いつもより長めです。
第1幕:特殊任務の陰
「……不味いな。フランスのコーヒーは、俺の舌には上品すぎる」
フランス北部の港町・カレー。歴史ある石畳の街角で、道中の自販機で買った現地の缶コーヒーを一口飲み、瀬川空は小さく顔をしかめた。彼が日頃から愛飲し、過剰な演算の燃料としている学園都市の「極甘」に比べれば、これはただの苦い泥水に思えた。
暗部の
「なんでまた、こんな遠くまで来ちまったのか……」
♢
事の発端は、
事件で負傷した白井黒子の見舞いにでも行こうと、研究所を出ようとしたまさにその時、アレイスターから暗号通信が入ったのだ。
学園都市では今、大覇星祭に加え、歴史的な建造物である宇宙エレベーター『エンデュミオン』の完成と、その記念ライブが目前に迫り、街全体が浮き足立つお祭り騒ぎになっていた。
十中八九、その警備の裏方か、あるいは負傷した結標淡希の代わりに案内人の真似事でもさせられるのだろうと嘆息しながら通信を確認した。しかし、空の予想は完全に外れていた。
『——フランス・カレー近郊に潜伏する魔術結社の討伐、および彼らが管理するアーティファクトの回収』
曰く、不老不死を研究する魔術結社が有するアーティファクトの記述が原因で、学園都市への魔術師の不法侵入が相次いでいるとのことだ。
また面倒ごとを、と忌々しく思いながら仕事の詳細を確認していくと、その中に一つ、ひどく不可解な文言を見つけた。
『帰国日はこちらが指定する』
暗部の仕事において、上層部からスケジュールを分単位で拘束されることなど滅多にない。目標の排除と隠蔽さえ完了すれば、移動や日程は現場の裁量に任されるのが通例だ。わざわざこのような『足止め』とも取れる命令をしてくるのは、確実に何か裏がある。
「まぁ、いいさ。雇い主の裏事情なんて、掃除屋には関係ない」
通信端末を閉じ、リビングでくつろぐ妹達に声をかけた。
「ワケあって数日家を空けることになった。俺が不在の間のお前らの食事の作り置きを何日分か用意しないといけないから、イチ、手伝ってくれ」
♢
それから三時間後、空は第23学区の空港から超音速旅客機に乗り込み、数時間のフライトと列車を乗り継いで、このカレーの街へとやってきたというワケだ。
学園都市はすでに夕暮れ時だろうが、こちらはまもなく昼を迎えようとしている。
「アイツら、俺がいなくてもちゃんと夕飯の温め直しができるだろうか……シノあたりが電子レンジを改造して爆発させなきゃいいけど」
時計の上では昼時でも、空の体内時計は完全に夜の準備を始めていた。時差ボケによる特有の気怠さが、思考に薄い靄をかけている。
「はぁ、指定された帰国日までまだ時間はあるし、今日は時差ボケを治す日に当てるか……。カレーはフランス国内でも一番イギリスの魔術的影響を受けている土地だ。上手くいけば、イギリス清教とローマ正教、両面の魔術的痕跡をエミュレートできるかもしれないしな」
♢
「……やれやれ。プラン通り、第8位を無事に盤面から排除できたようだな」
窓のないビルの中、生命維持装置の培養液の中で逆さまに浮かぶ学園都市統括理事長、アレイスター=クロウリーは淡々と呟いた。
「これまでの事案と異なり、科学の粋と魔術の奇蹟が複合した今回の『エンデュミオン』の事象において、彼はあまりにもイレギュラーに過ぎる。
アレイスターは口元に微かな笑みを浮かべ、虚空のモニタに映る計画書を見つめた。
『不老不死個体・レディリー=タングルロード保護計画』。
♢
場所を戻して、フランス・カレー。一夜が明けた。
