とある科学の擬似発現   作:ついついつい

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第七十一話:嵐の終息とコーヒーの味(アフター・ザ・ストーム)

九月三十日、深夜。日付が変わろうとする頃。

街全体を分厚い鉛のように覆い尽くしていた『天罰術式』による重圧が完全に霧散し、学園都市はゆっくりと、だが確実に長い昏睡から目を覚まし始めていた。

機能を停止していた交通網や通信インフラが徐々に回復し、ブラックアウトしていた街頭のホログラムパネルやビル群の航空障害灯が、次々と息を吹き返すように点灯していく。

酸欠で倒れ伏していた人々も、新鮮な空気を取り戻してむせ返りながら立ち上がり始めている。それに伴い、事態の収拾と救護のために出動した救急車や、警備員の車のけたたましいサイレンが、遠くから幾重にも重なって鳴り響き始めていた。

誰もが原因不明のパニックに怯え、混乱の渦中にあるその夜。

第七学区の片隅に位置する、周囲の喧騒から隔絶されたような廃研究所の敷地へ、足を引きずるようにして歩いてくる一つの影があった。

「……ハァッ、はぁっ……」

瀬川空だった。

猟犬部隊の残存勢力を一人残らず物理的に無力化し、第一位の戦いの外堀を完璧に埋め切った彼は、文字通り満身創痍の極みにあった。

能力の多重並列展開による限界突破の代償。鼻腔や耳の奥から流れ出たどす黒い血は首筋で乾燥し、シノが秋仕様に仕立ててくれたばかりの漆黒のコートは、敵の返り血と自身の血、そして硝煙と砂埃にまみれてひどく重くなっている。

バックグラウンドで稼働させ続けている『肉体再生』の処理が、切断寸前まで酷使された筋繊維と破裂した毛細血管を強引に繋ぎ合わせようと、全身に焼け焦げるような幻痛を走らせていた。

だが、空の足取りに迷いはなかった。

己の命を削ってでも、帰らなければならない場所がある。確認しなければならない顔がある。

研究所の入り口に辿り着いた空は、血で滑る指で電子キーのパスコードを打ち込んだ。

分厚い鉄扉が、重々しい駆動音と共にゆっくりと開く。

 

(……シェルターの生命維持装置は、ちゃんと働いてくれただろうな)

 

一抹の不安を抱えながら、空が薄暗いエントランスに足を踏み入れた、その瞬間だった。

「——ソラッ!!」

タタタタタタッ! と、複数の慌ただしい足音が廊下の奥から一斉に近づいてくるのが聞こえた。

玄関の明かりがパッと点き、空の視界に飛び込んできたのは、涙で顔をぐしゃぐしゃにした五人の少女たちの姿だった。

魔術の干渉を遮断する地下シェルターから出てきた彼女たちは、呼吸を完全に正常な状態に取り戻していた。

「ソラ! ご無事で……っ、ああ、なんてひどい怪我を……! とイチは涙目で空の血まみれのコートを強く掴みます!」

リーダーのイチが、普段の冷静さを完全に失い、軍用ゴーグルをずらしたまま泣きそうな声で空の胸元にすがりついた。

「お兄ちゃん! どこに行ってたの! ずっと、ずっと心配したんだよぉ! とイツキは空の腰にしがみついて子供のように泣きじゃくります!」

末っ子のイツキは、空のコートが血で汚れようとお構いなしに、顔を押し付けてボロボロと大粒の涙を流している。

「マ、マスター、ひどい出血です! 眼球の毛細血管まで破裂しているではありませんか! すぐにこの青色サプリ・極式を……いえ、まずは輸血パックの準備を! とニナはパニックに陥りながら白衣のポケットをまさぐります!」

薬学担当のニナが、珍しく不敵な笑みを完全に崩し、血の気の引いた顔で慌てふためいている。

「ボス! コートがまたボロボロじゃないか! チタンのペンもタングステンのビー玉も、全部使い切っている……一体どれだけの無茶をしたのですか! とシノは怒りながらも、ボスの生還に心の底からの安堵の息を漏らします!」

工学担当のシノが、空の空っぽになった裏地のホルダーを確認し、その激戦の痕跡に唇を噛み締めながらも、空の身体を必死に支え込もうとする。

「ソラさん……っ、痛かったですよね、苦しかったですよね……とミトは震える手でタオルを取り出し、ソラさんの顔の血を優しく拭おうとします」

農学担当のミトが、空の顔にこびりついた血糊を、痛まないようにそっと、涙をこぼしながら拭い始めた。

「…………」

五人の妹達に囲まれ、彼女たちの必死な声と、自身の身を案じてくれる温かい体温に触れた瞬間。

空の全身から、ピンと張り詰めていた殺意と緊張の糸が、音を立ててほどけていった。

木原という、自身のすべてを奪ったトラウマの象徴の親族と対峙し、冷酷な殺人機械に成り下がっていた空の心に。

彼女たちの不器用で、ひどく純粋な愛情が、急速に人間らしい温かい血を通わせていくのを感じた。

「……ただいま。みんな、無事でよかった」

空の口から、掠れた、けれど確かに安堵の混じった声が漏れた。

彼は血に汚れた大きな手で、イチ、イツキ、ニナ、シノ、ミトの五人の頭を、順番に、壊れ物を扱うように優しく撫でていった。

「ごめんな、心配かけて。……ちょっと、街の裏路地に湧いた『虫退治』をしてきただけだ。もう大丈夫だぞ」

空はそう言って、いつものように虚ろさを孕んだ、けれど何よりも温かく、彼自身の『本心』がこもったニコニコとした笑顔を作った。

その笑顔を見た瞬間、五人の妹達は張り詰めていたものが切れたように、空の胸に顔を埋めて本格的に泣き出してしまった。

 

