十月。
秋の夜風が急速に温度を下げ、街路樹の葉が乾いた音を立ててアスファルトの上を転がる頃。
第七学区、廃研究所。
五人の妹達が自室で穏やかな寝息を立て始めた深夜、リビングで一人、特製のカフェイン豆から抽出された極悪なコーヒーを啜っていた空のコートのポケットで、暗部専用の端末がけたたましい警告音と共に振動した。
『——学園都市外部の回収運動リーダー格、御坂美鈴の殺害計画が進行中。第十学区・断崖大学にて。暗殺部隊の展開に遅れが生じているため、周辺の暗部組織にバックアップおよび事後処理を要請』
表示された暗号化テキストを読み下した瞬間、空の空洞化された演算領域が、氷水を浴びせられたように急速に冷却され、そして爆発的な速度で回転を始めた。
「……御坂、美鈴……?」
その名前に、聞き覚えがないわけがない。
御坂美琴の母親だ。
学園都市の異常な実験や事件から自分たちの子供を連れ戻そうとする、外部の親たちによる『回収運動』。その先頭に立っているのが、美琴の母親である御坂美鈴だった。
学園都市の上層部、統括理事会にとって、都市の機密を外部に持ち出そうとするその運動は極めて目障りな存在だ。だからこそ、見せしめとしてリーダーである彼女を暗殺しようとしている。
「……冗談じゃない」
空は、手にしていたマグカップをテーブルに叩きつけるように置いた。
もし、御坂美鈴が殺されればどうなるか。
御坂美琴の日常は、完全に、そして修復不可能なまでに崩壊する。
美琴が絶望に沈めば、彼女をオリジナルとする『妹達』——今、この研究所の上の階で安らかな寝息を立てているイチやニナたちの存在意義や心の平穏にも、確実に致命的な波及をもたらす。
そして何より、美琴の異変に気づけば、あの底抜けにお人好しな親友——上条当麻が、間違いなく自らの命を投げ打って最悪の事態へと飛び込んでいくことになるだろう。
「俺が必死に組み上げた日常の床を……勝手に踏み抜こうとするな」
空は、漆黒のロングコートを翻し、シノが調整した触媒の重量を確かめると、音もなく空間移動を駆使して現場である第十学区へと急行した。
♢
第十学区、断崖大学。
研究施設と大学のキャンパスが入り組んだ巨大な敷地内は、すでにきな臭い火薬の匂いと、無数の殺気で充満していた。
学園都市の闇に蠢く武装無能力者集団は、懸賞金か何かを目当てに美鈴の命を狙って集結しているようだった。
空は、キャンパスを囲む高い時計塔の屋根に降り立ち、暗視能力をエミュレートして眼下の状況を俯瞰した。
「……見つけた」
美鈴が囚われているであろう講堂へと続く中庭。
そこへ向かって、暗闇の中を一直線に駆け抜けていく一つの見慣れた人影があった。
「あいつ……また厄介事に首を突っ込んで……!」
上条当麻だった。
やはり、というべきか。美琴の母親の危機を知り、たった一人でこの死地へ乗り込んできたのだ。
だが、状況は最悪に近い。
上条の右手幻想殺しは、どれほど強大な異能の力であろうと完全に打ち消すことができる。しかし、今彼の行く手を阻もうとしているのは、能力など持たない代わりに、アサルトライフルやショットガンといった純粋な近代兵器で武装したスキルアウトたちだ。
異能の力を持たない鉛の弾丸を前にしては、彼の右手はただの肉の塊でしかない。分が悪すぎる。
「馬鹿野郎が……。盾も持たずにハチの巣になる気か」
空はコートの裏地から、タングステン内蔵のビー玉とトランプを引き抜き、上条を援護するための演算を立ち上げようとした。
——その、瞬間だった。
ダッ!!!
講堂の別の入り口、上条の対角にあたる方向から、銃声が夜の静寂を引き裂いた。
「なっ……!?」
空が驚愕して視線を向けると、そこには、信じられない人物が立っていた。
白い髪、赤い瞳。病的に痩せ細った身体。
学園都市第一位、一方通行。
彼が、なぜか近代兵器である拳銃を構え、上条の行く手を阻むスキルアウトたちに向けて、容赦のない弾幕を浴びせているのだ。
彼の能力『ベクトル操作』を使えば、あんな武装集団など瞬きする間に肉塊に変えられるはずだ。だが、彼は能力を使わず、あえて銃器を使って敵を制圧している。
酔っ払った美鈴と偶然出会い、彼女が狙われていると知った彼が、理由は知らないが銃器を使って上条の進路を切り開くように援護しているのだ。
(第一位が、銃を使って上条を援護している……? ハハッ、最高に狂った光景だな)
空の口元に、呆れと、そしてどうしようもない安堵が入り交じった笑みがこぼれた。
かつて二万人の妹達を殺戮した悪魔と、その実験を打ち砕いた表の英雄。絶対に交わるはずのない二人が、形はどうあれ、一人の女性の命を救うために図らずも同じ戦場に立ち、共闘しているのだ。
だが、感傷に浸っている余裕はない。
一方通行の銃撃による制圧は圧倒的だが、彼の視界にも限界がある。講堂の入り口を目指して駆ける上条の背後、一方通行の銃撃の死角となる暗がりから、銃を構えた数人のスキルアウトの刺客が回り込もうとしていた。
「なら、俺はさらにその『裏の裏』をカバーさせてもらう」
『エミュレート——念動力、及び摩擦ゼロ』
空は、指の間に挟んだタングステン内蔵のビー玉を、親指で強く弾いた。
シュッ!
