九月二十日、日没前。
太陽が西の空に沈みかけ、学園都市の空が燃えるような茜色から深い群青色へと変わりゆく中、地上の街は、ナイトパレードの準備によって、狂気的なまでの熱狂の頂点に達していた。
主要な大通りは完全に歩行者天国となり、巨大な電飾の山車が次々と運び出されていく。230万人の生徒と、それ以上の数の観光客たちが放つ期待感、高揚感、そして爆発的な歓声。
それらが一つに混ざり合った莫大な「精神エネルギー」は、目に見えない奔流となって学園都市の地下深くへと注ぎ込まれ続けていた。
それに比例するように、地下施設——学園都市のメインインフラの一つである巨大な『地下変電所』へと誘い込まれた傭兵たちの力もまた、限界を突破してさらなる異常な膨張を見せていた。
「ハハハハッ! なんて素晴らしい! 地上の愚民どもが騒げば騒ぐほど、俺たちの身体に神の息吹が満ちていくのがわかるぜ!」
巨大な変圧器や配電盤が立ち並ぶ、冷たく無機質なコンクリートの空間。
そこに雪崩れ込んできた
彼らの踏み出す足取り一つで分厚い床のコンクリートが蜘蛛の巣状にひび割れ、無意識に漏れ出す魔力の余波だけで、周囲の精密な配電施設がショートし、火花を散らしている。
『熱狂の旗印』がもたらす恩恵は、今や彼ら一人一人を『聖人』の領域の入口にまで押し上げていた。
「おやおや。チョロチョロと愉快に逃げ回ったかと思えば、俺たちの破壊目標だった地下変電所のど真ん中まで、ご丁寧に案内してくれるなんて……ずいぶんと親切でお優しいガイドさんだなぁ」
傭兵の一人が、歪んだ笑みを浮かべながら暗がりを睨みつけた。
視線の先。変電所の壁際に背中を預けるようにして立っているのは、学校指定の体操服に身を包む少年——瀬川空だった。
幾度にもわたる遅滞戦術と、逃げ回りながらの多重演算、そして何より、彼らの放つ聖人クラスの暴力をスレスレで回避し続けた代償は、空の肉体を確実に蝕んでいた。
荒い息を繰り返し、ボサボサの髪の隙間から覗く両目と鼻からは、ツーッとどす黒い血が止めどなく流れ落ち、コートの襟元を赤く染めている。誰の目から見ても、限界を超えた満身創痍の姿だった。
「これで学園都市のインフラを破壊し、パニックを引き起こせば、地上の熱狂は一転して極限の『恐怖』と『絶望』へと変わる。それすらも我が結社の旗印は莫大なエネルギーへと変換するのだ!」
傭兵たちは完全な勝利を確信し、巨大な機械群に向けて、学園都市を焦土と化すための大規模な破壊魔術の詠唱を開始しようとしていた。
「さあ、これで終わりだ、ネズミ! 貴様のその小賢しい手品も、ここまでだ! 自身の無力さを呪いながら、この街と一緒に灰になれッ!!」
傭兵が嘲笑い、手から業火の槍を生み出そうとした、その時。
「……追い詰められた? ……ははっ、冗談だろ」
コンクリートの壁に寄りかかっていた空の口から、低く、しかし変電所の空間によく響く、冷え切った笑い声が漏れた。
傭兵たちの動きが、一瞬だけピタリと止まる。
彼らは見たのだ。血まみれで、今にも倒れそうになっているはずの少年の表情に、絶望の色など微塵も存在しないことを。
むしろ、その虚ろな瞳は、目の前の「神の力」を得た数十人の化け物たちを、まるでゴミ箱の底に群がる羽虫でも見るかのように、不気味なほど冷酷に見下ろしていた。
「……何を強がっている。お前はもう逃げ場のない袋の鼠だ」
「勘違いするなよ。俺がお前らをここに誘い込んだのは、逃げ回るためじゃない」
空は、血に濡れた指先で、自身のこめかみをトントンと叩いた。
「俺の雇い主は、『祭りを止めるな』と命じた。230万人の生徒たちの日常は、一秒たりとも止めることはできない」
空の瞳の奥で、恐ろしいほどの殺意と、冷徹な演算の光が同時に灯る。
「だが……お前らみたいな薄汚いゴミ共の耳に、俺の大切な日常の歓声を聞かせてやるとは、一言も言ってない」
直後。
空の脳内で、これまでにない極限の、自殺行為とも言える『超多重並列処理』が強制起動した。
(——思い出すんだ。あの暗闇の中で見た、世界を塗り替えるような白を)
空は、かつて暗部の後処理で目撃した、学園都市第二位の超能力者・垣根帝督が放った
この世の物理法則に従わず、この世に存在しない物質を生み出す絶対的な力。
空の能力、
(だが……未元物質が世界に干渉した結果引き起こした、「物理現象の表層」だけなら!)