「ふわぁぁ……よく眠れた。早めに仕事を終わらせて、帰国までの間は適当に観光でもして、イツキたちへの土産を見繕うか」
昨日は街の散策してみたものの、魔術の専門家ではない空が簡単に見つけられるような魔術的な痕跡は、堂々と街中に転がっているはずもなかった。
「いっちょ、本題を片付けますか」
空は昨日のうちに買っておいたバゲットのサンドイッチを齧りながら、戦闘の支度を開始した。
ホテルでタクシーを捕まえ、アレイスターから送られてきた情報に従って魔術結社の拠点から数キロ離れた場所まで移動し、そこからは徒歩で向かった。
「……おかしい。座標はここで間違いないはずだ」
指定された位置に到着したが、そこにあるのはドーヴァー海峡の荒波が打ち付け、潮風が吹き荒れる切り立った崖だけだった。魔術結社は中世の古城を拠点にしていると聞いていたが、古城の影も形もなく、ただの古びたフェンスが申し訳程度に立っているだけだ。
周囲に目を凝らしても、やはり何もない。
その時、空の通信端末にタイミングよく連絡が入った。
『魔術結社の拠点は大規模な隠蔽魔術により、別次元の位相に隔離されている。カレーの街の全域にわたって形成された魔法陣のノードを破壊しなければ、潜入は不可能』
空の中で、不信感と違和感が確信へと変わった。
拠点の詳細な座標を知っておきながら、それが別次元に隠蔽されていることを「直前まで知らせない」などというずさんな情報伝達はあり得ない。まるで、空が現場に到着したのをわざと見計らったかのようなタイミングだ。
帰国日の指定というイレギュラーな命令と合わせれば、答えは一つしかない。
(……俺をたらい回しにして、学園都市から長期間引き離したかったんだろ。統括理事長)
まだ全貌が見えない以上、その真意は分からない。だが、ここまで露骨な時間稼ぎを仕掛けてくるとは、学園都市でよほど「俺に見られたくない何か」が進行している証拠だ。
「……またタクシーを呼ぶか。観光の予定はキャンセルだな」
空は舌打ちを一つ落とし、任務を完遂すべく踵を返した。
♢
カレー市内に戻った空は、端末に送られてきた魔術陣のノードを次々と破壊して回った。
「チッ。この魔法陣、ただの隠蔽にしては面倒臭い構造をしていやがる」
闇雲に破壊して済む問題ではなかった。別次元の位相を編み込んでいる魔術である以上、力任せに破壊すれば、周囲の空間が別次元に巻き込まれて消滅するか、位相のズレによる未知の重力場に押し潰される危険がある。
安全に隠蔽を解くには、複雑なパズルを解くように、破壊する箇所の『順番』が厳密に決められていた。しかもその順番が極めて厄介で、カレー外縁部を一つ破壊したかと思えば、次はその真逆の端、そして次は中心部……と、街中を反復横跳びするように移動を強いてくる。
「不幸中の幸いというべきか、最後に破壊するノードが拠点のすぐ近くだってことくらいだな……っと、これで残りは一つか」
天草式の『多重補完の術理』を応用し、魔術への干渉による負担は大きく軽減されていた。だが、街全体を覆うほどの大規模魔術の解体に触れ続けた結果、空の鼻からはツーッと赤い血が流れ出ていた。
「四時間か……意外と時間を食ったな」
ティッシュで鼻血を乱暴に拭い、空は再び崖へと向かった。
♢
「さて……と、あとはこいつだけだな」
崖の突端。空は、不味いフランスの缶コーヒーを片手に、もう片方の手でシノが作ったボールペンを地面に深く突き刺した。
蜃気楼が晴れるように、何の変哲もなかった崖の頂に、中世の時代から放置されたままの巨大な古城跡がその不気味な姿を現した。石積みの壁は崩れかけ、長い年月の間に這い回った蔦が影を落としている。
