とある科学の擬似発現   作:ついついつい

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第七十五話:狂犬と無能力者の少年(ハウンド・アンド・ゼロ)

十月上旬。

学園都市の物流の心臓部とも言える、第十学区の広大な廃棄コンテナヤード。

夜の帳が下りたその場所は、本来であれば潮の香りを運ぶ海風の音と、遠くを走るモノレールの規則的な振動しか聞こえない、寂寥とした静寂のエリアである。しかし今夜は違った。赤錆の浮いた分厚い鉄の箱が迷路のように積み上げられた鋼鉄の峡谷の間で、学園都市の深い闇がヒリヒリと音を立てて煮詰まっていた。

統括理事会の下で飼われている猟犬たち——暗部組織同士の、血で血を洗う壮絶な縄張り争い。

その火種の一つとなるはずだった下部組織の武装アジトは、しかし、主力部隊が強襲をかけるよりも早く、すでに完全な『沈黙』に陥っていた。

「……チッ。どういうことォ? 準備万端でカチコミに来てみれば、獲物が全部仲良く寝こけてるじゃないのよ。滝壺、なんか分かる?」

コンテナの合間を縫って現れたのは、暗部組織『アイテム』を率いる第四位の超能力者、麦野沈利だった。

豊かなプロポーションをスタイリッシュな服装で包む彼女の美貌は、獲物を横取りされた苛立ちで醜く歪み、その瞳には狂暴な殺意がギラギラと宿っている。

「……北北東に、一人いる」

麦野の問いに答えたのは、ピンク色のジャージを着た、無表情の少女だった。滝壺理后。他者のAIM拡散力場を捕捉・追跡する『能力追跡(AIMストーカー)』の能力を持つ彼女の焦点の合わない瞳が、正確に暗闇の一点を捉える。

「一人ぃ? 聞いてた話と全然違うってわけよ。完全な空振りじゃん、バカみたい」

金髪にベレー帽を被ったフレンダ=セイヴェルンが、うんざりしたように肩をすくめて文句を垂れる。

「そのたった一人に、超先を越されたのかも知れません。相手の戦力が未知数すぎます、超警戒しましょう」

ボブカットの少女、絹旗最愛が、周囲の静けさにわずかな緊張を滲ませて周囲を見回した。

彼女たちの視線の先、コンテナヤードの広場には、アサルトライフルや違法な能力拡張装備で身を固めた数十名の武装メンバーたちが、まるで糸の切れた操り人形のように無造作に転がっていた。

死者は一人もいない。彼らは皆、手足の関節をピンポイントで打ち抜かれているか、あるいは脳への物理的な衝撃によって完全に意識を刈り取られ、静かに気絶しているだけだ。ただの暴力ではない、極めて合理的で洗練された『制圧』の痕跡。

「悪いな、第四位。ここは俺が先に『掃除』させてもらった。お前らの派手な能力でこの辺の港湾施設ごと吹っ飛ばされたら、後片付けが面倒だからな」

闇の中から、声が降ってきた。

麦野が鋭く視線を跳ね上げると、うずたかく積まれたコンテナの最上段に、黒いコートを羽織った一人の少年が腰を下ろしていた。

ボサボサの髪に、目の下の深いクマ。

片手に極甘の缶コーヒーを持ち、プルタブを開けてチビチビと弄りながら、少年——第七学区の廃研究所から駆けつけた第8位、瀬川空が、虚ろさを孕んだニコニコとした笑顔で見下ろしている。

「……第8位。テメェか」

麦野の細い眉が吊り上がり、声の温度が絶対零度まで下がる。

「他人の能力(フンドシ)で相撲を取るしか能がない、小賢しいパクリガキが。ウチのシマの仕事に横入りして、タダで済むと思ってんのかァ?」

ギリッ、と麦野が歯を鳴らした瞬間。

彼女の周囲の空間が不気味に歪み、緑白く発光する複数の光球がフワリと浮かび上がった。

『原子崩し(メルトダウナー)』。

電子を波と粒子のどちらでもない曖昧な状態に固定し、強制的に放つ。触れれば万物の電子結合を強制的に分解し、あらゆる物質を豆腐のように融解・蒸発させる、学園都市でも最悪クラスの破壊力を持つ能力だ。

「おいおい、味方同士で無駄に争う気か? 今は街の暴動を抑え、システムの崩壊を防ぐのが先決だろ」

空は、コンテナの上に座ったまま、缶コーヒーを一口煽って平然と言い放った。

「お前ら『アイテム』も、この状況に乗じて無駄な抗争の火種を撒き散らすな。これ以上街のインフラを破壊すれば、統括理事会(上)が黙ってないぞ」

空の忠告は、暗部の組織として極めて合理的なものだった。

だが、プライドが高く、自身の力に絶対の自信を持つ麦野沈利という『狂犬』にとって、自分より下位のナンバリングを持つ得体の知れない少年に上から目線で説教されることなど、万死に値する屈辱でしかない。

「うるっさいわね……! 私の仕事にケチつけるなら、テメェごと消し炭にしてやってもいいのよォ?」

麦野が腕を乱暴に振り抜いた。

シュガァァァァァァンッ!!

