九月二十六日。七日間に及んで二百三十万人を巻き込んだ熱狂の渦、大覇星祭が閉幕した翌日。
イベントの後片付けと生徒たちの疲労回復を兼ねて、学園都市はしばらくの間、一斉に振替休日の連休期間に入っていた。
街を歩く人々の足取りはどこか穏やかで、祭りの余韻を噛み締めるような緩やかな空気が漂っている。学園都市を焦がし続けていた厳しい残暑もようやく和らぎ、朝夕に吹き抜ける風には、肌を撫でるような微かな秋の涼しさが混じり始めていた。
だが、第七学区の片隅に佇む廃研究所の五階——工学階には、外の穏やかな空気とは対極にある、熱を帯びた張り詰めた空気が満ちていた。
エレベーターの扉が開くと、ツンとした機械油の匂いと、ハンダのフラックスが焦げる特有の香りが鼻を突く。
複数のモニターが青白い光を放ち、大型の3Dプリンターや高精度の旋盤が低い駆動音を立てる薄暗い工房の中で。
一人の少女——ミサカ10504号改め『シノ』は、作業台に向かい、極めて真剣な表情で空のジャージの裏地を工業用ミシンで縫い合わせていた。
「……ボス。このジャージ、背中の部分の
シノは、火花除けの重厚なゴーグルを額にずらし、非難がましいジト目で、パイプ椅子にだらしなく座る空を睨みつけた。
その手元には、原型を留めないほどにボロボロになった黒のロングコートが広げられている。
「ごめんごめん。地下でちょっと、デカい爆発を至近距離で受けちまってさ」
空はボサボサの頭を掻きながら、心底申し訳なさそうに苦笑して謝った。
大覇星祭の裏側で、『
あの時、空は第二位・垣根帝督の
結果として、空自身の肉体はバックグラウンドの『肉体再生』でどうにか死を免れたものの、物質である衣服までは自己修復してくれない。コートは背中から爆風を浴びたようにズタズタになり、裏地に仕込んでいた武装の数々も熱で溶け落ちてしまっていた。
「ボスの無茶は今に始まったことではありませんが……この前ミサカが徹夜で仕上げて渡したチタン合金芯のペンも、回収した時には一本が完全に『く』の字に折れ曲がっていましたよ。チタン合金の円柱をひしゃげさせるなど、一体どれだけの圧力をかければそうなるのですか、とシノは職人としてのプライドと純粋な疑問を交差させつつ、新しい触媒の設計図を広げます」
シノがピンセットでつまみ上げたのは、原型を失い、無惨にひん曲がった黒いペンだった。
「ああ、あれは……確か魔術を強引に仕込んだ状態でテレポートさせたんだったかな。無理やりだったから反動がすごくてひしゃげたんだろうな。」
空は当時の演算プロセスを思い出しながら、感心したようにペンを見つめた。
「でも、あれには本当に助けられたよ。普通のペンなら撃ち出した瞬間に爆散してただろうし、シノの作ったあのペンが反動のエネルギーを受け止めてくれなかったら、俺の右腕ごと根元から吹っ飛んでたかもしれない。……お前の腕に命を救われた」
「……ッ!」
空の何気ない、しかし心からの称賛の言葉に、シノの肩がビクッと跳ねた。
彼女のオイルで薄汚れた頬が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「そ、それは良かったです。ボスの生存に寄与できたのなら、兵装開発担当としての責務を全うできたということです。ですが、次は絶対に折れないように、芯材にタングステンカーバイドを混ぜた新型を……とミサカは顔の熱を誤魔化すように、作業ペースを強制的に引き上げます!」
シノは照れ隠しのようにミシンのペダルを強く踏み込み、ダダダダダッ! と凄まじい速度でコートの縫製を再開した。
彼女たちは、もともと第一位の実験のために単価十八万円で量産された「使い捨ての兵器」だった。自分には何の価値もなく、ただ殺されるためだけに存在する代替品。
だが、今の彼女は違う。瀬川空という一人の少年の命を守るための『専属の職人』としての明確な居場所と、確固たるアイデンティティを持っている。空が自分の作った武器を頼りにしてくれることが、彼女にとって何よりも誇らしく、嬉しいのだ。
その小さな背中を見つめながら、空はふと、工房の高い位置にある小さな換気窓から、学園都市の空を見上げた。
「それにしても、もうすっかり秋だな……」
