九月三十日、午後。
『神の右席』前方のヴェントが引き起こした『天罰術式』により、学園都市は完全に機能不全に陥っていた。
救急車のサイレンすら鳴らない不気味な静寂に包まれた夕闇の街を、複数台の黒塗りのバンが猛スピードで走り抜けていく。
暗部組織であり、木原数多が率いる実働部隊『
彼らは街の混乱に乗じ、学園都市第一位・
ハウンドドッグの隊員たちは、天罰術式の影響を免れていた。彼らもまた、ターゲットや任務に対して「敵意」や「恐怖」といった人間らしい感情を抱かないよう、徹底的に訓練された殺人機械だからだ。あるいは、人工的な処置によって感情の起伏を麻痺させられているのか。いずれにせよ、彼らにとってこの街の麻痺は、絶好の隠れ蓑に過ぎなかった。
「チッ、どいつもこいつもバタバタと道端に倒れやがって。障害物競争じゃねえんだぞ」
バンの後部座席でアサルトライフルに徹甲弾の弾倉を叩き込みながら、ハウンドドッグの一小隊を任された隊長が、無線のマイクに向かって毒づいた。
「だが、都合がいい。警備員も風紀委員も機能していないこの隙に、あのクソガキと第一位をまとめて処理するぞ。
『了解』
無線から無機質な返答が返ってくる。
第一位という絶対的な化け物を狩る作戦。常人なら恐怖で足がすくむところだが、彼らに迷いはない。木原数多という男が、一方通行の能力を熟知し、その『反射』の弱点を突く算段を完璧に整えているからだ。
「第一位がどれほどのバケモンだろうと、ボスの前じゃただのガキだ。さっさと終わらせて、クローン回収のボーナスを貰うぞ」
隊長がニヤリと笑った、その時だった。
ザザッ……ピーーーッ……。
突如として、作戦行動用の暗号化通信が激しいノイズにまみれ、途絶えた。
「あ? なんだ、電波障害か? 侵入者の影響か?」
隊長がインカムを叩く。
『……こちら第3班。第4班、応答しろ。どうした? 定時連絡のタイミングだぞ』
返事はない。
それどころか、後方を一定の距離を保って並走していたはずの第4班のバンが、バックミラーの中から『音もなく消失』していたのだ。
クラッシュした音も、ブレーキのスキール音もない。まるで最初から存在していなかったかのように、闇の中に溶けて消えた。
「な、なんだ!? 第4班、応答しろ! 敵襲か!?」
隊長が慌てて運転席の背もたれを蹴り、周囲を警戒させる。後部座席の隊員たちが一斉にアサルトライフルの安全装置を外し、暗視ゴーグルを下ろした。
だが、彼らが何者かを視認するよりも早く、死神の鎌は振り下ろされた。
ドガァァァァァァンッ!!
「ガ、ァッ!?」
すさまじい轟音と共に、彼らの乗るバンの強化防弾フロントガラスが、正面から飛来した漆黒の『槍』によって容易く貫通された。
いや、槍ではない。それは、黒いロングコートの裏地に仕込まれていた、ただのチタン合金のボールペンだ。
『摩擦ゼロ』による空気抵抗の完全な消失。
『直進』のベクトルによる弾道の固定。
そして、『空間断裂』の概念を上乗せされたその一本のペンは、防弾ガラスをティッシュペーパーのように貫き、運転手の胸部を正確に打ち抜いた。そればかりか、その背後に座っていた隊員の肩のプロテクターごと鎖骨を砕き飛ばし、バンの後部ドアを突き破って後方へ飛び去っていった。
「うぎゃああああっ!!」
「運転手がやられた! ブレーキを踏めェッ!!」
コントロールを失ったバンは、猛スピードでスピンしながら横転し、激しい火花と金属の摩擦音を撒き散らしてコンクリートの壁に激突した。
ひしゃげたドアを内側から蹴り開け、血まみれになった隊長と生き残りの隊員たちが、這うようにして外へ転がり出てくる。
訓練された彼らは、激しい横転事故の直後にもかかわらず、即座にアサルトライフルを構え、襲撃者の姿を探した。
街灯すら消え、暗闇に包まれた路地裏。
漏れ出たガソリンの匂いと、ラジエーターから噴き出す白い蒸気の向こう側。
そこに、黒いロングコートを羽織った一人の少年が立っていた。
ボサボサの頭。目の下には深いクマ。
そして、その瞳からは、人間としての光や感情が完全に抜け落ち、絶対零度のように冷え切った、純粋な『殺意』だけが静かに燃えていた。
瀬川空。
学園都市の暗部において、不都合な事象を跡形もなく消し去る『掃除屋』。
「……お前ら木原のやり方は、昔から反吐が出る」
空の、低く、冷え切った声が路地裏の静寂に響き渡った。
彼は、ポケットから取り出した極甘の缶コーヒーの空き缶を、無造作に足元へ放り投げた。カラコン、と虚ろな音が響く。
「てめぇ……何者だ! 第一位の関係者か!?」
血を流しながら隊長が怒鳴る。
空は、その問いには答えなかった。彼の脳裏には、先ほど廃研究所の地下シェルターに運び込んだ、五人の妹達の姿が焼き付いていた。
『極上の惨劇さ』
木原虚の嗤い声がフラッシュバックする。
打ち止めがハウンドドッグに奪われれば、ミサカネットワークは彼ら木原一族の手によって完全に掌握される。それは、地下で眠る妹達の命を、彼らがいつでも自由に握り潰せる状態になるということだ。
「他人の命を、なんだと思ってる」
空は、一歩、ゆっくりと前へ踏み出した。
「あいつらを、俺の妹達を……お前らみたいな腐った連中の、実験の道具にこれ以上させてたまるかよ」
「ガキが……! 構わん、撃てェッ!!」
隊長の号令と共に、生き残った五人の隊員たちが一斉にアサルトライフルの引き金を引いた。
毎分数千発という猛烈な速度で吐き出される、対能力者用の特殊徹甲弾。オレンジ色の曳光弾が、闇を切り裂いて空の細い身体を八つ裂きにせんと殺到する。
十字砲火。回避不可能な弾幕。
だが、放たれた数百の銃弾は、空の身体に触れることすらできなかった。
空は、呼吸をするように、あるいは歩行のステップを刻むように、極めて自然な動作で空洞化された演算領域を立ち上げていた。
『エミュレート——流体反発、及び空間断裂。多重展開』
シュパパパパパパパパパッ!!!
