九月十九日。
学園都市の全学校が合同で開催する、年に一度の超大規模な体育祭——『大覇星祭』が、ついに開幕のファンファーレを鳴らした。
230万人という途方もない数の学生たちが一斉に参加し、七日間にわたって繰り広げられるこの祭典は、普段は外界から厳重に隔絶されている学園都市が、唯一その門戸を一般に開放する期間でもある。
外部からの観光客やメディアのカメラが大勢なだれ込み、街全体が浮き足立ったような異常な熱気に包み込まれていた。抜けるような秋晴れの青空には巨大なアドバルーンがいくつも浮かび、第七学区のメイン競技場には、地鳴りのような割れんばかりの歓声が響き渡っている。
「うおおおおッ! カミやん! そこだ、右! 右ィッ!」
「分かってるっての! ……って、うわあああっ!?」
玉入れの競技中。上条当麻が敵チームの能力による妨害——微弱な風のベクトル操作で軌道を捻じ曲げられた無数の赤玉——を『幻想殺し』の右手で必死に弾き落とそうとしていたが、足元に転がっていた白玉を派手に踏み抜き、空中で見事な放物線を描いて盛大にすっ転んだ。
砂埃を上げて顔面から地面に突っ込む上条の姿を見て、競技中にも関わらず土御門元春と青髪ピアスが腹を抱えて笑い転げている。
「あんたたち! 笑ってないで真面目にやりなさいよ! 上条、早く起きなさい!」
クラスの鉄壁の委員長である吹寄制理が、額に青筋を立ててメガホンを振り回し、観客席から怒号を飛ばしていた。記憶を失う前と何一つ変わらない、上条の「不幸」とそれを取り巻く騒がしい連中のやり取り。
「ははっ、相変わらずだな」
瀬川空は吹寄から少し離れた日陰の下で配給のスポーツドリンクを飲みながらその光景に目を細めた。
もちろん、ただのスポーツドリンクではない。彼のボトルには、限界まで脳を酷使する彼自身の特製ブレンド——致死量に近いブドウ糖とミトが抽出した極濃カフェインがたっぷりと溶かし込まれている。
喉を焼くような甘ったるい液体を飲み下しながら、空は目の前の景色を静かに網膜に焼き付けていた。
どこにでもある、高校生らしい青春のワンシーン。
つい先日まで、自分や上条が血反吐を吐きながら戦っていた『魔術師のテロ』や、『絶対能力進化計画』の殺伐とした空気など、微塵も存在しない。
太陽の光の下で誰もが笑い、汗を流し、勝敗に一喜一憂する。
あまりにも眩しく、そして完璧に作り上げられた「日常」の景色だった。
(……この完璧な祭典の裏で、どれだけの血が流れて、どれだけのゴミが掃除されてきたかなんて、誰も知らなくていい)
空は、自身の中にある空っぽの器が、彼らの屈託のない笑顔によって心地よく満たされていくのを感じていた。
俺の存在意義は、この景色を死守することにある。
自分の出場種目までの空き時間を確認すると、空は「ちょっとトイレに行ってくる」と適当な嘘を吐き、クラスメイトたちの輪からそっと抜け出した。
競技場の喧騒を背に、彼が向かったのは、無数の出店が立ち並ぶメインストリートの裏側、少し人通りの少ない木陰のエリアだった。
「……待たせたな」
空が声をかけると、木陰のベンチに座っていた五人の少女たちが、一斉に顔を上げた。
彼女たちの服装は、いつもの常盤台中学の制服ではない。空がこの日のために買い与えた、それぞれ少しずつデザインの違う秋物の私服だ。さらに、祭りの人混みの中で第三位の超能力者と瓜二つの顔が悪目立ちしないよう、彼女たちはそれぞれ巧妙な変装を施していた。
「ソラ! この『たこ焼き』という食べ物は、外側の生地と内側の内容物で温度の保持ベクトルが全く異なります。不用意に咀嚼すれば口腔内の粘膜に深刻な火傷の危険を伴う、極めて高度で危険な食物です、とイチはキツネのお面を頭の横にずらしながら、口元を押さえて熱そうに報告します」
「マスター、この着色料たっぷりの『ブルーハワイ』なるシロップがかかった氷は、薬学的な見地からしても非常に興味深いです。急激な冷却による副交感神経への過剰刺激で、頭蓋骨の奥がキーンと痛みます、とニナはツバの広い女優帽を目深に被りながら、青く染まった舌を出して笑います」
「ソラさん、あっちの射的で取った景品です。大事にしてくださいね、とミトは大きなサングラスを額に押し上げ、巨大なクマのぬいぐるみを微笑みながら差し出します」
「……射的で、こんなデカい景品取れるのか?」
空がクマのぬいぐるみを受け取りながら呆れたように聞くと、シノがキャップの鍔を指で弾きながら答えた。
「ミトの射撃精度に加えて、私がコルク銃の弾道と空気抵抗を瞬時に計算し、景品の重心を正確に撃ち抜くよう指示を出しました。完全な狙撃作戦の勝利です。それよりボス、ボスの奢りだからって調子に乗って食べ過ぎたぞ……胃袋の物理的な拡張工事が必要かもしれない、とシノはお腹をさすりながら少し苦しそうに息を吐きます」
