十月上旬。
長かった厳しい残暑がようやく終わりを告げ、学園都市の街路樹は本格的に赤や黄色へと色づき始めていた。吹き抜ける風にはヒンヤリとした肌寒い秋の空気が混じり、季節の移ろいを確かに感じさせる。
第七学区の外れに位置する、空と妹達の『家』である多層階の廃研究所。
その広々としたリビングでは、一気に冷え込んだ気温に合わせ、少女たちが夏服から冬服への本格的な衣替えを行っていた。
「お兄ちゃん、見て見て! 冬服の準備できたよ! とイツキは自慢げに真新しいセーターの袖を引っ張って見せびらかします!」
末っ子のイツキが、常盤台中学の指定のブレザーの下に、少し大きめの柔らかなクリーム色のセーターを着込み、クルリと回ってみせた。
「おお、似合ってるじゃん。寒がりなお前にはちょうどいいな」
「ソラ、ミサカたちも冬季兵装への換装を完了しました、とイチは報告します。機能性と防寒性を兼ね備えた合理的なフォルムです」
リーダーのイチをはじめ、ニナ、ミトもそれぞれ冬服のブレザーやカーディガンに身を包み、少し嬉しそうに胸を張っている。彼女たちが着ている制服は、もちろん本物の常盤台のものではなく、シノが独自の工学技術で採寸から縫製まで完璧に作成した特注品だ。
空は、ソファに深く腰を下ろし、マグカップに注がれた甘いホットミルクをゆっくりと啜りながら、その平和な光景に目を細めた。
ミトが栽培したハーブが微かに香る、砂糖たっぷりのホットミルク。冷えた身体と、日々の演算で疲弊した脳髄に、その甘さと温かさがじんわりと染み渡っていく。
「ありがとうな、イツキ。……シノ、俺のコートの裏地の調整も助かった。これで冬場の仕事も少しは楽になる」
空が傍らに置かれた黒いロングコートを撫でて言うと、ミシンの前で作業していたシノが、ドヤ顔で振り返った。
「ボスの生存率を極限まで引き上げるのは、専属エンジニアたるミサカの至上命題ですから! 保温材の追加だけでなく、各種触媒の装填ギミックもコンマ一秒の短縮に成功しています、とシノは得意げに鼻を鳴らします!」
同じ顔、同じ声。だが、五人それぞれの個性がはっきりと表れた、騒がしくて温かい秋の日常。
(……最高だな)
空の空洞化された心臓の奥底が、確かな体温で満たされていく。この馬鹿馬鹿しくも愛おしい日常を守るためなら、自分はどんな泥でも啜れるし、どれだけの血反吐でも吐ける。
——ヴヴッ、ヴヴッ。
だが、その平和な空気を切り裂くように、空のズボンのポケットで暗部専用の漆黒の端末が無機質な振動を始めた。
空はホットミルクをテーブルに置き、表情を変えないように注意しながら画面を一瞥した。
『——第七学区裏路地。対象:スキルアウト残党および周辺のイレギュラー。現場の事後処理および隠蔽を求む。清掃班、直ちに出動せよ』
統括理事会からの、汚れ仕事のオーダー。
「……」
空は瞬時に端末をスリープ状態に戻し、立ち上がってシノが調整してくれたばかりの冬用コートを羽織った。
振り返り、いつもの虚ろさを孕んだ、けれど彼女たちにとっては世界で一番安心できる『ニコニコとした笑顔』を向ける。
「悪い、ちょっとゴミ拾いの仕事が入った。少しだけ出かけてくる」
「またですか? ソラの労働環境は明らかに労働基準法に抵触しています、とイチは眉をひそめて抗議します」
「ははっ、まあな。でもボーナスがいいんだよ。帰りに何か美味いケーキでも買ってくるから、いい子で待っててくれ」
「やったー! チョコレートケーキがいいな! とイツキは現金に喜びます!」
空は五人の頭を順番に撫でると、冷たい秋の風が吹く外の世界へと、一人で歩き出した。
鉄扉が閉まった瞬間、空の顔から「良き兄」としての温かい光が完全に消え失せ、光を反射しない純粋な『掃除屋』の貌へと切り替わった。
♢
