第十一学区、廃棄された物流倉庫群。
学園都市のインフラ網から完全に切り離され、地図上ではすでに解体予定地として処理されている巨大な区画。
統括理事会直轄の暗部の情報によれば、境界線を突破したローマ正教のテロリスト小隊は、この区画の地下施設に潜伏しているはずだった。彼らの目的は、表の英雄である上条当麻が不在の隙を突き、学園都市のインフラを中枢から麻痺させるための大規模な『霊装』の起動準備を進めること。
「……おかしいな」
空は、コートの裏地に仕込んだトランプに指を添えたまま、足音を完全に殺して倉庫の内部へと潜入した。だが、踏み入れた瞬間に彼の研ぎ澄まされた暗部の嗅覚が警鐘を鳴らした。
暗闇に包まれた広大な空間には、『生者の気配』が一切存在しなかったのだ。
魔術師たちが霊装を準備する際の特有の魔力の揺らぎも、複数人が潜伏しているはずの衣擦れの音も、呼吸音すら聞こえない。
その代わりに空間を満たしていたのは、鉄錆を煮詰めたような鼻を突く強烈な血の匂い。そして、科学の研究施設でしか嗅ぐことのない、ホルマリンや消毒液の無機質な化学薬品の刺激臭だった。
ただのテロリストの潜伏先ではない。この異常な匂いの混ざり方は、暗部の『死体処理施設』や『非人道実験場』のそれに酷似している。
(……なんだ、これは。魔術師の隠れ家じゃないのか?)
警戒を最大レベルまで引き上げ、空は足裏に微弱な空気の層を展開して滑るように奥の広間へと足を踏み入れた。
そして、暗視スコープのように環境光をエミュレートした空の視界に飛び込んできたのは、地獄をそのまま具現化したようなおぞましい光景だった。
「……ッ!」
空は思わず息を呑み、歩みを止めた。
コンクリートの床一面に、赤黒い血の海が広がっている。その上に転がっていたのは、数時間前まで生きて学園都市に侵入したはずの、ローマ正教の魔術師たちの成れの果てだった。
だが、彼らはただ殺されているわけではなかった。
彼らの頭部——頭蓋骨の半分が無惨にも外科的に切断され、脳髄が剥き出しにされている。そこに、無数の電極と無機質な金属フレームで構成された不気味なヘッドギアのような機械が、無理やり直接埋め込まれていた。
傷口からは血と脳漿が滲み出ているが、機械のポンプが強引に生命維持液を送り込んでいるのか、死体たちは微かに痙攣を繰り返している。
そして、彼らの頭部に埋め込まれたヘッドギアから伸びた何十本もの太い光学ケーブルが、部屋の中央に鎮座する巨大なスーパーコンピューターのサーバー群へと束ねられて接続されていた。
科学の街を憎む魔術師たちの生きた脳波を強制的に抽出し、ネットワークとして繋ぎ合わせ、何か別の莫大な演算処理の『パーツ』として使い潰した、おぞましい実験の痕跡。
人間を人間とすら思っていない、純粋で絶対的な悪意。
「……随分と遅かったじゃないか」
ピチャリ、と。
背後の暗闇から、血だまりを踏む音がした。
それと同時に、底冷えするような、ひどく歓喜と好奇心に満ちた男の声が、静まり返った倉庫に響き渡った。
ドクンッ——!
空の心臓が、痛いほどに大きく跳ねた。
背筋に氷柱を突き立てられたような悪寒が走り、全身の産毛が逆立つ。
ゆっくりと、軋む首を回して振り返った暗闇の奥。非常灯の微かな赤い光に照らされて、白衣を羽織り、ポケットに両手を突っ込んだ痩身の男が立っていた。
「……」
空は、その男の顔を知らない。いや、正確には「認識できない」。
幼い頃の強烈な防衛本能が、あの惨劇の記憶に蓋をするために、男の顔に分厚いモザイクをかけてしまっているのだ。
誰かは分からない。思い出せない。
だが、空の空洞化されたパーソナルリアリティの奥底から、魂をすり潰されるようなとてつもない『嫌悪感』と『恐怖』が、マグマのように噴き上がってくる。逃げろ、と全身の細胞が警鐘を鳴らして悲鳴を上げている。
「お前、何者だ?」
空は、震えそうになる声を無理やり殺し、いつでも攻撃を叩き込めるようにコートの裏地の触媒へと手を伸ばしながら、低く問いかけた。
その警戒しきった空の様子を見て、男は両肩を揺らした。
「いやはや。育ての親とも言える人間の顔を忘れるなんて、なんたる不孝者になってしまったのか」
男はまるで、舞台上でオペラでも歌うかのような大仰な身振りで嘆いてみせ、直後、カタカタカタカタと、肩を震わせて狂ったように笑い出した。
「はぁ、仕方があるまい。君が自ら望んで記憶を空洞に捨て去ったのだからね。……私は、被験体5271。いや、今は『瀬川空』とか名乗っていたか。君の能力開発のメイン担当者だ。言わば、その素晴らしい『
男は、三日月のように目を細め、歓喜に満ちた声で、最悪の名を口にした。
「木原虚だ」
——パリンッ。
その名前を聞いた瞬間。空の脳内で、十数年間厳重に施錠されていた記憶の扉が、木端微塵に砕け散った。
『走れ、空ッ!!』
視界を埋め尽くす紅蓮の炎。酸素を喰らい尽くし、生き物のように這い回る熱波。
自分を抱きしめ、炎の盾となって真っ黒な炭のように焦げ付いていった、不器用で優しかった恩人——瀬川さん。
