学園都市第七学区の中心。大覇星祭の華やかな装飾や熱狂的な喧騒から完全に切り離され、周囲の風景を一切拒絶するようにそびえ立つ巨大なモノリス。
物理的な出入り口も、窓すらも一切存在しない強固な要塞——『窓のないビル』。
瀬川空は今、その最深部たる漆黒の空間に足を踏み入れていた。
本来であれば、この隔絶された空間への出入りは、暗部の『案内人』と呼ばれる能力者を介さなければ不可能である。だが、案内人の筆頭とも言える結標淡希は先日、白井黒子や上条当麻を巻き込んだ樹形図の設計者の残骸を巡る事件の負傷で今はまともに使えない。
そのため、空はアレイスターが手配した別ルート——使い捨ての座標移動能力者か、あるいはビルそのものに組み込まれた未知の術式か——を介して、気がつけばこの広大な暗闇の底に立たされていた。
一切の光源が存在しないはずの空間の中央。
そこには、赤黒い培養液に満たされた直径四メートル、全長十メートルにも及ぶ巨大な円筒形の硬質ガラスの試験管がそびえ立っていた。
液体の底からは気泡が絶え間なく湧き上がり、その中に、銀色の髪を持つ一人の人間が、手術着のような薄布一枚を纏った姿で『逆さま』に浮遊している。
男にも女にも、大人にも子供にも、聖人にも罪人にも見える、あらゆる人間の特徴を内包し、同時にすべてを欠落させたような異形の存在。
学園都市統括理事長、アレイスター=クロウリー。
この科学の街を創造し、支配し、230万人の生徒を盤上の駒として操る最大の化け物。
『——大覇星祭の開催に伴う混乱に乗じ、外部から未知の魔術結社が学園都市内に侵入した痕跡がある』
培養液の中の人間は口を動かしていない。だが、空の脳の奥底に直接響くような、機械的で、一切の感情の抑揚を持たない無機質な合成音声が空間を震わせた。
「魔術結社……? 外部の客を招き入れるとはいえ、これだけ厳重な検問とAIM拡散力場によるセキュリティネットを敷いておいて、ザルにも程があるだろ。あんたがわざと引き入れたんじゃないのか?」
空はボサボサの頭を掻きながら、コートのポケットに手を突っ込んだまま不遜な態度で返した。
いつも表の世界で見せている「高校生」の仮面は微塵もない。アレイスターに対する敬意など、空の中には一欠片も存在しなかった。自分も妹達も、この男の壮大な実験の『副産物』や『掃除屋』として使い潰される存在に過ぎないことを熟知しているからだ。
『私が意図したイレギュラーは、今日と明日のそれぞれ一件ずつだ。そして、それらは既に手筈は整えている。だが今回君に対処を命じる結社は、私の描くプランにおいても完全に不要なノイズに他ならない』
アレイスターの言葉と共に、暗闇の中に無数のホログラムウィンドウが展開された。
空中に浮かび上がったのは、黒装束に身を包んだ武装集団の監視カメラ映像と、羊皮紙に描かれた禍々しい紋章のデータだった。
『侵入した結社の名を、『
アレイスターの周囲に浮かぶホログラムが拡大され、一枚の古びた『旗』の画像を映し出した。
一見すれば、博物館に飾られているような中世のぼロボロの軍旗に過ぎない。血と泥で汚れ、引き裂かれた布地には、理解不能なルーン文字とラテン語が幾重にも縫い込まれていた。
『霊装——『
「熱狂を、抽出して力に変える……?」
空の虚ろな瞳が、わずかに細められた。
『左様だ。最古の使用例は、狂信の渦に飲まれた十字軍の遠征における異教徒の虐殺。そして直近では、第二次世界大戦における初期のナチスドイツの大進撃において、その存在が確認されている。群衆が何か一つの事象に対して熱狂すればするほど、彼らは無限のエネルギーを得て無敵の軍隊へと変貌するのだ』
空は、背筋に冷たい氷柱を突き立てられたような悪寒を覚えた。
周囲の熱狂をエネルギーに変換する。それは、普段の静かな学園都市であれば、それほどの脅威にはならなかったかもしれない。
だが、今は違う。
「……ってことは。この230万人の生徒と、外部からの観光客を含めた数百万人が、我を忘れて熱狂しているこの『大覇星祭』のど真ん中じゃ……」
『その通りだ。参加者たちの放つ、都市全域を覆い尽くす莫大な熱狂のエネルギーにより、現在の彼らは文字通り「無敵の軍団」と化している』
アレイスターの無機質な声が、絶望的な事実を淡々と告げる。
『現在、学園都市に潜伏している数十名の傭兵たちは、ただの三流の魔術師に過ぎなかった。だが、旗印の恩恵を受けた現在の彼らは、個々の傭兵が、魔術サイドにおける一騎当千の化け物——『聖人』に一歩手前まで迫るほどの暴力的な出力を得ている状態だ』
「……ッ!」
空は息を呑み、奥歯をギリッと噛み締めた。
聖人。かつて海沿いの街で、空の遥か上空で大天使と切り結んでいた神裂火織のような、人間を超越した次元の怪物。
もしアレが数十人規模で群れを成し、大覇星祭で人で溢れかえる学園都市の地上に現れればどうなるか。
街は一瞬にして血の海と瓦礫の山に変わり、数百万人の命が文字通り『消し飛ぶ』。上条や美琴たちがどれほど奮闘しようと、物量と圧倒的な暴力の前に押し潰されるのは火を見るより明らかだった。
