とある科学の擬似発現   作:ついついつい

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第七十四話:不在の抑止力と不殺の制圧(ノン・リーサル・ウェポン)

十月上旬。

フランスの歴史的都市アビニョンで引き起こされた、ローマ正教による『C文書』騒動。

その霊装が持つ「ローマ教皇の言葉を絶対に正しいと信じ込ませる」という極めて凶悪な認識改竄の魔術は、海を遠く隔てた極東の学園都市にまで、深刻な影響と物理的な混乱を及ぼしていた。

第七学区から離れた、学園都市で唯一、宗教施設が建ち並ぶ第十二学区。

神学校や様々な宗派の教会が立ち並び、普段であれば異国情緒あふれる静かで厳かな街並みが広がるこの学区は、今や黒煙と怒号が渦巻く紛争地帯と化していた。

「異端の科学を打ち壊せ!」

「我ら十字教の正義をここに!」

暴徒と化した群衆が、手に金属バットや鉄パイプ、角材、あるいはどこから持ち出したのか火炎瓶まで握りしめ、バリケードを築いて警備員(アンチスキル)の機動隊と激しく衝突している。

彼らは学園都市に居を構え、神学や超心理学を学ぶ学生や教職員たちだ。本来であれば、科学と宗教の境界線で折り合いをつけ、比較的寛容な思想を持っているはずの彼らが、まるで何かに憑かれたように狂信的な目を血走らせて暴れ回っている。

「……上条も、第一位も、元栓を閉めに行っているとはいえ。よりにもよって、このタイミングでこれか」

暴徒化した群衆が黒山のように押し寄せる大通りの交差点を、瀬川空はビルの屋上から冷ややかな、けれどどこか悲痛な色を帯びた目で見下ろしていた。

カラン、と。

手にしていた極甘の缶コーヒーを煽り、空になったアルミ缶を足元に置く。暴力的なまでの糖分が、これから始まる過酷な演算に向けて空の脳を強制的に覚醒させていく。

秋の冷たい風が、シノが冬仕様に調整してくれた黒のロングコートの裾を激しくバタつかせていた。

アレイスター=クロウリーから空の暗部端末に下った指令は、『第十二学区の暴動の鎮圧と、都市機能の維持』。

他の暗部組織は、この規模の暴動になれば被害を度外視した苛烈な制圧を行うだろう。だが、空は眼下の群衆を「殺す」つもりは毛頭なかった。

彼らは元から暴徒だったわけではない。魔術という理不尽なシステムによって脳をハッキングされ、無理やり踊らされているだけの、ただの一般人だ。

 

(……人の心を操作する魔術。本当に、胸糞が悪い)

 

空の空洞化された胸の奥で、静かな怒りの炎が燃え上がる。

彼自身が、かつて木原虚という悪意によって強制的に自我を破壊され、心を踏みにじられた被害者だからこそ。こうして理不尽に意志を奪われ、暴力の駒として使い捨てられる人々の痛みが、痛いほどに理解できてしまう。

もしここで彼らを殺せば、血の池に沈む彼らの姿に、かつての自分自身の姿を重ねてしまうだろう。

そして何より、そんな血塗られた手で、家で待つイチたち五人の妹達の頭を撫でることなど、到底できない。

「被害はゼロ。そして、死者もゼロだ」

空は己に厳しい制約を課し、コートの裏地からシノが特殊コーティングを施した真新しい『トランプ』の束を引き抜いた。

殺さずに、数百人規模の暴徒を無力化する。それは、単に敵を殲滅するよりも遥かに高度で、脳に致命的な負荷をかける致死的な並列演算を要求される。

だが、空に躊躇いはなかった。

『エミュレート——催眠、及び空力使い(エアロハンド)。多重並列展開』

空の瞳から、人間としての光がスッと消え去る。

彼の空っぽの演算領域に、学園都市の能力者たちから読み取った『音波と光による脳波干渉』のメカニズムと、大気を自在に操る『空力使い』のベクトル操作が同時にロードされた。

空は手首のスナップを利かせ、数十枚のトランプを一気に暴徒たちの頭上へと扇状に投擲する。

シュパパパパパパパッ!!

空中に放たれたカード群が、重力に従って落下することなく、意思を持った鳥の群れのように大通りの上空で乱舞を始めた。

「なんだ、あれは……!?」

「紙切れが、飛んで……?」

空を見上げた暴徒たちの動きが、一瞬だけ止まる。

その瞬間を、空の演算は見逃さなかった。

ピカァァァァァァァァァンッ!!!

宙を舞うカードの特殊コーティングが、西に沈みかけた夕日の光を特定の角度で乱反射し、ストロボのように強烈なフラッシュを連続で放った。

人間の網膜から視神経へと強制的に侵入する、光の点滅。

さらに、カードが大気を切り裂く風切り音を『空力使い』で精密にチューニングし、人間の脳幹に直接作用して自律神経を強制的にシャットダウンさせる特殊な『低周波の音波』を広範囲に放射した。

