常盤台中学での指導を終えてから数時間後。
時計の針が日付を跨いだ第十学区は、昼間の華やかさとはまるで別世界だった。
街灯の届かない倉庫街には、廃棄されたコンテナが無造作に積み重ねられ、吹き抜ける夜風が鉄板を軋ませている。人の気配はほとんどなく、聞こえるのは遠くを走る貨物列車の振動だけだ。
その静寂を破るように、乾いた銃声が倉庫の中へ響いた。
「撃てぇッ!」
連続する発砲音。
火花を散らしながらアサルトライフルの弾丸が闇を切り裂く。
だが、その弾幕の先に立つ少年は、一歩も慌てることなく缶コーヒーのプルタブを開けた。
ぷしゅっ、と間の抜けた音が鳴る。
「……やっぱり冷めてるか」
ひと口。
極端に甘い液体を喉へ流し込み、空は小さく息を吐いた。
「甘ったるいなぁ」
そう呟いた直後だった。
彼の足元へ転がっていたビー玉が、ひとりでに跳ね上がる。
空はそれを二本の指で摘まみ、軽く弾いた。
ー演算開始。
《摩擦係数の消失》。
《運動エネルギーの収束》。
脳内へ流れ込む二つの演算式を重ね合わせる。
ビー玉は音を置き去りにして一直線へ加速した。
甲高い衝突音。
飛来した銃弾へ正面からぶつかり、その軌道をわずかに逸らす。
一発。
二発。
三発。
弾丸同士が空中で火花を散らしながら弾き飛ばされていく。
「なっ!?」
男たちの顔色が変わる。
「馬鹿な! ビー玉だぞ!?」
「ただのビー玉だよ。」
空は静かに答えた。
「少しだけ、速いけどね。」
最後の一発を弾き飛ばしたビー玉は勢いを失わないまま男の銃口へ突き刺さり、内部機構をまとめて吹き飛ばした。
金属片が弾ける。
アサルトライフルは爆ぜるように砕け散った。
「あ、が……!」
武器を失った男が後ずさる。
しかし、その時にはもう遅い。
空は懐から一本の安物のボールペンを取り出していた。
どこの文房具店でも売っているような、ごく普通の油性ボールペン。
それを逆手に持つ。
ー演算。
《直進》。
《刺突》。
《神経伝達の阻害》。
ボールペンが一瞬だけ淡く輝く。
次の瞬間には、空の姿が男の眼前まで踏み込んでいた。
「え――」
短い声。
ペン先が肩口へ吸い込まれる。
深くは刺さない。
骨も砕かない。
神経束だけを正確に貫く。
「ぁ……」
男の右腕から力が抜ける。
続いて両脚。
全身の力が一斉に途切れ、そのまま糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「眠ってて。」
空がそっと身体を支える。
床へ頭を打たないよう静かに寝かせる様子は、敵を制圧したというより介抱しているようですらあった。
倉庫の奥では、残っていた男たちが恐怖に顔を引きつらせていた。
「ひ、ヒィッ……!」
「なんなんだよ、お前……!」
「第8位なんて政治的なお飾りじゃなかったのかよ!」
誰かが叫ぶ。
空は困ったように笑った。
「いや、お飾りだよ。」
その笑顔には誇りも自虐もない。
ただ事実を述べているだけだった。
「俺自身には、何の力もない。」
能力が強いわけじゃない。
自分だけの現実が優れているわけでもない。
空っぽだから。
他人を映せるだけ。
それだけの存在だ。
男たちは最後の手段とばかりに懐から拳銃を抜いた。
「死ねぇぇぇぇ!」
引き金が引かれる。
だが。
空はその瞬間、床へ転がっていた一枚のトランプを蹴り上げた。
トランプは宙へ舞う。
ー《空力使い》。
ー《空間座標》。
風がカードを押し出す。
空中で軌道が折れ曲がる。
あり得ない角度から飛び込んだ一枚が拳銃だけを正確に弾き飛ばし、そのまま男たちの頬を浅く切り裂いた。
「うわぁっ!」
悲鳴。
拳銃が床へ転がる。
その隙に空は一気に距離を詰めた。
蹴り。
肘打ち。
最小限の力だけで急所を外し、確実に意識だけを奪っていく。
♢
一分後。
倉庫には静寂だけが戻っていた。
床へ倒れた男たちは全員生きている。
しかし、もう誰一人として抵抗できる者はいなかった。
空は携帯端末を取り出す。
『対象グループの無力化を確認。違法兵器は回収可能な状態です』
短く入力する。
『現場の隠蔽処理を開始します』
送信。
返事はない。
必要もない。
これはアレイスターから与えられた仕事。
盤面を乱す駒を静かに取り除く。
ただ、それだけだ。
送信を終えた瞬間。
頭の奥で鈍い痛みが脈打った。
「……っ」
こめかみを押さえる。
視界がわずかに揺れる。
鼻の奥が熱い。
ぽたり。
赤い雫がコンクリートへ落ちた。
「またか。」
手の甲で鼻血を拭う。
演算を重ね過ぎた反動だった。
能力を同時展開するたびに、脳は限界まで酷使される。
まだ再生能力を使うほどではない。
だが、この痛みには慣れることはなかった。
空は倒れた男たちを見渡す。
恐怖に歪んだ顔。
散乱した武器。
血の匂い。
火薬の臭い。
それらはもう見慣れた景色だった。
(俺は綺麗じゃない。)
昼間は笑っていた。
常盤台で生徒たちへ能力を教え、美琴や黒子と他愛もない話をしていた。
あの時間は本物だった。
だからこそ思う。
(この手が汚れているから、あの場所は汚れずに済む。)
誰かが裏で泥を被らなければ、平穏は続かない。
なら。
その役目は自分でいい。
空っぽの器には、もう失うものなどないのだから。
夜風が制服の裾を揺らす。
少年は最後に一度だけ倉庫を振り返ると、月明かりの中へ静かに歩き出した。
昼には優しい高校生として笑い、夜には誰にも知られず街を掃除する。
その背中を見送る者は、誰一人としていなかった。