「ようやく見つけたぞ。無駄な足踏ませやがって」
缶コーヒーを飲み干し、アルミ缶を片手でベキッと握り潰しながら、空は古城へと歩を進めた。
「……侵入者だ! 隠蔽の結界が破られたぞ!」
「学園都市の科学の犬め、どうやって我々の霊装の網をすり抜けた!?」
古城の奥から、黒いローブを纏った魔術師たちが次々と姿を現した。彼らは『不死』という概念を狂信的に研究し、独自の異端な魔術体系を構築した結社だった。
怒号と共に、十数人の魔術師が殺意を込めた詠唱を一斉に紡ぎ始める。大気が震え、灼熱の炎の槍や、大木すらへし折る不可視の衝撃波が、空の細い身体を四方八方から串刺しにせんと殺到した。
「エミュレート——」
空の瞳から、人間らしい温かな感情がスッと消え失せる。
彼の手の指の間に挟まれているのは、カーボンコーティングされた数枚の『トランプ』。
「『
手首の極めて軽いスナップだけで放たれたカードは、空気抵抗を完全に無視し、音速を超えて虚空を舞った。
炎の槍は、トランプが通過した瞬間に空間そのものごと「ズレ」て切断され、霧散する。衝撃波は、摩擦を失ったカードの軌道に干渉することすらできず、すり抜けていく。
「なっ……我々の魔術が、ただの紙切れに切断された……!?」
驚愕に目を見開く魔術師たちの喉元や手首を、トランプの裏面が峰打ちのように正確に弾打し、彼らの意識を次々と刈り取っていく。
わずか三分。
「不死」を謳った魔術結社は、空がポケットに入れたもう片方の手を出すまでもなく、無惨に完全制圧された。
「まだまだいるんだろう? 全員出てこいよ。それとも、こっちからお迎えに行ってやろうか?」
♢
「もうここら一帯に息のある奴はいないようだな。あっけないものだ」
潜入から二時間後、魔術結社は正真正銘、壊滅した。
蓋を開けてみれば、戦いを挑んできたのは最初の防衛部隊だけで、奥にいた残りの連中は無様な命乞いをするか、聞く価値もない「不死の探求に加わらないか」という戯言を垂れ流すだけで、特段の苦労もしなかった。
「……まぁ、体力を温存できたことだけは感謝しておくか。それじゃ、アレイスターの欲しがってるアーティファクトとやらを回収のついでに色々見させてもらいますか」
空は元来の性質として知的欲求が大きい。このような「未知」に溢れた場は天国のようだった。
3時間ほどかけて城中を物色して回った空は古城の最奥にある、ひときわ厳重な扉の奥の儀式の間へと足を踏み入れた。
そこには、古びた羊皮紙の束と、鈍い光を放つ宝石のような魔術霊装が安置されていた。空は慎重に羊皮紙を手に取り、そこに記された暗号化された記述を、脳の演算領域を回して高速で翻訳していく。
「……?」
翻訳が進むにつれ、空の虚ろな瞳に微かな動揺が走った。
そこには、この結社が崇拝し、狂信的に追い求めていた『ある存在』の記録が記されていた。
『——800年生きる少女。レディリー=タングルロード。彼女の持つ究極の不老不死の奇蹟こそ、我らが至高の目標である』
さらに、結社の幹部が最近レディリー本人と接触した際の手記が残されていた。
『……彼女は、あろうことか自身の死を望んでいる。自身の不死の奇蹟を物理的に打ち破り、この世から消滅するために。彼女は宇宙にまで届く現代のバベルの塔を触媒とし、北半球全域を吹き飛ばす規模の魔術陣を起動するつもりだ。我々は、その崩壊の瞬間に立ち会い、圧倒的な死のエネルギーから不死の秘密を解き明かす……』
「……北半球を、吹き飛ばす?」
パサリ、と。空の手から羊皮紙が滑り落ちた。
