第六十五話:不在の街と留守番の掃除屋(アブセント・シティ)
九月下旬。
学園都市を焦がし続けていた厳しい残暑がようやく落ち着きを見せ始め、街路樹の葉がわずかに色づき始めた頃。空調の効いた第七学区の廃研究所のリビングでは、瀬川空が携帯端末の画面を見つめながら、やれやれと深い苦笑を漏らしていた。
『助けてくれ瀬川! イタリアでインデックスと逸れちった! 迷子センターに行こうにも言葉も通じないし、パスポートもあいつが持ってるし、どうしたらいいのか分からん! 何かいい方法分かるか!?』
暗号化も何もされていない、ごく普通のメッセージアプリに届いた、ツンツン頭の親友からの悲鳴のようなSNS。
「あいつ、大覇星祭の北イタリア旅行に当たったと思ったら、海を越えて向こうでもコレか……。相変わらず、不幸の星回りに愛されすぎだろ」
空は呆れたようにボサボサの頭を掻き、「日本にいる俺に言われてもどうしようもないだろ。……腹を空かせてるはずだから、片っ端からレストランでも回れば見つかるんじゃないか?」と、極めて的確で現実的なアドバイスを素早く入力して返信した。
送信ボタンを押すと同時に、テーブルの上に置いていた極甘の缶コーヒーを手に取り、喉の奥へ流し込む。暴力的な糖分が、朝の微睡みを吹き飛ばしてくれた。
「ソラ。先程から端末を見ていらっしゃいますが、あの上条という方は、現在ヨーロッパにて何らかの致命的なトラブルに遭遇しているのですか、とイチは報告の真偽を確認します」
リビングの隅でモップがけをして掃除をしていたイチが、軍用ゴーグルを額にずらして、少し心配そうな表情で尋ねてきた。
「ああ。まあ、致命的っちゃ致命的だが、いつもの迷子騒動だ。……あいつなら、どんな理不尽な幻想の渦中に巻き込まれようと、あの右拳一つで全部ぶち壊して、きっちり日本に帰ってくるさ」
空は親友の底抜けのしぶとさを思い出し、ふっと口角を上げた。
「……俺たちが心配すべきは、イタリアの迷子探しじゃない。アイツが留守を預けていった、こっちの街の方だ」
空は手元の携帯端末の操作を切り替え、パスワードと生体認証を経て、統括理事会直轄の暗部回線へとアクセスした。
黒い背景に赤い文字で表示されたのは、昨夜から今朝にかけて発令されている学園都市内の不審者検知アラート。
『——学園都市外部より、ローマ正教の過激派と推測されるテロリストの小隊が、第十一学区の搬入ルートを介して境界線を突破し、潜伏した痕跡あり』
画面をスクロールしながら、空の虚ろな瞳の奥に、冷徹な『掃除屋』としての光が宿る。
上条当麻という「最大のイレギュラー」が、大覇星祭のイベントで運良くイタリア旅行を引き当てて街を空けている、まさにこのタイミング。それが単なる偶然なのか、それとも魔術サイド——あるいはアレイスターの盤面操作による意図的なものなのかは分からない。
だが、表の英雄が不在の隙を突いて、この街に土足で踏み込もうとする連中がいることだけは確かな事実だった。
「上条がいない間、この街の治安が崩れるなんてのは……舞台の裏方として、絶対に許せるもんじゃないからな」
空はソファから静かに立ち上がった。
「ボス、出動ですね。外の気温低下に合わせて、裏地に保温材と衝撃吸収ゲルを追加した秋仕様のコートです、とシノは完璧なタイミングで装備を差し出します」
工学階から上がってきたシノが、空の背中にふわりと黒のコートを掛けた。ずしりとした触媒の重みと、シノの細やかな気遣いが感じられる温かい仕立てが、空の身体に心地よく馴染む。
「マスター! 今回も複数の敵対勢力との交戦が予想されます。急激な魔力エミュレートに伴う脳血管の破裂に備え、こちらの青色造血サプリ・改を……ッ!」
「今日は大丈夫だ、ニナ」
怪しい薬瓶を両手で押し付けようと突撃してくるニナの頭を、空は優しくポンと押さえて制止した。
「相手はただのテロリストの小隊だ。『熱狂の旗印』や『大天使』みたいな、規格外の大魔術を相手にするわけじゃない。……血反吐を吐くような無茶はしないさ」
今の空にとって、ただの魔術師数十人程度であれば、脳に過負荷をかけることなく制圧できる確信があった。
空はいつものように、玄関まで見送りに来てくれたイチ、ニナ、ミト、シノ、イツキの五人の頭を順番に優しく撫でた。
「少し、街のゴミを掃除してくる。夕飯までには帰るよ」
「気をつけてね、お兄ちゃん! 帰ってきたら、この前買ってきたお菓子の新作、一緒に食べようね! とイツキは大きく手を振ります」
「ソラさん、いってらっしゃい。ミサカたちの帰る場所は、ソラさんが守ってくださいね、とミトはふんわりと微笑みます」
「ああ。……行ってくる」
空は重い鉄扉を開け、秋の涼しい気配が混じる街へと足を踏み出した。