「……殺すッ!」
空の絶叫が、血と薬品の匂いが充満する廃棄倉庫の暗闇に響き渡った。
普段の温厚で飄々とした彼からは想像もつかない、純粋な殺意の塊のような声。
空の空洞化された演算領域で、シノが丹精込めて調整したタングステンカーバイド内蔵のビー玉に対する複数法則のペーストが、コンマ数秒という驚異的な速度で完了する。
『摩擦ゼロ』。
『運動エネルギー強制収束』。
『空間断裂』。
指先から弾き出されたビー玉は、大気を切り裂く音すら完全に置き去りにし、絶対的な破壊の光の筋——『擬似超電磁砲(フェイク・レールガン)』となって、木原虚の心臓へと一直線に襲いかかった。
だが。
「——甘いな。君の親として、その程度の成長と攻撃パターンを予測できないとでも?」
ガァァァンッ!!
けたたましい金属の衝突音と、目を焼くような強烈な火花が倉庫の暗闇に散った。
木原虚は、その場から一歩も動いていなかった。
彼の眼前に、床下のコンクリートを突き破って突如として展開された、分厚いチタン合金と特殊衝撃吸収ゲルを何層にも重ねた複合装甲の自動防壁。
空の放った音速の徹甲弾は、装甲の三層目までを完全にぶち抜いたものの、緻密に計算された衝撃吸収によって運動エネルギーを相殺され、ひしゃげた鉛の塊となって虚の足元に転がり落ちた。
「おっと、短気は感心しないな。今日は君と殺し合いをするために来たわけじゃないんだよ、被験体5271」
分厚い防壁の後ろ側で、木原虚は手元のタブレット端末を操作しながら、底冷えするような声で冷ややかに笑った。
「目的は達成された。この魔術師どもの脳波データから、非論理的なベクトル変換のアルゴリズムは十分に抽出・回収できたからね。私のような研究者にとって、これは宝の山だ。……私はもう行くよ」
「逃がすかよ……ッ!」
空は再びコートの裏地からトランプを引き抜き、全身のバネを使って防壁の側面へ回り込もうと鋭く踏み込んだ。
その瞬間。
「追わない方がいい。……後悔することになるぞ、空」
虚の言葉が、物理的な鎖のように空の足をピタリと止めた。
「今、この街の暗部では、
防壁の奥で、虚が楽しげに唇を歪める気配が伝わってくる。
「統括理事長のお気に入りの玩具であり、君が一生懸命バックアップして命を繋ぎ止めてやった、あの『第一位』。彼すらも巻き込む、極上の惨劇さ」
「……何だと?」
空の呼吸が浅くなる。
第一位、一方通行。彼が巻き込まれる惨劇ということは、必然的にあの幼い少女——『打ち止め』も巻き込まれることを意味する。そしてそれは、ミサカネットワークを介して妹達全員に影響を及ぼす事態になりかねない。
「君がここで、私という過去の亡霊を追って時間を無駄にしている間に。君の可愛い『代用品』たちが、その一族の引き起こす惨劇の余波に巻き込まれてミンチになってもいいのかい?」
虚の声は、空の最も柔らかく、最も急所である部分を正確に抉ってきた。
「あの子たちを拾い集め、家族ごっこをしているのだろう?
「……ッ!」
空はギリッと奥歯を噛み締め、踏み出した右足を力任せにコンクリートの床に叩きつけた。
ドガッ! という音と共に、床にヒビが入る。
虚の言葉がハッタリかどうかわからない。魔術師の脳波データを持って逃走するための、単なる時間稼ぎかもしれない。
だが、もし。万が一でも木原一族が本気で動き出し、この街が近いうちに火の海になるのだとすれば。その余波が第七学区の廃研究所に向かっているのだとすれば。
防衛機能があるとはいえ、イチたち五人の妹達を、木原の底知れない悪意に対して無防備なまま放置するわけにはいかなかった。
「賢明な判断だ。やはり君は、偽物の絆に縛られた滑稽なピエロだよ」
虚の嗤い声が遠ざかっていく。彼が乗っている床の一部が、隠しエレベーターとして地下のさらなる深淵へと降下し始めていた。
「……せいぜい足掻きたまえ、私の最高傑作。間もなくこの学園都市に吹き荒れる嵐の中で、君が必死に組み上げたガラス細工の日常が、果たしてどこまで持ち堪えられるか。特等席で見物させてもらうよ」
ガシャン、という金属音と共に、木原虚の気配は完全に消失した。
残されたのは、頭を割られた魔術師たちの死体と、血の匂いだけ。
「……クソがッ!!」
誰もいなくなった廃倉庫で、空は近くの太い鉄柱に力任せに拳を叩きつけた。
ゴァァァンッ!!