数十分後。第七学区の入り組んだ裏路地。
空は、足音を完全に殺した『空間移動』によって、血と硝煙の匂いが立ち込める現場に音もなく降り立った。
太陽はすでに沈みかけ、薄暗い路地裏は不気味なほどの静寂に包まれている。
「……派手にやったな」
空の口から、呆れたような呟きが漏れた。
アスファルトの上には、見るも無惨なまでに蹂躙された少年たちの身体が、文字通り『ゴミのように』乱雑に転がっていた。
彼らの多くは、銃火器や刃物を持った
統括理事会からの指令は、新設された暗部組織『グループ』の初任務——第七学区のスキルアウトのリーダー、駒場利徳の殺害に伴う『現場の事後処理および隠蔽』だったはずだ。
『グループ』。
土御門元春、結標淡希、エツァリ、そして第一位・一方通行という、首輪をつけられた四人の化け物たちで構成された実働部隊。彼らが駒場を片付けた後始末をするのが空の役割だ。
ところが、現場の状況は空の予測と違っていた。
駒場の遺体やスキルアウトの残党の処理だけでなく、若干一名——第一位の化け物が、統括理事会の命令を無視して独自に行動を開始したせいで、空の仕事には「無能力者狩りをしていた能力者たちの片付け」まで追加されてしまったのだ。
「自分の手を汚してまで無能力者を守る『悪党』気取りかよ。……お陰でこっちの仕事が増えたじゃねえか」
空はため息をつきながら、コートの裏地からシノ特製のトランプとビー玉を取り出した。
『エミュレート——念動力、及び空間断裂』。
空の指先から放たれたトランプが、血痕がこびりついたアスファルトごと空間を数ミリ単位で薄く切断していく。削り取られた血肉とコンクリートの破片は、『念動力』の不可視のベクトルによってまとめられ、下水のマンホールへと音もなく流し込まれていく。
折れ曲がった街灯は強引に接合され、壁に空いた銃弾の跡は周囲の材質を引き伸ばして塞がれる。
人間の命が奪われ、破壊の限りを尽くされた凄惨な現場が、空の空洞化された冷徹な演算によって、何事もなかったような『ただの裏路地』へと手際よく修復されていく。
だが、その隠蔽作業の途中で。
カツッ……、カツッ……。
路地の奥の暗闇から、無機質な金属が地面を突く、乾いた足音が響いてきた。
「チッ……。どいつもこいつも、くだらねェ御託並べやがって。正義だの悪だの、耳障りなンだよ」
現れたのは、白い髪に赤い瞳を持つ、病的に痩せ細った少年。
彼は、歩行を補助するための現代科学の杖をつき、首元には自身の脳の演算を補助するための『チョーカー型の電極』を巻いていた。そして、その華奢な手には、彼という絶対的な能力者には最も不似合いな、武骨な拳銃がだらりと下げられていた。
学園都市第一位、一方通行。
彼は、無能力者を狩って悦に浸っていた能力者たちを『サービス残業』と称して単独で血祭りに上げ、その帰路についているところだった。尤も、彼が残した死体の山という『サービス』は、後処理をさせられる空にとっては迷惑極まりないものなのだが。
「……奇遇だな、第一位。いや、今は暗部『グループ』の新人さん、と呼ぶべきか」
空は、血だまりを清掃していた手を止め、ゆっくりと立ち上がった。
ポケットから極甘の缶コーヒーを取り出し、プルタブをパキリと開けながら、感情の読めない平坦な声で声をかけた。
一方通行は、その声にピタリと足を止め、杖をついたまま、血に飢えた獣のような赤い瞳で空を射抜いた。
「あァ? なンだ、テメェ」
一方通行は、首をコキリと鳴らし、忌々しそうに空を睨みつけた。
「……どこかで嗅いだことのある胸糞悪ィ気配だと思ったら。テメェ、俺の能力の残滓をパクってフラフラしてる、気持ち悪いヤツじゃねェか」
一方通行の直感、あるいはベクトルを支配する者としての絶対的な感覚は、空が自身の『反射』や演算方式を過去にエミュレートした事実を正確に嗅ぎ取っていた。