窓の向こうには、夏の力強い入道雲はすでに姿を消し、薄く刷毛で掃いたような鱗雲が高い空一面に広がっていた。通りに並ぶ街路樹の葉も、夏の鮮やかな緑から、少しずつ黄色や赤へと色づく準備を始めている。
季節が変わり、学生たちが夏服から冬服へと衣替えをする時期も、もうすぐそこまで近づいていた。
だが、その高く澄んだ秋空を眺めながらも、空の瞳の奥には冷ややかな警戒の色が浮かんでいた。
季節の移り変わりと共に、空の研ぎ澄まされた暗部の『掃除屋』としての嗅覚は、街のあちこちに漂い始めた『ひどくきな臭く、不穏な空気』を微かに感じ取っていたのだ。
大覇星祭という巨大なイベントが終わり、表の世界が弛緩した空気に包まれているその裏側で。
統括理事会やアレイスターの周辺、そして学園都市の暗がりに巣食う複数の『暗部組織』たちが、水面下で何かを企て、静かに牙を研ぎ始めている気配がある。
スクール、アイテム、メンバー、ブロック。
互いの利権と生き残りを懸けた、血で血を洗うような暗闘の火種が、街のインフラの裏側で燻っているのを、任務の端々で感じ取っていた。
さらに、不穏なのは学園都市の内部だけではない。
外部の魔術サイド——特に、世界最大規模の十字教宗派である『ローマ正教』の動きが、オルソラ=アクィナス誘拐事件以降、不気味なほどに静かすぎたのだ。
二五〇人ものシスター部隊を学園都市の能力者に撃破されたという大失態。ローマ正教という巨大な組織が、それをこのまま黙って見過ごすはずがない。
いつか必ず、彼らは学園都市という『科学の総本山』そのものを叩き潰すため、かつてない規模の刺客を送り込んでくる。
(嵐の前の静けさ、ってやつか)
大陸を覆い尽くすほどの、巨大で血生臭い嵐が近づいている。
空は、パイプ椅子に深く腰掛けたまま、ポケットに入っていた極甘の缶コーヒーを取り出し、プルタブをパキリと開けた。
一口飲む。
砂糖の暴力的な甘さと、ミトが調合した極濃カフェインの苦味が、弛緩しそうになる脳細胞を強制的に覚醒させ、神経を鋭く研ぎ澄ませていく。
自分は空っぽの器だ。
だが、その器の中には今、絶対に守り抜かなければならない大切な『日常』がぎっしりと詰め込まれている。
上条当麻の馬鹿な笑い声。御坂美琴の真っ直ぐな正義感。そして、この廃研究所で自分の帰りを待ってくれている五人の家族の温もり。
「ボス、修繕完了しました。裏地のホルダーも補強し、耐熱・耐衝撃性能を前回の二・五倍に引き上げておいたので、新しいトランプもタングステンビー玉もフル装填可能です。もちろん、新型のペンも胸ポケットに仕込んであります、とシノは会心の出来栄えに誇らしげにコートを差し出します」
ミシンの音を止めたシノが、新品同様——いや、以前よりも遥かに強靭に生まれ変わったジャージを両手で掲げた。
「サンキュー、シノ。……完璧だ。これでまた、いつでも仕事に行けるな」
空は立ち上がり、シノが完璧に直してくれた黒いコートに腕を通した。
ぴったりと身体に馴染む仕立て。そして、裏地にみっちりと仕込まれた触媒たちの、ずしりとした確かな重み。
その重力が、彼に「守るべきもの」の存在を強く意識させ、空っぽの心を確かな覚悟で満たしていく。
「ボス。……その」
コートを羽織り、工房の出口へ向かおうとした空の背中に、シノが小さな声で呼びかけた。
振り返ると、シノはオイルで汚れた手をモジモジと組み合わせ、軍用ゴーグルの奥の瞳を揺らしていた。
「新しい武器を作っておいて言うのも矛盾していますが……あまり、怪我はしないでくださいね。ボスの血まみれの服を洗濯するイチや、泣きながら薬を作るニナの顔を見るのは、ミサカも胸が痛いのです、とシノはうつむき加減で付け加えます」
その不器用で、ひどく純粋な家族としての願い。
空は小さく息を吐き、いつもの虚ろな笑顔ではなく、心の底からの柔らかい笑みを浮かべた。
「ああ。……約束する。シノの作ってくれたこのコートがある限り、無傷で帰ってくるよ」
空はシノの頭を優しくポンポンと撫でると、彼女の赤くなった顔を背に、工房を後にした。
どれだけ冷たく、血生臭い秋の嵐が吹き荒れようとも。
自分がこの漆黒のコートを羽織り、誰にも知られない暗闇の中で泥と血を被る限り。
この温かい廃研究所と、表の世界の眩しい日常の景色は、絶対に揺るがせはしない。
瀬川空は、来るべき過酷な戦いの予感を胸に秘めながら、静かに歩みを進めた。