九月三十日。
厳しい残暑が完全に鳴りを潜め、学園都市の街路樹が本格的な秋の装いへと色づき始めた頃。
夕方を迎えたこの科学の街は、突如として未曾有の異常事態に見舞われていた。
街を歩く学生たちが、買い物を楽しむ家族連れが、あるいは事態を収拾しようと駆けつけた警備員たちが、次々とその場にバタバタと倒れ伏していく。
救急車のサイレンすらも途絶え、交通網は麻痺し、情報機関は完全に沈黙した。二百三十万人を擁する学園都市の都市機能が、まるで目に見えない巨大な手に首を絞められるように、完全に停止しようとしていた。
その原因不明の混乱は、外界からの干渉がほぼ遮断されているはずの、第七学区の廃研究所にまで容赦なく及んでいた。
「お兄ちゃん! この前の対戦ゲーム、ミサカがこっそり練習して新しいコンボを見つけたんです。今日こそお兄ちゃんをボコボコにして——」
リビングのソファで、コントローラーを片手に空に再戦を挑もうとリモコンを操作していた末っ子のイツキが、突如としてバランスを崩し、フローリングの床に倒れ込んだ。
「おい、イツキ? どうした、足でもつれたか……ッ!?」
苦笑しながら手を伸ばそうとした空の顔色が一変する。
倒れ込んだイツキは、起き上がろうとするどころか、全く動かなくなっていた。
「イツキ!? おい、しっかりしろ! イチ、ニナ!」
空が叫んだ直後、部屋の奥から身を乗り出して状況を把握しようとしたイチもミトも倒れ込んだ
リビングの隅でコートの最終調整をしていたシノも、薬棚を整理していたニナも、まるで連鎖反応のように次々と顔面を蒼白にさせ、床に倒れ伏していく。
「ふざけるな、なんだこれ……ッ! シノ、酸素マスクの予備を全部出せ! ニナ、気管支を拡張する薬はないか!?」
空はパニックになりかける思考を『疑似発現』の並列処理で強引に押さえつけ、研究所の医療キットが保管されているキャビネットを蹴り破るようにして開けた。
酸素ボンベとマスクを引きずり出し、一番近くで倒れているイツキとイチの口元に素早く押し当てる。
だが、空の脳内では凄まじい速度で警鐘が鳴り響いていた。
五人の妹達は、重度の酸欠症状を起こしている。
しかし、空自身は彼女たちと同じ空間にいて、同じ空気を吸っているにもかかわらず、全く呼吸に異常をきたしていなかったのだ。
(なんだ、この現象は……。無色無臭の毒ガス兵器か? いや、それなら真っ先に俺の気管支にもダメージが来るはずだ。質量や成分を持つ科学の兵器じゃない)
空は、倒れ伏す妹達に酸素マスクを固定しながら、自身の演算領域を極限まで拡張し、周囲の環境データを読み取る。
AIM拡散力場の異常値はない。電磁波の干渉もない。
科学的な要因が全て棄却された。残る答えは一つしかない。
(また大規模な『魔術』か!? ……だが、学園都市全域を覆うような広域魔術なら、俺にも被害が及ぶはずだ。何かがおかしい。無差別のようでいて、確実な『条件』がある)
空は、荒い息を吐く妹達の容態を確認しながら、思考をフル回転させる。
色々逡巡するうちに、空の視界の端で、ある奇妙な違和感が引っかかった。
大きな異変に隠れていた、一つの小さな異変。
(……テレビが、ついているのに『無音』だと?)
リビングの大型液晶テレビは、イツキがゲームを始める前まで、夕方のニュース番組を流していたはずだ。
空は、這うようにしてテレビの画面に顔を近づけた。
そこには、学園都市への侵入者、あるいは指名手配犯として、一人の人物の写真が画面いっぱいに映し出されたままフリーズしている。
テロップは一切ない。アナウンサーの焦る声もない。テレビ局のサブコントロールルームすらも、この写真を映し出した直後に機能不全に陥ったとしか思えない状況。
映し出されたかなり画質が荒い写真をよく見れば、その人物はひどく奇抜な格好をしていた。
黄色い前時代的な服を見に纏う女らしき人物。
こんな時代錯誤で奇抜な格好をしているのは、十中八九、魔術サイドの人間だ。ローマ正教の『神の右席』、前方のヴェント。空はまだその名を知らないが、直感がそれが元凶であると告げていた。
空は、妹達が倒れた順番と、部屋の位置関係を脳内でリプレイする。
イツキは、テレビの真ん前でゲーム機を繋ごうとして画面を見ていた。イチたちは空の叫びに反応し奥からリビングの画面を。シノとニナも、混乱に惹かれて画面を注視した直後だった。
そして、テレビ局の関係者も、この写真をモニター越しに見たことで全員が倒れたのだとすれば。
「なるほど……たとえば、自らの『姿を認識した』全ての者の意識を強制的に奪う魔術……ってところか」
それが学園都市全域に展開されているのだ。電波という科学のインフラを故意かどうかは知らないが乗っ取って、世界中にばら撒かれる呪い。
しかし、空のその仮説は、たった一つの反例によって完全に棄却される。
(……じゃあ、なんで俺は平気なんだ?)