そして、燃え盛る炎の向こう側で。黒いローブの魔術師を従え、この世の全てを見下すような狂気的な笑い声を上げていた、白衣の男。
「き、はら……虚……ッ!!」
空の喉の奥から、人間のものとは思えない、獣のような低い唸り声が漏れた。
かつて養護施設を焼き払い、空に「人間らしさ」を教えてくれたたった一人の大人を惨殺し、彼からすべてを奪い、自我を『空洞』へと作り変えた張本人。
木原虚。
「やあ、瀬川空。いや、『
木原虚は、足元に転がる頭部を開かれた魔術師の死体を、革靴の先でゴミのように小突きながら、心底楽しそうに嗤った。
「テロリスト……お前が、引き入れただと?」
空の呼吸が荒くなる。
コートの裏地で、震える指の間に数枚のトランプとタングステン内蔵のビー玉が滑り込む。瞳からは一切の感情が消え失せ、絶対的な殺意だけが虚の心臓へと真っ直ぐに向けられていた。
「お前、魔術のことを……どこまで知っている……!」
そうだ。上条の学生寮の前で、ステイル=マグヌスの炎の魔術の痕跡を見た時、空はすでに気がついていたはずなのだ。
あの不自然な黒い焦げ跡。酸素を消費せず、物理法則を無視した『理不尽な炎』。
それは、幼い頃に養護施設を焼き払い、恩人を殺したあの炎と全く同じものだった。
木原虚は、あの時からすでに魔術サイドと関わりがある。
科学の街の重鎮でありながら、異界の理を平然と招き入れ、自らの実験のために利用しているのだ。
「なに、大して知りはしないよ。アレイスターのように神の領域に手を出す趣味はない。私にとって彼らの『魔術』など、ただの実験データの収集のための玩具であり、一時的な協力者に過ぎない」
虚は肩をすくめ、背後にある巨大なサーバーを指差した。
「非論理的な神話を独自の論理で現実の力に変換する彼らの脳波パターンは、実に興味深いノイズを含んでいてね。こうして物理的に脳髄を繋ぎ合わせ、強引にベクトル演算のフィルターに通してやると、実に面白いエラーを吐き出すのだよ。……まあ、すぐに脳幹が焼き切れて使い物にならなくなるのが難点だがね」
命をただの機械のパーツとしか思っていない、極限の狂気。
木原の言葉に、空の歯がギリッと折れそうなほど強く噛み合わされる。
「……それより、私はひどく落胆しているのだよ。被験体5271」
虚の目が、爬虫類のように冷たく、歪んだ三日月の形になった。
「愛着を持った対象を目の前で喪失させ、絶望の底に突き落とした結果。……せっかく私が、自発的に自我を空洞化させるという最高のシステムを構築してやったというのに。君はその極上の器に、また『ガラクタ』を詰め込んでいるそうじゃないか」
「……ッ!」
「第一位の殺戮実験の残飯である、軍用クローンどもを五体。……イチ、ニナ、ミト、シノ、イツキだったか? 識別番号の末尾を取っただけの陳腐な名前を与え、あろうことか家族ごっこに興じていると聞いた時は、自分の耳を疑ったよ」
虚は、芝居がかった仕草で天を仰いだ。
「代替品の器が、代替品の肉人形を集めて、日常を偽装する。……実に、実に滑稽だ! 君は空っぽのくせに、まだ自分が人間だとでも錯覚しているのか?」
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ!!
空の頭蓋骨の中で、血流が沸騰するような激しい音が鳴り響いた。
自分を侮辱されるのは構わない。自分は空っぽの化け物だからだ。
だが。
あの帰るべき温かい場所を。不器用に自分を慕ってくれる、大切な五人の『家族』を。
何の価値もない「肉人形」だと、この男は吐き捨てた。
「…………黙れ」
ミシィッ……!!
空の周囲の大気が、ギリギリと悲鳴を上げて軋み始めた。
空が意図的に演算したわけではない。限界を超えた空の『怒り』に呼応して、彼の空洞化されたパーソナルリアリティから溢れ出した『念動力』と『空力使い』の莫大なベクトルが、無意識のうちに暴走しかけているのだ。
触媒すら使わず、周囲に転がるコンクリートの破片や魔術師たちの血だまりが、重力を失ったようにフワフワと宙に浮き上がり始めた。
「おお! 怒っているのか? 素晴らしい!」
その異常な現象を見て、木原虚は両手を広げ、恍惚とした表情で歓喜の声を上げた。
「素晴らしいぞ、空! 空っぽの器が、偽物の絆のために必死に感情をエミュレートしている! だがね、空。器に限界以上のゴミを詰め込めば、いつか必ずオーバーフローを起こして自壊する!」
虚は、暴走する大気の中心に立つ空を指差し、狂気的な笑い声を高らかに響かせた。
「私は心待ちにしているのだよ! 君がその偽物の日常を守るためにキャパシティをオーバーし、全てを失い、再び完璧な空洞へと還る、その至高の瞬間をね!」
「殺す……ッ。お前だけは、俺が絶対に……ッ!!」
空の瞳から完全に理性が吹き飛び、血走った視界が虚を捉える。
かつてすべてを奪われた少年と、狂気を弄ぶマッドサイエンティスト。
学園都市の最深部に隠された暗黒の因縁が、無数の死体と暴走する力場の中心で、再び最悪の形で交差した。