衝撃でコンクリートの被膜が砕け散り、空の拳の皮が破れてどす黒い血が滲む。
だが、肉体的な痛みなど全く感じなかった。
脳裏に焼き付いている紅蓮の炎。恩人である瀬川さんの黒焦げになった死体。自分からすべてを奪い、心を空っぽにしたあの絶対的な絶望が、冷たく重い泥のように空の心臓にまとわりついて離れない。
「いつか必ず、俺の手で……ッ」
空は血の滴る拳を震わせながら、虚が消えた地下の闇を睨みつけた。
だが、今は立ち止まっている暇はない。
空はコートを翻し、弾かれたように倉庫を飛び出した。
♢
数十分後。
第七学区の片隅に佇む、多層階の廃研究所。
息を切らし、空間移動を強引に挟みながら辿り着いた空は、重い鉄扉の前に立ち、乱れた呼吸を必死に整えた。
制服についた硝煙の匂いと、拳の血を拭い去り、表情筋を動かして「いつものニコニコとした笑顔」を作る。
(……よし)
重い鉄扉を、電子キーで開ける。
「ただいま」
少し上擦った声でリビングに入ると、そこには——。
「おかえりなさい、ソラ!」
「お兄ちゃん、遅いよー! とイツキはソファーから飛び起きます」
「マスター、外の気温低下に伴う体温の低下を確認。ただちに温かいスープの摂取を推奨します、とニナがキッチンから顔を出します」
いつものように、平和で、騒がしくて、温かい五人の妹達が、そこに出迎えてくれた。
木原の猟犬が襲撃した痕跡はない。どうやら、虚の言葉は半分はハッタリ、あるいは警告の類だったようだ。
「……よかった」
空は、足から力が抜けるのを感じ、その場にへたり込みそうになるのをなんとか堪えた。
だが、イチの目は誤魔化せなかった。
「ソラ? 顔色がひどく優れません。脈拍の異常な上昇と、血圧の異常低下を検知しました。何か、外でトラブルに巻き込まれたのですか、とイチは不安そうに顔を覗き込みます」
軍用ゴーグルをずらしたイチが、空の袖をきゅっと掴み、心配そうな瞳で見上げてくる。
「……いや、なんでもない。ちょっと帰り道で走りすぎて、ただの立ち眩みがしただけだ」
空は、心配そうに見つめてくるイチの頭を、微かに震える手でそっと撫でた。
その温かい髪の感触が、空の空洞化された心に、少しだけ人間らしい体温を取り戻させてくれる。
(木原が動き出す。……この街で、間違いなく何かが起きる)
空はポケットの中に入れていた、極甘の缶コーヒーの冷たい感触を力強く握りしめた。
統括理事会、アレイスター、そして木原一族。
学園都市の最も深い闇が、上条当麻というイレギュラーが不在のこの街で、一斉に牙を剥こうとしている。
あの狂気と悪意の嵐から、この温かい場所を守り抜かなければならない。
たとえ再び自分が血反吐を吐き、脳の血管を破裂させ、キャパシティをオーバーして脳髄を焼き切ることになろうとも。
木原虚の思い通りに、この満たされつつある器を、再び「空っぽ」に戻させはしない。
「……絶対にお前たちは、俺が守るから」
空は誰に聞こえるでもなく、静かに、けれど鋼のような決意を込めて呟いた。
間もなく学園都市を襲う、かつてない未曾有の危機の足音は、もうすぐそこまで迫っていた。