空も今、その魔術師の写真をはっきりと見ている。
だが、空の気管支は正常に働き、脳の血管も酸素を十分に運んでいる。
『対象を認識する』だけでは足りない。認識に加えて、何らかの隠された『トリガー』が必要なのだ。
(俺にあって、みんなにないもの。あるいは……みんなにあって、俺には『ない』もの……)
対象の写真を見る。
普通の人間——学園都市に住む学生や警備員であれば、この写真を見た瞬間に何を思うか。
『不気味だ』『恐ろしい』『敵だ』『学園都市を破壊しようとする排除すべき対象だ』。
(感情、か)
空は、息を呑んだ。
魔術のトリガーは、対象に対する『敵意』や『恐怖』といった、人間としての当たり前の感情の波。
それを抱いた瞬間に、術式が対象の魂にフックして酸素を奪う仕組み。
答えは、ひどく単純で、そして残酷なものだった。
空がこの写真を見た時、彼の脳はそれをどう処理したか。
『奇抜な服だ』『魔術師だな』『処理すべきデータだ』。
ただそれだけだった。怒りも、恐怖も、敵意すらも湧かなかった。
なぜなら、瀬川空という人間は、幼い頃に木原虚によって自我を完全に破壊された『空っぽの器』だからだ。
彼が普段、上条たちと笑い合っている時の喜びや、妹達に向ける温かい眼差し、あるいは敵に向ける怒り。それらすべては、彼が「人間としてこう振る舞うべきだ」と周囲を観察して模倣した『エミュレート』に過ぎない。
彼の内側に、『真の感情』などという自我の産物は、最初から一滴も存在していないのだ。
「なんらかの感情がトリガーってわけか……ははっ、ふざけんな。俺の心が、空っぽだから……人間の感情が欠落した化け物だから、助かってるって言うのかよ」
空は、自らの存在の底知れない虚無性を突きつけられ、ひどく乾いた自嘲の笑いを漏らした。
自分がいかに妹達を愛し、家族として生きようとも。根源的な魂の形は、木原に壊されたあの日から何一つ治っていないのだと、魔術によって証明されてしまった。
だが、絶望している暇はない。
「少し待ってろ。すぐに息ができるようにしてやる」
空は、酸素マスクをつけてもなお意識を失ったままのイチを抱き抱え、研究所の最下層にある緊急用シェルターへと運び込んだ。
続くように、ニナ、ミト、シノ、イツキを次々とシェルター内のベッドに寝かせる。
このシェルターは、かつて空が『空間断裂』と『念動力』を応用して構築した、外界の魔力干渉を物理的・概念的に遮断する特殊な隔離結界が施されている。さらに独立した生命維持装置と酸素ボンベがフル稼働すれば、あの魔術の効力も最低限に抑え込めるはずだ。
「……ちょっと、元栓を閉めに行ってくる。心配すんな、必ず助けるから」
イチの冷え切った手を優しく握り、空はシェルターの分厚い鉛の扉を閉めた。
パスコードを打ち込み、物理ロックをかける。
空は、一階の武器庫へ向かい、シノが秋仕様に調整してくれた黒いコートを羽織った。
裏地のホルダーに、特殊加工されたトランプ、タングステンカーバイド内蔵のビー玉、チタン合金のペンを限界までフル装填する。
この街を麻痺させている魔術師を、見つけ次第ミンチにしてやる。
だが、空が研究所の重い鉄扉を開け、夕闇の迫る街へと足を踏み出したその瞬間。
彼のコートのポケットの中で、統括理事会直轄の暗部専用端末が、けたたましい警告音を鳴らした。
普段の依頼メールではない。学園都市の最高機密レベルの緊急アラートだ。
空は端末を引き抜き、血の気の引いた目で画面に表示されたテキストを読み上げた。
『——木原数多率いる
「……木原、だと」
空の足が、アスファルトに縫い付けられたようにピタリと止まった。
先日、あの廃棄倉庫で木原虚が嗤いながら語っていた『極上の惨劇』。
木原一族が、統括理事長のお気に入りである第一位をも巻き込んで起こすと言っていた最悪の計画。
それが今、学園都市の全機能が麻痺し、警備員や風紀委員が一人残らず酸欠で倒れている、この最悪のタイミングで引き起こされようとしているのだ。
打ち止めが狙われている。
それはつまり、全妹達の司令塔であるミサカネットワークの中枢が、木原という狂気の手によって直接掌握されることを意味する。
もしネットワークに悪意あるウイルスや強制命令が流し込まれれば、地下シェルターで苦しんでいるイチたち五人の命も、木原の掌の上で簡単に握り潰されてしまう。
空は、静かに空を見上げた。
魔術師を追えば、この街の酸欠は止まるかもしれない。
だが、魔術師の排除は、イタリアから帰還しているはずの表の英雄——上条当麻に任せるしかない。あいつなら、あの右拳で理不尽な術式を必ずぶち壊してくれる。
空が今、己の命を投げ打ってでも優先すべきは。
家族の命を直接脅かし、かつて自分のすべてを奪った『木原一族』の排除だ。
「……あの時と、同じだ。アイツらはいつも、俺の大切なものを、平気な顔をして土足で踏み躙る」
空の瞳から、普段装っている「人の良い高校生」としての偽物の温かい光が、完全に消え失せた。
そこにあるのは、光を一切反射しない底なしの黒い虚無。
感情の全てを殺意というただ一点のベクトルに変換し、対象を塵芥のごとく消し去る純粋な『掃除屋』の貌。
「木原……お前らだけは、絶対に生かして帰さない」
血反吐を吐こうが、脳髄が千切れようが構わない。
今日、この夜で、一族ごとすべてを終わらせてやる。
瀬川空は、黒いコートを翻し、猟犬たちの放たれた血の匂いが漂う闇の街へと、足音もなく駆け出していった。
表舞台で魔術師と激突する上条当麻の戦いの裏側で、学園都市の最も深い闇と闇が殺し合う、絶望の掃討戦が幕を開けた。