「お兄ちゃん! 次はあっちのりんご飴っていう赤いのが食べたい! あと綿菓子も! とイツキは空の腕に抱きついて引っ張ります」
五つ子の妹達の、騒がしくも微笑ましい報告の連続。
「はいはい、順番にな。射的の景品、ありがとなミト。ほら、お前ら熱いものと冷たいものばっかり食べて喉渇いただろ。ジュース買ってきたぞ」
空は、手に提げていたコンビニの袋から、五人分の冷えたペットボトルのジュースを手渡し、順番に優しく頭を撫でてやった。
普段は第七学区の薄暗い廃研究所に引きこもりがちで、外の世界を知らなかった彼女たちが、こうして太陽の下で、普通の女の子として祭りの空気を全力で楽しんでいる。
熱いたこ焼きに驚き、かき氷で頭痛を起こし、射的の景品を自慢する。
その当たり前で、取るに足らない事実だけで、空の胸の奥は言葉にできないほどの甘い充足感で満たされていた。
(……このまま、七日間の祭りが無事に終わってくれれば最高なんだけどな)
彼女たちが笑って過ごせるこの時間が、一日でも長く続くように。
だが、学園都市の裏側に生きる『掃除屋』のそんなささやかな願いは、無情な電子の震えによって冷酷に打ち砕かれる。
『ヴヴッ、ヴヴッ——』
コートの裏ポケットに忍ばせていた暗部専用の漆黒の端末が、骨を伝うような嫌なバイブレーションを鳴らした。
空は表情を変えずに端末を取り出し、網膜認証でロックを解除して画面を一瞥した。
そこに表示されていた短い暗号文を解読した瞬間、空の瞳から「優しい兄」としての温かな光がスッと消え去り、絶対零度の冷気へと切り替わった。
『外部からの侵入者の情報。ブリーフィングのため直ちに主張せよ——A.C』
差出人は、A.C。アレイスター=クロウリー。
テキストの指示だけで済む通常の清掃任務とは違う。「出頭せよ」という直接的な呼び出し。
それは、学園都市のシステムそのものを揺るがすような、極めて深刻な事態が裏側で進行していることを意味していた。
空は画面の電源を落とし、チッと小さく舌打ちをした。
(侵入者だと……?しかも警備員や風紀委員じゃ無くてわざわざ俺に回すってことは…)
もしこの人混みの中で、大規模な破壊活動が行われれば、被害はこれまでの比ではない。
妹達をはじめ、もはや見捨てることのできない人たちが多くいるこの街の被害をゼロに抑え込む。
舞台の床が抜けないように、裏から血反吐を吐いて支えるのが、自分の仕事だ。
「……わりぃ。ちょっと急な『仕事』が入っちまった」
空は、端末をポケットにしまい込み、再びいつものニコニコとした笑顔を顔に貼り付けて妹達を振り返った。
「俺は行かなくちゃならない。お前らはこのまま祭りを楽しんでていいけど、人混みからはあまり離れないようにして、時間になったらまっすぐ家に帰るんだぞ」
空の言葉に、先程まで笑顔だった五人の少女たちの空気が、一瞬にしてピンと張り詰めた。
彼女たちはクローンであり、かつては戦闘用の実験動物として扱われてきた存在だ。空が言う『仕事』という言葉の裏にある、強烈な血の匂いと死の危険性を、誰よりも本能的に理解している。
「ソラ……。無理はしないでくださいね、とイチはキツネのお面を握りしめながら、不安げにソラの顔を見上げます」
「ボスの帰還まで、研究所の防衛システムは最大出力で維持しておきます。……必ず、無事に帰ってきてください、とシノは射的の銃を構えるように真剣な目を向けます」
「大丈夫だ。ちょっと祭りの裏で、たちの悪いゴミ拾いをしてくるだけだから」
空はしゃがみ込み、不安そうなイツキの頭をポンポンと叩いて安心させるように笑った。
「夜には帰る。晩飯は、たこ焼きの屋台でも買って帰ろうか」
妹達に背を向け、空は華やかなメインストリートの喧騒から、光の届かない路地裏へと身を翻した。
一歩、また一歩と日陰の奥へ進むごとに、背後のお祭り騒ぎの音が遠のいていく。
耳に届くのは、祭りの歓声ではなく、自分自身の冷たい足音だけだ。
向かう先は、学園都市の最深部。
第七学区の中心に、周囲の華やかな装飾を一切拒絶するようにそびえ立つ、窓も扉も存在しない巨大なモノリス——『窓のないビル』だった。
空は体操服のポケットに仕込んだタングステンビー玉とトランプの感触を指先で確かめながら、血の味が滲む口元を歪めた。
(どんなふざけた魔術の爆発だろうと……230万人のこの完璧な祭典に、傷一つつけさせてたまるか)
学園都市の表側が最も眩しく輝く七日間の始まり。
その裏側で、境界線の清掃員による、己の脳髄と命を削り尽くす最も過酷な防衛戦が、静かに、そして凄惨に幕を開けようとしていた。