特定の波長の音、光、振動、そして熱。それらを完全に遮断し、透過させず、反射すらさせないという「異常な性質の空間」。
その結果だけを、空は自身が持つ既存の能力のパッチワークで強引に再現しようと試みた。
『エミュレート——未元物質の残滓、及び念動力。
「ガ、アァァァァァァァァァァァァッ!!!」
空の頭蓋骨の中で、脳の血管が一斉に爆竹のように弾け飛んだ。
限界という壁をドリルで粉々に粉砕するような、圧倒的なキャパシティオーバー。
脳髄がミキサーにかけられたような激痛が走り、両目から視界を完全に奪うほどの真っ赤な血の涙が噴き出した。鼓膜が破れ、耳からもドクドクと血が溢れ出す。
「……ッ! なんだ、こいつは……!? 何をしようとしている!?」
ただならぬ空の絶叫と、彼の周囲の空間がぐにゃりと陽炎のように歪み始めたのを見て、傭兵たちが本能的な恐怖を覚え、一斉に魔術を放とうとした。
だが、遅い。
空は、バックグラウンドで『肉体再生』を最大出力で回し、脳内で破裂し続ける血管と細胞を、千切れる端から強引に縫い合わせながら、地獄の苦痛の中で演算を完全に固定した。
「閉じろ……ッ!!」
瞬間。
地下変電所の巨大な空間一帯を完全に覆い尽くすように、目に見えない、しかし絶対的な『球状の結界』が展開された。
いや、結界という生易しいものではない。それは、世界からこの空間だけを刃物で切り取ったかのような、完全なる断絶。
『
「……え?」
傭兵の一人が、間抜けな声を漏らした。
先程まで、地下施設にいても微かに、しかし確かに響いてきていた地上の大覇星祭の歓声、地響きのような音楽、群衆の足音、空気の振動。
そのすべてが。
物理的にも、そして魔術的な概念の繋がりとしても、一切の例外なく『完全に遮断』されたのだ。
圧倒的な、耳鳴りがするほどの「無音の密室」。
「な、なんだ……!? 力が……俺の力が、抜けていく!?」
「魔力が練れない!? 旗印からの供給が……切れただと!?」
無敵の軍団と化していた傭兵たちが、次々と武器を取り落とし、あるいは膝をついて狼狽し始めた。
当然だ。『熱狂の旗印』は、周囲の群衆が放つ熱狂のエネルギーを受信して力に変える霊装。
だが、その電波塔たる傭兵たちのいる空間自体が、地上の世界から完全に隔離された「存在しない箱」にされてしまえば、エネルギーの供給はゼロになる。
膨れ上がっていた彼らの筋肉が萎縮し、全身から立ち上っていた禍々しい魔力のオーラが、風船がしぼむように急速に霧散していく。
聖人の領域にまで達しようとしていた神の如き力が、ただの三流魔術師、あるいはそれ以下の一般人レベルまで一瞬にして引きずり降ろされたのだ。
「ウソだ……こんなこと、あり得るはずがない! 科学の能力ごときで、我々の霊装の加護を……ッ!」
一人の傭兵が、信じられないものを見るような目で、壁際で俯いている少年を指差した。
無音の空間の中。
ポタッ、ポタッ、と。
少年の顔から滴り落ちる血が、冷たいコンクリートの床を叩く微かな音だけが響いていた。
「……ハァッ……ハァッ……」
空は、血まみれの両手で顔を覆い、荒い呼吸を繰り返していた。
視界はまだ赤い。脳の奥は焼け焦げたように痛む。
だが、演算は完璧に成立した。彼が倒れない限り、この『絶対隔離空間』が解けることはない。
「……さて」
空は、ゆっくりと顔を上げた。
血に染まった前髪の隙間から覗くその瞳は、一切の光を宿さない、文字通りの『底なしの空洞』だった。
「……ヒィッ」
その人間離れした、あまりにも冷酷な殺意と虚無の眼差しに射竦められ、先程まで神の力に酔いしれていた傭兵たちが、本能的な恐怖に震え上がって後ずさった。
逃げ場はない。ここは彼らが自ら望んで入り込んだ、完全な密室だ。
空は、ジャージの裏地から、シノが作り上げたチタン合金芯のボールペンを逆手に引き抜き、チャキッ、と無音の空間に鋭い音を響かせた。
「神の力は剥がれた気分はどうだ? 三流ども。……これでお前らは、ただの的だ」
血まみれの顔のまま、空が暗闇の中で、三日月のようにおぞましく嗤った。
祭りの喧騒も、彼が愛する家族たちの笑い声も、ここには一切届かない。
だからこそ、彼は誰の目も気にすることなく、完璧なバケモノになることができる。
「ここからは、裏方の掃除の時間だ」
次の瞬間。
黒いコートを翻し、一切の躊躇なく死の舞踏へと踏み込んだ掃除屋の刃が、絶望に染まった傭兵たちの喉元へと一閃された。