♢

 

それから数十分後。

手当を受け、シャワーでこびりついた血と硝煙の匂いを洗い流した空は、清潔なシャツとスウェットに着替え、リビングの定位置であるソファに深く腰を下ろしていた。

限界を超えた肉体は悲鳴を上げているが、心は不思議なほどに凪いでいる。

「ソラさん。お疲れ様でした。今日は特別に、お砂糖をいつもの倍入れておきましたよ、とミトはおっとりと微笑みながら特製のマグカップを差し出します」

「……ありがとう、ミト」

ミトが栽培した極悪なカフェイン豆から抽出された、真っ黒な液体。そこに、空の脳の疲労を計算して致死量スレスレの砂糖がぶち込まれた、ドロドロの極甘コーヒー。

空はマグカップを両手で包み込むように受け取り、ゆっくりと口をつけた。

「……んッ」

脳の奥の痛覚中枢までダイレクトに痺れるような、暴力的なまでの甘さと苦味。

常人なら一口で胃液を吐き出しそうなその劇薬のような液体が、擦り減り、焼き切れそうになっていた空の精神と脳細胞を、じんわりと、だが確実に癒やしていく。

空は深く息を吐き出し、ソファの背もたれに身体を預けた。

リビングの床には、ラグの上に毛布を広げ、泣き疲れた五人の妹達が重なるようにしてスヤスヤと寝息を立てていた。

イチがイツキを抱きしめ、シノとニナが背中合わせになり、ミトがその輪を包み込むように眠っている。

彼女たちがこうして、同じ顔を持ちながらもそれぞれの個性を持ち、平和な寝息を立てていられること。

それが、今日、空が命を懸けて木原の猟犬たちを食い止めた最大の成果だった。

 

(……木原数多は、第一位が完全に葬り去った。打ち止めも無事だ)

 

マグカップのコーヒーを噛み締めるように飲みながら、空は暗部端末から得た事後情報を脳内で整理する。

木原数多という狂気は消滅した。ミサカネットワークを狙った脅威は去った。

……だが。

 

(まだ、あいつがいる)

 

空の脳裏に、数日前に第十一学区の廃棄倉庫で出会った、あの白衣の男——『木原虚』の狂気的な笑い顔がフラッシュバックした。

『私は心待ちにしているのだよ。君がその偽物の日常を守るためにキャパシティをオーバーし、全てを失い、再び完璧な空洞へと還るその瞬間をね!』

木原一族の悪意は、数多が死んだ程度で消え去るほど浅いものではない。学園都市のシステムの根深くに、ガン細胞のように張り巡らされている。

虚は確実に、空の精神を完全に破壊するための次なる『実験(ゲーム)』を仕掛けてくるだろう。

それが、彼が空の自我を空洞化させた造物主としての、歪んだ執着だからだ。

さらに、事態は学園都市の内部だけにとどまらない。

空の暗部の嗅覚は、今日の一連の事件の裏にある『世界規模のうねり』を確信していた。

ローマ正教の『神の右席』である前方のヴェントが、単騎で学園都市に侵攻し、天罰術式によってこの科学の総本山を半壊させたという事実。

これは、ただのテロではない。魔術サイドの最大勢力から、科学サイドに対する『明確な宣戦布告』だ。

表の英雄である上条当麻がヴェントの野望をその右拳で打ち砕いたことで、最悪の事態は免れた。

だが、その事実が逆に、ローマ正教という巨大な十字教組織のプライドを完全に刺激し、世界中で魔術サイドと科学サイドの対立が決定的に激化することを意味している。

第三次世界大戦。

血の匂いに敏感な空には、世界を二分する破滅的な戦争の足音が、秋の風に乗って確実に近づいてきているのが聞こえていた。

「……どんな嵐が来ようと」

空は、残りの極甘コーヒーを一気に飲み干し、空になったマグカップをテーブルにコツンと置いた。

虚ろな瞳の奥に、かつてないほど鋭く、熱い決意の光が宿る。

「俺は、俺の仕事をするだけだ。……この日常の床を、絶対に踏み抜かせはしない」

たとえ相手が木原の狂気であろうと。

世界を敵に回す魔術結社であろうと。

神の右席と呼ばれる超常の存在であろうと。

空は立ち上がり、寝返りを打って毛布を蹴飛ばしてしまったイツキとシノの肩に、そっとブランケットを掛け直した。

彼女たちの寝顔を見つめる空の表情は、どこまでも優しく、慈愛に満ちている。

0930事件という、学園都市の歴史上かつてない未曾有の嵐を乗り越え、季節は本格的な秋の深まり——次なる戦乱の季節へと向かっていく。

表の世界で上条当麻が理不尽な幻想を打ち砕き続けるその裏側で。

掃除屋・瀬川空の孤独で血塗られた戦いは、ここからさらに過酷で、絶対的な境界線へと足を踏み入れていくのであった。

静まり返った廃研究所のリビングに、壁掛け時計の秒針の音だけが、新たな日常の始まりを告げるように静かに刻まれていた。

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