の帰る場所はここだからな」
空は、不安げな妹達に一度だけ振り返り、安心させるように微かに笑みを浮かべた。
そして、すぐに冷酷な掃除屋の瞳に戻り、重い鉄扉を開けて残暑の厳しい外の世界へと足を踏み出す。
暗部の毒牙から、表の世界の住人を遠ざける。
彼女たちが信じる正義の舞台を、裏から誰にも知られずに舗装し、降りかかる火の粉をすべて払いのける。
それこそが、『掃除屋』である瀬川空の、絶対に譲れない矜持だった。
「待っててくれ、白井さん。……少し、迷子の生徒を迎えに行ってくる」
呟きは蝉時雨に掻き消され、黒い影は、学園都市の深い闇へと向かって音もなく駆け出していった。