「第8位の瀬川空だ。覚えといてくれるとありがたいね。俺は、お前ら『グループ』が散らかしたゴミを片付けるように上から言われてる、ただの掃除屋さ」
空は、冷たい秋風の中で缶コーヒーを口に運びながら、一切の感情を排した、虚無の目で一方通行を見返した。
二人の間には、明確な、そして触れれば爆発しそうなほどの見えない火花が散っていた。
空のコートの裏地に待機しているトランプとビー玉が、空の無意識の『殺意』に呼応して、カタカタと微かに震えている。
空にとって、目の前の男は、イチたちと同じ顔をした1万人もの『妹達』を、実験の道具として無惨に惨殺し続けた絶対的な悪魔だ。
殺したい。
今すぐ空間断裂の刃でその首を刎ね、擬似超電磁砲で心臓を撃ち抜き、妹達の味わった絶望と痛みをその身に刻み込んでやりたい。そのドス黒いマグマのような憎悪が、空の空洞化されたパーソナルリアリティの奥底で渦巻いている。
だが。
同時に空は、この男の『真実』を知っている。
この白い悪魔は、たった一人の幼い少女——『
そして今、首にチョーカー型の電極を巻き、統括理事会という暗部の底なしの泥沼に自ら足を踏み入れてまで、その少女の命と『日常』を守ろうとしているのだ。
自分と同じだ。
空っぽの自分を満たしてくれた、たった一つの大切な『家族』を守るために、他人の血に塗れ、泥を啜ってでも暗部の裏方として生きることを選んだ『同類』。
だからこそ、空は彼を殺せない。彼が死ねば、打ち止めという一人の少女が絶望し、巡り巡ってミサカネットワークに繋がるイチたちの日常にも影を落とすことになるからだ。
「……テメェのその薄気味悪い目は、昔から気に食わねェ」
一方通行は、空の瞳の奥に渦巻く『殺意』と『共感』という矛盾した感情を不快に感じ取ったのか、ギリッと歯を鳴らした。
「俺の邪魔をするなら、たとえ同業者だろうが同じレベル5だろうが関係ねェ。その首、ミンチにして捻り潰すぞ」
周囲の大気が、第一位の殺気に呼応してビリビリと軋む。
だが、空は缶コーヒーを飲み干し、口角を少しだけ上げて、どこまでも空っぽの、偽物の笑顔を向けた。
「安心しろよ。俺は裏方だ。……お前らがそうやって、自分の守りたいもんのために派手に暴れてくれた方が、俺の掃除もやり甲斐があるってもんだ」
空の言葉の裏にある「打ち止めのために足掻き続けろ」という皮肉とエールを受け取ったのか、一方通行はひどく忌々しげに「チッ」と舌打ちをした。
「……狂ってやがる。テメェも、この街もな」
一方通行はそれ以上空に興味を失ったように背を向け、杖を突きながら、血と硝煙にまみれた路地裏の闇へと足を引きずって姿を消していった。
(……不器用な野郎だ)
男の背中が完全に見えなくなり、足音が消失するのを確認してから。
空は、手の中にあった空のアルミ缶を、メシャリと力任せに握り潰した。
鋭利に折れ曲がったアルミの断面が手のひらを切り裂き、赤い血がポタポタとアスファルトに滴り落ちた。バックグラウンドの『肉体再生』が瞬時にその傷を塞いでいく。
どれほど共感しようと、どれほど同類であろうと、彼が妹達を殺した事実は消えない。
交わることはない。交わってはいけない。
表の英雄である上条当麻が彼らを救ったのなら。裏の掃除屋である空は、彼らの残した血痕を消し去ることで、間接的に彼らの日常を維持するしかないのだ。
「さて……残りのゴミを片付けて、さっさと帰るか。……あいつらが待ってる」
空は、潰れたアルミ缶をゴミ袋に放り込み、再びトランプとビー玉を展開した。
暗部という底なしの泥沼の中で、守るべき少女たちのために血を流す者同士。
決して交わることのない二人の、これが血塗られた残骸の上での、静かでヒリヒリとした正式な顔合わせだった。