「な、なんだ……目が、開けられ……」

「頭が……ガンガン、する……」

「眠ィ……」

光と音の複合攻撃を浴びた暴徒たちが、次々と手から金属バットや火炎瓶を取り落とし、まるで糸が切れた操り人形のように、アスファルトの上に崩れ落ちていく。

彼らは死んだわけではない。脳が強制的に『深い睡眠状態』へと移行させられ、安らかな寝息を立て始めているのだ。

「……ッ、グ、ァ……」

ビルの屋上で。

空の鼻孔から、ドス黒い血が間欠泉のように噴き出し、唇を伝って顎からボタボタと滴り落ちた。

広範囲、かつ数百人の人間の脳波を同時にコントロールする演算。キャパシティをとうに超過した情報処理により、脳内の毛細血管が次々と破裂している。

バックグラウンドで『肉体再生』と『痛覚遮断』を最大出力で回していても、脳髄が沸騰するような強烈な不快感と、全身の筋肉が痙攣するような幻痛が空の身体を苛んだ。

「まだだ。後ろから来てる連中も、まとめて処理する」

空は血反吐を飲み込み、震える指で今度は大量の『ビー玉』を取り出した。

暴徒の後続部隊が、前の者たちが倒れた理由がわからず、怒号を上げながら前進してこようとしている。

『エミュレート——摩擦ゼロ、及び念動力』

空はビー玉を真下の交差点に向かってばら撒いた。

見えない『念動力』の手が、アスファルトの上に等間隔にビー玉を配置していく。そして、そのビー玉の表面だけでなく、周囲数メートルの地面の『摩擦係数』を完全にゼロへと書き換えた。

「うおおおおッ! 異端どもを——うわぁぁっ!?」

「す、滑るッ! 止まれねェ!」

「ぎゃあっ! 踏むな、俺を踏むな!」

突撃してきた暴徒たちは、足元の摩擦が突然消滅したことで、まるで氷の上を全力疾走したかのように派手に転倒した。

摩擦ゼロの空間では一度転べば自力で起き上がることは不可能だ。後続の者たちも次々と転倒した者たちの上に折り重なるように滑って転び、文字通りの『雪崩』となって巨大な交差点の中央でもがき苦しむことしかできなくなった。

「よし。これでこの区画のデモ隊は、全員熟睡か、身動きが取れない状態だ。警備員の機動隊が回収するまでの時間は稼げた」

空はコートの袖で鼻血を乱暴に拭い、大きく、荒い息を吐き出した。

暴動の鎮圧完了。死者はゼロ。重傷者もゼロ。

完璧な、そして底抜けに泥臭い不殺の制圧だった。

空は壁に寄りかかりながら、ポケットから暗部専用の端末を取り出した。

アレイスターに任務完了の報告を送るためだ。

だが。

暗部回線からリアルタイムで流れてくる膨大なデータログを目にした瞬間。

空の瞳の温度が、先ほどまでの疲労すら凍りつくほどに、急激に低下した。

 

(……なんだ、この通信ログの異常な数は。デモの鎮圧部隊のものじゃない。この混乱に乗じて……暗部の組織どもが、一斉に動き出している?)

 

端末の画面には、第七学区、第一学区、第十学区など、学園都市の主要な区画で、極秘裏に動いているはずの暗部組織の活動が活発化しつつあることを示していた。

第四位・麦野沈利が率いる『アイテム』。

第二位・垣根帝督が率いる『スクール』。

外部の傭兵や能力者が入り混じる『ブロック』。

空と同じくアレイスターの手足の『メンバー』。

普段は互いに干渉せず、不可侵の領域で統括理事会の下で飼われているはずの猟犬たち。

それが今、ローマ正教のC文書騒動による警察機能の麻痺を奇貨として、互いの利権や技術、あるいはアレイスターへの反逆や暗部同士の私怨が重なり、組織間での諍いを各地で引き起こしているのだ。

「あの馬鹿ども……!」

空は、端末を握りしめる手にギリッと力を込め、歯打ちを鳴らした。

「一般人が巻き込まれる市街地のど真ん中で、手加減なしの派手なドンパチを起こす気か」

彼らは、空のように「日常を守る」という足枷を持っていない。

目的のためならビルを吹き飛ばし、一般人を巻き込み、血の雨を降らせることに何の躊躇いもない本物のバケモノたちだ。

空は、灰色の空を見上げた。

いつもなら、学園都市に降りかかる理不尽な魔術や表の事件は、上条当麻という『表の解決者』がその右手で打ち砕いてくれる。

そして、暗部で暴走する馬鹿どもには相互の監視の下、大っぴらに動くことはなかった。

だが、今。

上条はC文書の元栓を閉めるためにフランスのアビニョンへ飛んでいる。

そして、暗部の相互監視が祟っての対立のため、この諍いは治りようがない。

学園都市の光と闇、二つの絶対的な抑止力が不在の今。この街の均衡は、表面張力でギリギリ形を保っている水滴のように、あまりにも脆い。

「……誰も止める奴がいないなら」

空は、血に塗れた顔を上げ、虚ろな瞳の奥に冷たい殺意と覚悟の火を灯した。

家に帰れば、イツキが新しいゲームのコントローラーを握って待っている。イチが温かい夕食を作ってくれている。

その穏やかな日常の床を、暗部のバカどもの縄張り争いなんかで、絶対に踏み抜かせるわけにはいかないのだ。

「……俺が、見えざる抑止力になって、全員に釘を刺して回るしかないか」

空は、端末をポケットにしまい込み、コートの裏地に残された触媒の数を確認した。

まだやれる。まだ脳は焼き切れていない。

学園都市のシステムが崩壊へと向かう、狂気の『暗部大戦』。

その血生臭い対立が最も激化しつつあるエリアの座標を脳内にインプットし、瀬川空は音もなくビルの屋上から虚空へと跳躍した。

誰も知らない。誰も賞賛しない。

ただ、自分が愛する者たちの明日を守るためだけに、空っぽの掃除屋は、自ら地獄の底へとその身を投じていった。

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