全身の血液が一瞬で沸騰し、次いで絶対零度まで凍りつくような強烈な悪寒が走った。
北半球が吹き飛ぶ。それはつまり、日本の——学園都市の完全なる消滅をも意味する。
いつもバカ騒ぎをしている上条当麻、土御門、青髪ピアス。
教え子である御坂美琴や白井黒子。
そして何より。あの廃研究所で、自分の帰りを待ってくれている、イチ、ニナ、ミト、シノ、イツキ。
愛する五人の『家族』のいる日常が、たった一人の少女の自殺願望によって、根こそぎ灰にされようとしているのだ。
「バベルの塔……エンデュミオンか……!」
『レディリー=タングルロード』という名と、宇宙にまで届くという記述から、学園都市で完成間近と騒がれていた宇宙エレベーターを想起するのに、さほど時間は要らなかった。
「……ふざけ、んな……ッ!」
空の喉の奥から、獣のような怒りの唸り声が漏れた。
アレイスターは、この狂った計画を知っていて放置しているのだ。エンデュミオンの騒動に乗じて、彼女の身柄を確保するために。その結果、学園都市が危機に瀕することなど、盤上の駒の動きとしか思っていない。
表向きは、学園都市の脅威となる魔術サイドの不穏分子の排除。だが、その裏にあるアレイスターの「真の意図」は明確だった。
学園都市でこれから起きようとしている事象に対して、空の『
魔術の術理すらその身に取り込み、並列処理で再現・相殺してしまう空の能力は、アレイスターが裏で糸を引いている『レディリーの回収計画』にとって、予測不能なノイズになり得る。
だからこそ、もっともらしいダミー任務をでっち上げ、空を地球の裏側であるフランスの古城へと「完璧に隔離」したのだ。
『任務終了。現地にてそのまま待機せよ』
タイミングよく鳴った通信端末の液晶画面を、空は力任せに握り潰した。バキィッという音と共に、ガラスと基盤が粉々に砕け散る。
「待機だと? ……上等だ。俺の大事なもんを盤面の都合で巻き込んで、ただで済むと思うなよ」
空はアーティファクトと手記をポケットに押し込み、全速力でホテルへと引き返した。
第2幕:決断
「はぁ!? 日本行きの便は全便欠航だと!?」
ホテルに戻った空は、航空会社の予約画面を睨む。
帰国日の指定を無視する以上、アレイスターが手配した超音速旅客機は使うことができない。そのため、空は一般の航空会社のチケットを取ろうとしたが、フランスから日本への直通便は不自然な理由で全便欠航になっていた。
「宙吊り野郎め……ここまで手を回すか。クソッ、時間はかかるが乗り継ぎでもいい……って、主要な乗り継ぎ便も悉くシステム障害だの天候不良だので邪魔が入っていやがる」
キーボードを叩く指にギリギリと力がこもる。学園都市までの最速ルートを、自らの演算領域も併用して導き出す。
空間移動を使えば理論上はもっと早く到着することもできるだろうが、数ある能力の中でも屈指の複雑な十一次元演算を求められる空間移動系の能力を使って、ユーラシア大陸を横断するのは現実的ではない。脳が確実に焼き切れる。
最悪の場合、北半球を吹き飛ばす規模の魔術を相殺しなければならない以上、体力を温存しておかなければならない。
「……これしかない、か」
しばしの格闘の末、ヨーロッパの小国を経由し、いくつかの民間機を乗り継ぐルートを強引に確保した。だが、それでも到着は明後日の昼過ぎになる。
「エンデュミオンの完成は9月18日……間に合うかどうかは五分五分といったところか。クソッ、ここにきて奇蹟頼みしかないか……!」
♢
「……間に合ったと、見ていいのか……?」
9月18日。悶々とした長すぎるフライトを終え、空はついに学園都市へと帰り着いた。