大気との摩擦を完全にゼロにされたビー玉は、発射音も風切り音も一切発することなく、不可視の弾丸——『擬似超電磁砲』となって暗闇を一直線に駆け抜けた。
ガァンッ!
「ぐあッ!?」
上条の背中を狙っていたスキルアウトの持っていたアサルトライフルが、見えない衝撃によって飴細工のようにへし折られ、その衝撃で男の意識が刈り取られた。
さらに空は、空中にトランプをばら撒き、『空間断裂』の軌道を複雑に屈折させて、建物の影から上条を狙撃しようとしていた別の刺客たちの足元を正確に切り裂いて転倒させていく。
一方通行の放つ派手な銃撃が、敵の注意を引きつける「表の援護」であるならば。
空の放つ音のない狙撃と空間切断は、誰にも気付かれない「裏の死角潰し」だ。
二人の暗部に生きるバケモノが、互いの存在を認識し、言葉を交わすこともなく、ただ一人の『表の主人公』を生かし、目的を果たさせるためだけに、完璧な連携を見せていた。
上条は、自分に向けられていたはずの銃口が次々と見えない力で潰されていくことにも気付かず、ただ前だけを見て、援護の弾幕を縫うようにキャンパスを駆け抜けた。
そして、講堂の内部へと突入し、囚われていた美鈴を見事に救い出したのだ。
だが、事態はそう簡単に終わらなかった。
美鈴を抱えて脱出しようとする上条の背後から、スキルアウトのリーダー格であろう、頭の悪そうな顔をした茶髪の男が、執拗に追跡してきたのだ。
浜面仕上。駒場利徳亡き後、スキルアウトをまとめ上げている男。
(……面倒なのが残ってたな。もしものことがあれば、第一位も動くだろうが……備えあればなんとやらだ)
空は、新たなビー玉を指の間に挟み、時計塔の物陰からスコープのように視界を絞って覗き込んだ。
上条と茶髪の男——浜面は、講堂の外で何やら激しく言葉を交わし合い、言い争っている。
だが、空の懸念は杞憂に終わった。
上条は、浜面の言葉を真っ向から否定するように叫ぶと、浜面の顔面に強烈な右ストレートを叩き込んだのだ。
ドゴォォォンッ!!
鈍い音が響き、浜面の身体が宙を舞い、アスファルトに叩きつけられて完全に沈黙した。
「……終わったな」
空は、指に挟んでいたビー玉をゆっくりとコートのポケットにしまい、小さく、安堵の息を吐き出した。
やはり、あいつは主人公だ。どんな理不尽な状況でも、最後は必ず自分の拳で道を切り開く。
♢
数十分後。
事態が完全に終息し、怪我を負った上条が救急車で搬送され、美鈴も無事にその場を離れた後。
パトカーのサイレンが遠ざかり、静寂を取り戻した断崖大学近くの裏路地。
そこには、暗部組織『グループ』のメンバーである四人が集結していた。
アロハシャツにサングラスの土御門元春、肌寒くなってきた秋の格好とは思えない服装をした結標淡希、海原光貴の姿を借りたエツァリ、そして、銃を無造作に投げ捨てた一方通行。
「お疲れ、第一位。サービス残業も含め、今日の仕事は終わりだ」
土御門が、壁に寄りかかりながら飄々と笑う。
その背後の、街灯の光が届かない深い影の中から。
「——本当に、毎度毎度派手に散らかしてくれるよな」
音もなく、瀬川空が姿を現した。
「……テメェ、またウロチョロしてやがったのか」
一方通行が、赤い瞳を細め、ひどく不機嫌そうに空を睨みつける。
空が空間移動の応用で現れたことに気づいた結標淡希と、かつて偽の海原光貴として空の『掃除』の間接的な恩恵を受けたエツァリも、突如現れた第8位に対し、明確な警戒の色を浮かべて身構えた。
「安心しろよ。お前らが表立って動いたせいで散らかったゴミや血痕を、俺が裏で綺麗に片付けておいたって報告に来ただけだ」
空は、どこから出したのか、極甘の缶コーヒーのプルタブをプシュッと開けて一口煽り、土御門に視線を向けた。
「俺はただの掃除屋だ。お前ら『グループ』の尻拭いまでさせられるのは御免だけどな」
表の顔は、同じクラスでつるむバカカルテットの悪友。だが、今の二人は完全に『暗部の人間』としての冷酷な顔で向き合っていた。
「そう邪険にするなよ、瀬川。これからも長い付き合いになるかもしれないんだからな」
土御門が、サングラスの奥で意味深な光を放ちながら笑う。空の裏での『死角潰し』の狙撃に、彼だけは気づいていたのかもしれない。
「……フン。クソみたいな偽物が」
一方通行は、空の存在そのものを否定するように忌々しげに吐き捨てると、杖をつきながら背を向けて歩き出した。
(偽物、か。……違いないな)
空は、空になったアルミ缶をギリッと握り潰しながら、遠ざかっていく一方通行の痩せた背中を静かに見送った。
自分は、誰かの能力を真似るだけの空っぽの器。本物の感情すら持たない、造られた偽物だ。
(だが、お互い……大切なガキの笑顔を守るために、血反吐吐いて泥被るしかない、どうしようもない同類だろ)
空は、潰れた空き缶をゴミ箱に放り投げ、コートを翻して夜の闇へと姿を消した。
表の英雄が、傷だらけになりながら守り抜いた日常。
それを維持するために、裏の暗部たちが自らの手を血で汚し、誰にも知られない泥を被る。
学園都市の深い闇の中で。
互いに決して交わることはないと拒絶しながらも、瀬川空と一方通行、そして暗部の者たちの孤独な戦いは、また一つ複雑な糸を絡め合いながら、次の戦乱へと続いていくのであった。