深夜の第十一学区。放棄されたビル内での死闘は、最終局面を迎えていた。
白井黒子の言葉によって精神的に追い詰められた結標淡希は、すでに動くことのできない白井を前に、ついに退却を選択した。だが、暗部の案内人はただでは去らない。
逃走のための座標計算と同時に、結標は満身創痍で動けない白井の眼前に、巨大な質量の物体を転移を試みる。
白井にはもう、それを避ける体力も、自身の空間移動で逃れるだけの演算能力も残されていない。
(しまっ——!)
屋上の暗がりからそれを見下ろしていた瀬川空が、血に濡れた指でトランプを引き抜こうとした、その瞬間だった。
ビルの外から、目を焼くようなオレンジ色の閃光が轟音と共に突き刺さった。
「超電磁砲……!? 御坂さんが来たのか……!」
御坂美琴の放った一撃が、ビルの外壁を大きく吹き飛ばした。
だが、それによって足場を失った白井が、崩壊する瓦礫と共に真っ逆さまに虚空へと落ちていく。そして絶望的なことに、結標の置き土産である『空間の歪み』からは逃れられない。
「ウォォォォォォォッ!!」
崩れゆく瓦礫の雨の中、一人の少年が飛び出した。上条当麻だ。
彼は命綱もなく崩落する壁を蹴り、宙を舞う白井をその腕にガッチリと抱え込んだ。そして、二人の眼前に迫り、今まさに実体化しようとしている『空間の歪み』に対し、己の右手を真っ直ぐに突き出した。
(上条……! だが、空間移動系の能力による遠隔攻撃に、アイツの右手は悪手だ……!)
瞬時に最悪の結末を弾き出す。
上条の『幻想殺し』はあらゆる異能を打ち消すが、空間移動によって転送されてくるのは『純粋な物理的質量』だ。一度空間に出現し、実体化してしまえば、ただの巨大なガラスや鉄骨の塊となり、右手では打ち消せない。
防ぐには、転送される直前のコンマ数秒、十一次元から三次元へと次元を跨ぐ『境界線の歪み』そのものをピンポイントで叩き潰すしかない。落下しながら、そんな神業ができるはずがない。
上条の右手でも、美琴の超電磁砲でも解決はできない。ならば、誰がやるのか。
「『
答えは明確だった。自分が守る。
空はチタン合金製のペンを足元のコンクリートに深く突き立て、己の脳髄を燃料にくべて最後の演算を立ち上げた。
『念動力』と『空力使い』の複合展開。上条と黒子の頭上に、見えない空気とベクトルの傘をピンポイントで開こうとする。
だが、限界まで摩耗した空の脳神経と、物理的な距離の遠さが、展開の速度をコンマ数秒遅らせていた。
(間に、合わない……!)
絶望が空の心を黒く塗りつぶそうとした、その時だった。
キィィィン!!!
ガラスを引っ掻くような、空間そのものが悲鳴を上げる特有の音が夜空に響き渡った。
絶望しかけたその時、その絶望を完全に打ち砕く音が響いたのだ。
上条当麻の右手が、見事に
出現する寸前の、僅かに揺らいだ空間の境界線。その紙一重の歪みに上条の右手が触れ、転送プロセスそのものを完全に霧散させたのだ。
上条に抱えられた白井は、そのまま安心したように気を失い、二人は瓦礫の山の中へと無事に着地した。
「嘘だろ……移動するちょうど境界の瞬間で、打ち消したのか……?」
空はペンを突き立てたまま、目を見開いて呆然と呟いた。
「ハハ……俺も最近はだいぶ成長したって自惚れてたんだけどな。やっぱりお前はすごいよ、上条……」
直後。
「ガハッ……! ゴホッ、ゲホォッ!!」
間に合わなかったとはいえ、限界を超えて強制起動しようとした多重並列処理の反動が、空の脳と肉体を容赦なく破壊した。
眼球の毛細血管が破裂し、血の涙が頬を伝う。脳内でショートした火花が散るような激痛が鳴り響き、空は血反吐を吐きながらコンクリートの屋上に崩れ落ちた。
だが、その虚ろな瞳には、痛みを上回る確かな安堵が浮かんでいた。
「ハハ……上条があの理不尽を自力でなんとかできたんだったら、俺のこの無茶は完全な出血し損じゃないか……」
空はふふっと自嘲気味に笑い、ふらつく両足に力を込めて、自身の血だまりの中からゆっくりと立ち上がった。
「……さて。裏方は、残ったゴミを綺麗に掃除して帰るとするか」
白井を援護するために行使した『念動力』や『摩擦ゼロ』の不自然な痕跡、空中で砕け散らせたビー玉の微細な破片、そして屋上に残った自身の血痕を、端から綺麗に消し去っていく。
そこに残されるのは、上条当麻と白井黒子が、自らの諦めない心と運で生き延び、強敵に打ち勝ったという『美しい事実』だけだ。
♢
数十分後。
サイレンを鳴らして救急車が到着し、白井が搬送されていくのを、空は遠くのビルの上から静かに見守っていた。
(俺は、あいつらのいる光の当たる場所には行けない。でも……あいつらが光の中で、当たり前の明日を迎えて笑っていられるなら、俺が生きるこの暗闇も悪くない)
空は境界線の清掃員は闇の中へと身を翻した。
第七学区、廃研究所。
重い鉄扉を電子音と共に開けると、深夜にもかかわらず、そこにはリビングの照明が灯っていた。
ソファで毛布にくるまりながらも、空の帰りを今か今かと起きて待っていた五人の妹達の姿があった。
「おかえりなさい、ソラ! またそんなにボロボロになって……どうしていつも無茶ばかりするのですか、とイチは急いで救急箱を取りに走ります!」
イチが慌てて駆け寄ってくる。その後ろから、ニナが特製の回復薬を抱え、ミトが温かいタオルを持ち、シノとイツキが泣きそうな顔で空の腰にしがみついてきた。
騒がしくて、温かくて、呆れるほどに心配性の家族たち。
「……ただいま。大丈夫だ、ちょっと帰り道で派手に転んだだけだから」
空は血まみれの顔で、世界で一番幸せそうな嘘をつき、出迎えてくれた家族たちをその腕で優しく抱きしめた。
空っぽだった彼の器は、今やこんなにも温かい愛で満たされている。
境界線の清掃員は、今日もしっかりと、彼らの日常を守り抜いたのだ。