到着して空が見上げた頭上遙か高く。学園都市の新たなる象徴として建造された宇宙エレベーター『エンデュミオン』が、今まさにその巨大な基部を切り離され、パージされようとしているところだった。
レディリーの仕掛けた魔術陣が起動し、エンデュミオンの質量を地球に落下させることで北半球を粉砕しようとする狂気の計画。
しかし、その崩壊しつつある巨塔の上層部では、親友である上条当麻が理不尽な『奇蹟』を打ち砕くべく、宇宙にまで飛び立ち、死闘を繰り広げているという情報を暗部回線から拾い上げた。
「上条……。お前はやっぱり、すげえよ」
空は、足元をふらつかせながらも、口元に血まみれではない、純粋な安堵の笑みを浮かべた。
表の主人公は、すでに一番高い舞台の上で、世界を救うために拳を握っている。
ならば、裏方の自分がやるべきことは一つしかない。
「俺は地上から、お前の舞台の床が抜けないように支えるだけだ」
エンデュミオンが崩壊すれば、その莫大な質量を持った破片が流星雨となって学園都市に降り注ぐことになる。
空は、ボロボロの服の裏地から、シノが限界までチューンナップしてくれた大量の日用品——ペン、タングステン内蔵のビー玉、特殊コーティングされたトランプを全て引き抜いた。
『エミュレート——
空の脳細胞が、一斉に悲鳴を上げて焼き切れそうになる。
彼は学園都市の地図を頭の中に展開し、妹達がいる第七学区の廃研究所周辺、インデックスや小萌先生たちが避難しているであろうエリア、そして美琴たちのいる区域を重点的に、見えない防御の網を張り巡らせ始めた。
トランプを空間の座標軸に『空間固定』で配置し、無数のビー玉に『ベクトル操作』と『流体反発』の理を込めて宙に浮かせる。
大気圏を突破して落ちてくる巨大なコンクリート片や鉄骨を、空中で自動的に粉砕し、あるいは無人の区画へと軌道を逸らすための、街規模の自動迎撃トラップの構築。
「ガァァァァァァッ!!」
目、鼻、耳から同時に血が吹き出す。脳血管が千切れ、視界が真っ赤に染まる。
だが空は、地上でたった一人、誰にも気づかれることなく血反吐を吐きながら、街を破滅の雨から守り抜くための孤独な防衛線を維持し続けた。
——そして。
奇蹟は再び起きた。上条当麻の右手と、歌姫の歌声によって、エンデュミオンの落下軌道が地球を外れたのだ。
比較的小さな破片は降り注いだが、空の命を懸けた入念な防衛線により、学園都市の重要区画の被害は完全にゼロに抑え込まれた。
『奇蹟』は瓦解し、北半球崩壊の危機は回避された。上条たちは無事に生還の途につき、街を覆っていた絶望の影は完全に晴れようとしていた。
だが、空の『掃除屋』としての仕事は、まだ終わっていなかった。
「……あいつだ」
空の血に染まった瞳が、崩壊して地球へと落下していく宇宙エレベーターの一部——その瓦礫の中にぽつんと残された、一人の少女の姿を捉えた。
レディリー=タングルロード。
目的である「自らの死」を果たすことができず、ただ宇宙空間から無力に落ちていく、永遠の呪いに囚われた少女。
ステイル率いるイギリス清教の魔術師たちや、アレイスターが差し向けた暗部の黒服が、一斉に彼女の落下予測地点に向けて動き出す気配を感じる。
「……アレイスターの思い通りに、あの少女を『実験動物』として回収させるわけにはいかない」
木原やアレイスターのような人間が、死ねない少女を手に入れればどうなるか。妹達と同じように、永遠のモルモットとして暗部の底で解剖され続ける地獄が待っているのは、火を見るより明らかだった。