空の周囲に、あらかじめばら撒かれていた数十枚の『トランプ』が、意思を持ったように乱舞した。
シノが特殊な防弾繊維を編み込んで強化したそのカード群は、空の演算によって飛来する銃弾の空間座標を次々と切断し、弾頭を空中で真っ二つに割っていく。
さらに『流体反発』のベクトル操作により、割れた弾丸の破片は空の身体の輪郭をなぞるように逸らされ、背後のアスファルトやコンクリートの壁を無数に穿っていった。
「な、なんだこいつは……!? 第一位と同じ『反射』か!?」
「バカな! あの野郎のベクトル操作とは違う! 空間が、削り取られて……ッ!」
驚愕に目を見開く隊員たち。彼らの常識を凌駕する複合能力の前に、引き金を引く指が恐怖で硬直する。
「……次は、俺の番だ」
空は、コートの裏地のホルダーから、タングステンカーバイドを内蔵した特製の『ビー玉』を数個、指の間に挟み込んだ。
「お前らには、気絶して眠ってもらうすら生温い」
ギリッ、と。空の脳内で毛細血管が悲鳴を上げる音がした。
複数の高度な法則を同時ペーストし、出力の限界を超える『擬似超電磁砲』を連射する。バックグラウンドで展開している『肉体再生』と『痛覚遮断』が追いつかず、空の鼻から、目から、どす黒い血がツーツーと流れ落ちた。
だが、そんな肉体的な痛みなど、彼の中に渦巻く巨大な『怒り』に比べれば、無に等しい。
恩人を焼き殺され、日常を奪われ、心を空洞にされた過去。
そして今、ようやく手に入れた家族の温もりすらも、木原という悪意は土足で踏み躙ろうとしている。
許さない。絶対に、お前らだけは生かして帰さない。
『エミュレート——摩擦ゼロ、運動エネルギー強制収束』
空の親指が、ビー玉を弾き出した。
ピキィィィィンッ!!!
大気を裂く鋭い轟音。音速を遥かに超えた見えない砲弾が、ハウンドドッグの隊員たちへと襲いかかる。
狙うのは急所ではない。彼らの『戦闘能力』を、徹底的に、かつ残酷に奪い去るための部位。
「ア、ギィィィッ!!?」
最初に悲鳴を上げたのは、右から回り込もうとしていた隊員だった。
彼の構えていたアサルトライフルごと、右腕の肘から先が、ビー玉の直撃を受けて完全に粉砕され、赤い霧となって吹き飛んだ。
「うわああああっ! 腕が、俺の腕がァッ!」
「ひっ……化け物、化け物ォォッ!」
逃げ出そうと背を向けた隊員の右膝の関節が、次の一撃で木端微塵に砕け散る。
倒れ込んだ所に、さらにもう一発。今度は左の太ももが抉り取られ、コンクリートの床に大量の血がぶちまけられた。
「ガハッ……助け、ボス……ッ!」
阿鼻叫喚の地獄と化した路地裏。
プロの暗部部隊として冷酷に他人の命を奪ってきた猟犬たちが、今、自分たちが狩られる側の無力な獲物となり、恐怖と激痛に泣き叫んでいる。
「まだだ。お前らの足の筋を全部引きちぎるまで、俺の気は済まない」
空は、顔中を自身の血で真っ赤に染めながら、一切の表情を変えることなく、次々と猟犬の牙と四肢を叩き折っていった。
トランプが舞い、見えない砲弾が飛び交い、肉が弾け飛び、骨が砕ける。
(……痛いか? 苦しいか?)
空の空洞化された心に、暗い歓喜が渦巻く。
だが、同時に底知れない虚しさが彼を襲う。どれだけこいつらを肉塊に変えようと、木原虚に向けた復讐の渇きが癒えるわけでもなく、妹達の命の絶対的な保証がされるわけでもない。
「……ハァッ、ハァッ……」
数分後。
路地裏には、四肢を砕かれ、気絶するか呻き声を上げるだけのハウンドドッグの隊員たちが転がっていた。死者はいない。だが、もはや二度とまともに歩くことも、銃を握ることもできないだろう。
空は、血で滑る指でコートの裏地から新しいビー玉を装填し、乱れた呼吸を整えた。
『肉体再生』の処理を強引に早め、破裂した血管を無理やり縫い合わせる。
「……まだまだいる」
木原数多。この部隊を率いる男は、すでに第一位と打ち止めの元へ向かっているはずだ。
そいつを潰さなければ、根本的な解決にはならない。
空は、血だまりを踏み越え、さらなる闇の奥へと足音もなく駆け出していった。
自分の命を削り尽くしてでも、この理不尽な嵐から『家族』を守り抜くために。
見えざる掃討戦は、まだ終わらない。