「なら、手っ取り早く祭りを中止しろ!!」
空は、培養管に向かって声を荒らげた。
「熱狂がエネルギー源なら、競技を全部ストップして、客を避難させればいい! 祭りの熱気を冷まして熱狂の供給源を絶てば、ただの三流結社に戻るだろ! 俺が裏から一人ずつ片付けてやる!」
被害を抑えるための、至極真っ当で合理的な提案。
だが、アレイスターは空のその叫びを、冷酷な一言で一蹴した。
『それは許可しない』
「……は?」
空の思考が一瞬停止した。
『大覇星祭の規模縮小、および中止は一切認めない。この祭りは私のプランの根幹をなす。プランの頓挫だけは許されない。』
アレイスターにとって、230万人の命も、学園都市の存亡の危機も、すべては自身の壮大な目的を達成するための盤上の計算式に過ぎない。
人の命だとか都市のインフラだとかに比べて、『プラン』の方が彼にとっては優先順位が高いのだ。
『祭りの熱狂を冷ますことなく。一般生徒に一切の被害を出さず。そして、誰にも気づかれることなく、都市中に潜伏している結社を皆殺しにしろ。……それが、第8位たる君への命令だ』
「ふざけるな……ッ!」
空の喉の奥から、獣のような怒りの唸り声が漏れた。
「聖人一歩手前のバケモノが数十人もいるんだぞ!? それを、数百万人がお祭り騒ぎをしているすぐそこの陰で、誰一人死なせず、誰にも気づかれずに処理しろだと!? 無茶苦茶にも程があるだろ!」
一人でも日の下へ逃がせば、そこで被害が出る。
祭りの会場に少しでも魔術の余波や爆発音が響けば、パニックが起こる。
つまり空に要求されているのは、数十人の『擬似的な聖人』を相手に、音も立てず、光も漏らさず、完封して暗闇の中で静かに処理するという、神業を超えた『自殺行為』だった。
空の能力がどれほど最適化されていようと、脳のキャパシティには物理的な限界がある。これだけの数の怪物を同時に相手にし、かつ周囲への被害をゼロに抑え込むための空間遮断の演算まで並列で行えば、空の脳血管は今度こそ完全に破裂し、死に至る可能性が極めて高かった。
「てめぇのくだらねぇプランのために、俺の命をゴミみたいに捨て駒にする気かよ……!」
空の怒気を孕んだ視線に対し、培養液の中のアレイスターは目を閉じたまま微動だにしない。
『君が拒否するなら、それでも構わない。結果として結社が表へ這い出し、君の友人たちや、君が引き取った「妹達」が焦土の中で消滅するだけのことだ。……どうするね、瀬川空』
「…………ッ」
空は、ポケットの中で強く握りしめていた拳を震わせた。爪が掌に深く食い込み、微かに血が滲む。
アレイスターの言う通りだ。
理由はどうあれ、ここで自分が彼らを食い止めなければ、学園都市は終わる。
数時間前、たこ焼きやクレープを手に、太陽の下で無邪気に笑っていたイチ、ニナ、ミト、シノ、イツキの顔が脳裏に浮かんだ。
『お兄ちゃん、早く帰ってきてね!』
末っ子のイツキの声が、耳の奥でこだまする。
もし自分がここで逃げれば、彼女たちのあの笑顔は、理不尽な暴力によって一瞬で灰に変えられてしまう。
上条当麻が守ろうとしている日常も。美琴が信じた光も。白井黒子の正義も。
すべてが、暗部の泥沼に沈み、消滅する。
(……俺は、空っぽの器だ)
空は、ゆっくりと深呼吸をした。
激しく燃え盛っていた怒りを、急速に冷え込む氷のような冷徹さへと変換していく。
自分には、本来の自我なんて何もない。他人が笑って生きている「日常」の風景を自分の中に詰め込むことでしか、生きる意味を見出せない代替品だ。
だからこそ。
その日常が壊されることだけは、自分の命を天秤にかけてでも、絶対に許すわけにはいかなかった。
「……まあいい」
空は、ジャージのポケットから極甘の缶コーヒーを取り出し、カシャッとプルタブを開けて一気に喉へ流し込んだ。
暴力的な糖分が、これから死地に赴く脳髄へと強引に活力を叩き込む。
飲み干したアルミ缶を、片手でベキィッ! と握り潰し、空は培養管の中の化け物を冷ややかに睨み据えた。
「理由はどうあれ、祭りを止める気がないなら……俺の利害と完全に一致してる」
空は背を向け、一切の光がない窓のない部屋の出口へと向かって歩き出した。
これから向かうのは、生存率など計算するだけ無駄な、絶対的な死地。
だが、彼の足取りに迷いは一切なかった。
ポケットには、シノが徹夜で組み上げてくれた最高の触媒——タングステンビー玉と、特殊コーティングされたトランプ、そしてチタン合金芯のペンがフル装填されている。
「俺が『日常』の床を、裏から血反吐吐いて支えてやる。……せいぜい、盤面の上で存分に歌って踊れよ、アレイスター」
闇に溶けていく少年の背中。
その孤独な宣戦布告は、学園都市の支配者に届いたのかどうか。
『一つ朗報がある。奴らは今日は偵察に充てるはずだ。ひとまず準備に励むことだ。』
アレイスターは背中を見せる空に、なんの感情の色もない平坦な声をかける。
大覇星祭という光り輝く祭典の真下、冷たい地下水路の奥深くで。
境界線の清掃員による、誰の目にも触れない、学園都市防衛のための最も過酷で絶望的な皆殺しの死闘が、今まさに幕を開けようとしていた。