空は、残された最後の脳のキャパシティを振り絞り、大気圏から落下してくるレディリーの軌道計算を極限まで加速させた。
風向き、空気抵抗、質量の変化、そして重力加速度。
「——弾き出した」
イギリス清教よりも、アレイスターの回収部隊よりも、一秒でも早く。
空は、『空間移動』の演算を立ち上げ、自らの血に染まった体を強制的に落下予測地点へと跳躍させた。
第3幕:落下地点の遭遇〜死を望む少女と空洞の少年〜
学園都市の郊外。一般人の立ち入りが厳しく制限された未開発区域。
ズドォォォォォンッ!! という凄まじい衝撃と共に、エンデュミオンの破片が地面に激突し、巨大なクレーターを穿った。
もうもうと舞い上がる土煙が晴れたクレーターの底。
そこには、全身の骨が砕け、肉が潰れるほどの致命傷を負いながらも、青白い光を放って気味が悪いほど速やかに再生していく少女——レディリー=タングルロードが横たわっていた。
「あ……ああ……ッ」
彼女の瞳から、絶望の大粒の涙が溢れ落ちる。
どれだけ高い場所から落ちても。どれだけの質量に押し潰されても。
彼女に掛けられた「
「また……死ねなかった……。どうして、私だけが……。もう、嫌だ……こんな世界……ッ」
約1000年。ただ死ぬためだけに生き続け、その希望すらも打ち砕かれた少女の、血を吐くような慟哭。
その絶望の底に、一つの影が落ちた。
「——ずいぶんと、重たい現実を背負ってるんだな、あんた」
「……え?」
レディリーが涙に濡れた顔を上げると、クレーターの縁から土を滑り降りてくる一人の少年の姿があった。
目や鼻からドス黒い血を流し、自身も立っているのが不思議なほどの重傷を負っているにもかかわらず、その少年——瀬川空は、気怠げで、どこか虚ろなニコニコとした笑顔を浮かべていた。
「誰……? イギリス清教の追手? それとも、学園都市の犬……?」
レディリーが警戒して身を強張らせ、砕けた腕を無理やり動かそうとする。だが、少年から敵意や殺気は一切感じられなかった。
空はゆっくりと彼女に歩み寄り、その傍らにどっこいしょ、と腰を下ろした。
彼の瞳は、レディリーを「魔術師」としてでも「危険な資源」としてでもなく、ただの一人の『絶望した迷子の少女』として真っ直ぐに見つめていた。
「俺は、俺の大切な『日常』を壊そうとしたあんたを、止めに来た。……でも、あんたのその泣き顔を見たら、説教する気も失せたよ」
空は、自身の胸をトントンと軽く叩いた。
「1000年の孤独。永遠に他者と分かり合えず、死ぬことすら許されない地獄。……俺には、あんたのその途方もない絶望は、真には理解できないかもしれない。でも、少なくとも他の奴らよりかは、少しだけわかる気がする」
レディリーは息を呑んだ。
少年の瞳の奥にある、底なしの『空洞』。それは、1000年という長すぎる時を生きた彼女でさえ見たことのない、圧倒的な自我の欠落だった。
親に捨てられ、恩人を奪われ、他人の存在に依存しなければ自我を保てない空。アイデンティティを持たず、空っぽの器として生きる彼にとって、レディリーの『終わらない永遠の孤独』は、ベクトルの向きこそ違えど、鏡写しのように強烈なシンパシーを感じさせたのだ。
「あんたの『現実』は重すぎる。でも、俺は中身が空っぽだから……少しだけなら、その重りのお裾分けをもらえる」
空は、血に濡れた手をそっと伸ばし、レディリーの冷たい頬に触れた。
「な、何を……!」
「動くな。——あんたの『奇蹟』を、俺が科学の理屈でハッキングしてやる」
空の瞳から、一切の感情が消え去った。
『疑似発現』——フルアクセス。
彼の手を通じて、レディリーの肉体と魂に深く刻み込まれた、1000年前の「不老不死の魔術」の術理が、空の演算領域へと直接、濁流のように流れ込んでいく。
第4幕:奇蹟へのハッキング
「ガァァァァァァァァッ!!? ァァァァッ!!」
接触した瞬間、空の絶叫がクレーターに響き渡った。
それは、これまでに彼がエミュレートしてきたどんな強力な能力や大魔術とも、次元が根本的に違っていた。
1000年という、果てしない途方もない時間。何世代にもわたる生命の情報を固定し、一切の変質を許さずに「元の状態」へとループさせ続ける、絶対的で神話的な魔術構造。
その天文学的な情報量が、空の空っぽな脳髄を一瞬でパンクさせた。
七孔——両目、両耳、両鼻、そして口から、どす黒い血が滝のように噴き出す。
脳の血管が次々と弾け飛び、細胞が沸騰し、頭蓋骨が内側から軋む。
「あ、ああ……! やめろ、死ぬぞ! 私の呪いは、ただの人間の器で受け止めきれるものじゃない!」
レディリーが悲鳴を上げて彼の手を振り払おうとするが、空の万力のような力は決して彼女の頬から離れなかった。
「ハハッ……! 上等、だ……ッ! こんなバグだらけのふざけた奇蹟なら……俺が、書き換えてやる……!」
空は、血反吐を吐きながら、自身の生存本能のすべてを投げ打って『肉体再生』と『痛覚遮断』を並列起動させた。脳髄が破壊される端から細胞を強制分裂させ、死の淵に爪を立てて演算を強引に繋ぎ止める。
レディリーの不死。それは、肉体の時間が常に『ある一点』へと戻り続ける、無限のループ構造(円環)だった。
ならば、その円を断ち切り、直線を引けばいい。
空の脳内で、科学の街で培った『理』が立ち上がる。
学園都市第一位・一方通行の持つ、絶対的な『ベクトル操作』の法則。
そして、ミサカネットワークや自身の肉体再生の演算を通して熟知している、『テロメア』という、細胞分裂の限界——生命が確実に死へと向かう科学的な寿命の概念。
相反する魔術と科学。
円環の奇蹟に対して、一方向にしか進まない破滅の理を、空の空洞化された頭脳が強制的に融合させる。
「……ッ!!」
空が血に染まった瞳をカッと見開いた瞬間。
彼の指先から、莫大な演算の奔流がレディリーの肉体へと逆流した。
「あ……ぁ……?」
レディリーの全身を覆っていた傷を修復しようとする青白い奇蹟の光が、パリンッ、というガラスが砕け散るような音と共に、不可逆な変化を起こした。
円環に閉じ込められていた彼女の『時間』のベクトルが、強制的に断ち切られ、前へと進み始めたのだ。
「今までのあんた……魔術の奇蹟が『円環』なら、今のあんたは、一本の『直線』だ。……ハハ……」
空は、限界を迎えた手をゆっくりと離した。
レディリーの肉体の再生が、完全に停止した。
彼女の皮膚についた小さな擦り傷は、もう青白い光を放って治癒することはなく、普通の人間と同じように、ただ赤く血を滲ませているだけだった。
魔術的な不老不死の奇蹟は、空の『ハッキング』によって見事に破壊された。
彼女の肉体は、ただの「寿命が異常に長いだけの、いつか確実に死が訪れる人間」へと上書きされたのだ。
「……ぁ……」
レディリーは、自分の震える手を見つめた。
治らない傷。ヒリヒリと痛む身体。
それは、彼女が1000年間、どれほど望んでも決して手に入れることのできなかった『終わりのある命』の証明だった。
エピローグ:極甘のコーヒーと生者の特権
「……私、は……」
レディリーは、クレーターの底にへたり込んだまま、驚愕と混乱で呆然と空を見上げた。
不死が解けた。自分の停止していた時間は、再び動き出した。
その事実を受け止めきれず、唇を震わせる彼女に対し。
空は、服の袖で顔中を覆っていた血を乱暴に拭うと、いつもの気怠げでニコニコした、少しだけ温かい笑顔を作った。
そして、ボロボロになった制服のポケットから、ミトに持たされていた『極甘の缶コーヒー』を取り出し、カシャッとプルタブを開けて、レディリーの両手に強引に押し付けた。
「な、に……これ……」
「死ぬのは、『生きてる奴』だけの特権だ」
空は、少しだけ焦げ臭い風が吹くクレーターの中で、静かに言った。
「1000年死ねなかったあんたは、今日、初めて本当の意味で『生きる』ことができるようになったんだ。……どうせいつか死ぬ体になったんだから、そんなに急いで特権を使うなよ」
手の中の缶コーヒーから伝わる、温かい熱。
そして、鼻を突くような、信じられないほど暴力的な甘い匂い。
レディリーの瞳から、今度は絶望ではなく、止めどない感情の奔流としての涙が溢れ出した。
彼女は両手で缶コーヒーを強く握りしめ、まるで小さな子供のように声を上げて泣きじゃくった。
その時、空の知覚が、遠くから多数の気配が急速に近づいてくるのを捉えた。
ステイル率いるイギリス清教の部隊、そしてアレイスターが放った暗部回収班だ。
(……潮時だな)
「さてと。家の妹が、新しいゲームのコントローラー握って俺の帰りを待ってるから、俺は帰るわ」
空は、コートの埃を払いながら、レディリーに背を向けた。
「……お前も、いい加減新しい日常を探せよ。一〇〇〇年分の夏休みを取り戻すくらいにな」
「待って……! あなたは、誰……?」
涙顔で顔を上げたレディリーの問いかけに対し、空は振り返ることなく、右手を軽く上げた。
『エミュレート——空間移動』。
パァンッ! と空気が弾ける音と共に、瀬川空の姿は忽然と消え去った。
直後、黒服の回収部隊が駆けつけてきた。
彼らが目にしたのは、宇宙エレベーターの残骸の中で、ただの「人間の少女」に戻り、温かい缶コーヒーを両手で大切そうに握りしめて、ポロポロと涙を流しているレディリーの姿だけだった。
アーティファクトとしての価値を失い、不老不死の奇蹟を失ったただの少女を、アレイスターが当初の予定通りの「実験動物」として回収する意味は、もはやどこにも残されていなかった。
♢
数十分後。
第七学区の廃研究所。
血と泥にまみれ、満身創痍で帰還した空を出迎えたのは、「お兄ちゃん遅いー!」と文句を言いながらもタオルを持って駆け寄ってくるイツキと、慌てて救急箱を広げる妹達の騒がしい声だった。
「……わりぃ。ちょっと、寄り道が過ぎた」
空は、心底幸せそうな笑顔で、家族たちの待つ温かい光の中へと倒れ込んだ。
北半球を揺るがした奇蹟の裏側で、掃除屋の少年は今日も、一つの日常を完璧に守り抜いたのだった。
♢
「ふむ……不老不死の呪いを解いたか……」
窓のないビルの中。アレイスター=クロウリーは、プランが崩れたにも関わらず、楽しげに笑みを浮かべていた。
「瀬川空……お前は私を出し抜いたとでも思っているのかもしれないが、『第二プラン』は成功したぞ」
『宇宙空間での魔術使用のサンプル保護、および第8位の強化計画』。
そう書かれた計画書を眺めながら、アレイスターは無機質に呟いた。
魔術と科学を融合させ、神話の奇蹟すら書き換えた彼の実績は、アレイスターの計画において極めて重要なデータとなった。
「とはいえ、『第一プラン』失敗分の補填はしてもらわないとな、瀬川空」
逆さ吊りの支配者は、次なる波乱の火種を盤面に置くべく、冷徹な思考を巡らせ始めた。