空気を焼き焦がす異音と共に、緑白い極太の光線が、空の座っていたコンテナに向けて一直線に放たれた。

光線が直撃した瞬間、分厚い鋼鉄製のコンテナは、爆発すら起こさずに『蒸発』した。

ドロドロに溶けた鉄の雨が降り注ぎ、凄まじい熱波が周囲の酸素を奪い去る。

だが、麦野の光線がコンテナを貫くコンマ数秒前。

空の姿は、すでにそこにはなかった。

『エミュレート——空間転移(テレポート)』

シュッ、と大気がわずかにズレる音と共に、空は数十メートル離れた別のコンテナの上へと音もなく転移していた。

十一次元上の演算を必要とする空間移動能力。それを『疑似発現』の空洞に強引にロードしたことで、空の脳の奥底にチリッとした痛みが走る。

 

(……相変わらず、話の通じない狂犬だな)

 

空は、熱波で前髪を揺らしながら、冷ややかにため息をついた。

麦野の『原子崩し』は確かに脅威だ。しかし、彼女の攻撃は直線的で、発射前の予備動作や照準のベクトルが分かりやすすぎる。拡散支援半導体(シリコンバーン)を用いた全方位の乱反射攻撃などもあるが、空の多重並列演算をもってすれば、光線が放たれる前に安全圏へ転移することは容易だった。

できる戦闘の幅、応用力、そして暗部としての『対人戦』の経験値という観点で見れば、空は自分がこの第四位に負ける気はさらさらなかった。

だが、ここで同じレベル5同士が本気でやり合えば、この第十学区のコンテナヤードはおろか、周辺の物流施設ごと灰燼に帰すことになる。

 

(俺の仕事は、街の日常を守ることだ。暗部の馬鹿どもと同じ土俵で怪獣大決戦をやるつもりはない)

 

今日はあくまで、各組織に「これ以上の抗争の拡大を許さない」という釘を刺し、暴走を牽制しに来ただけだ。

「じゃあな、第四位。大人しくお家で休んでろ」

空はコートの裏地から、タングステン内蔵のビー玉を数個取り出し、指の間に挟んだ。

『エミュレート——摩擦ゼロ、及び運動エネルギー』

親指で弾き出された不可視の弾丸が、空気を切り裂いて麦野の足元へ殺到する。

「なッ——!?」

ビー玉は麦野自身を狙わず、彼女が立っていたコンテナの支柱と、その周囲の足場を正確に粉砕した。

ガシャァァァンッ!!

巨大なコンテナがバランスを崩して傾き、足場を失った麦野は体勢を大きく崩して滑り落ちそうになる。しかし、彼女は元々の身体能力の高さで強引に空中で身を捻り、無傷で着地してのけた。

「このッ……逃げんじゃねェェェ!!」

「麦野! 追っても意味は超無いです。あれだけの手回しができる相手です、ここは一旦引きましょう」

「そうだよ麦野! ビビって逃げる相手を深追いするほど、私たちも暇じゃ無いってわけよ」

血走った目で必死に光球を展開しようとする麦野を、絹旗とフレンダが両側から引き留める。

彼女たちの会話を尻目に、空は麦野の追撃の射線から完全に外れ、夜の闇へと身を翻した。

 

♢

 

コンテナヤードの入り組んだ迷路のような裏路地。

麦野のヒステリックな叫び声が遠ざかっていくのを確認しながら、空は『空間移動』による脳への過負荷で生じた鈍い頭痛を堪え、コートの襟を立てて暗がりを歩いていた。

その逃走の道中。

不意に、巨大なコンテナの陰から、ガタガタと震える息遣いが聞こえてきた。

空が気配を殺して視線を向けると、そこには、不良のようなだらしないジャージ姿の少年が、膝を抱えるようにして縮こまっていた。

その目には、先ほどのレベル5同士の衝突の余波に対する、明らかな恐怖と絶望が浮かんでいる。

暗部組織『アイテム』の下働きとして、現場の後処理や雑用、あるいは弾除けとして使い捨てられる下部組織の末端。浜面仕上だった。

「うわッ!?」

不意に闇の中から現れた空の姿に気づき、浜面は悲鳴を上げて尻餅をついた。

「な、なんだお前! こっちに来んなッ!」

必死に後ずさる浜面の顔を見て、空の虚ろな瞳にわずかな驚きが走った。

 

(……こいつ。第十学区で御坂美琴の母親を襲撃し、上条に殴り飛ばされていた、元武装無能力者集団(スキルアウト)のボスか)

 

空は、彼の顔にはっきりと見覚えがあった。

だが、同時に強烈な疑問が湧き上がる。

なぜ、能力など一切持たないただの無能力者(レベル0)が、第四位というバケモノが暴れ回る暗部の最前線にいるのか?

アイテムの下部組織に吸収されたのだとしても、レベル5が本気で殺し合うような戦闘の場において、無能力者など文字通り「チリ一つ」の戦力にもならない。息をするように殺され、理不尽な流れ弾に巻き込まれて死ぬだけの存在だ。

 

(……無能力者だぞ?)

 

空は、震える浜面を無表情で見下ろした。

だが、その不良少年の瞳の奥にあるものを覗き込んだ瞬間、空はハッと息を呑んだ。

恐怖に顔を引き攣らせ、ガタガタと震えながらも。

浜面の瞳の奥には、どんな泥水を啜ってでも生き延びようとする『生への強烈な執着』という泥臭いまでの必死さが宿っていたのだ。

その瞳は、空によく知る二人の人物を連想させた。

どんな理不尽な暴力の前に立たされても、右の拳一つで誰かの日常を守るために傷だらけで立ち向かう、無二の親友——上条当麻。

そして。

かつて燃え盛る炎の中で、何の力も持たない無力な子供でありながら、ただ生きたいと願い、絶望の中でもがき苦しんでいた、過去の自分自身の姿。

「……おい。お前、能力者じゃないな」

空の口から、冷徹な掃除屋としての声ではなく、どこか人間らしい、静かな声が漏れた。

「だ、だからなんだよ! 無能力者だからってバカにしてんのかッ!」

浜面は、恐怖に震えながらも、自らを鼓舞するように虚勢を張って怒鳴り返した。

空は、その情けなくも必死な抵抗に、微かに目を細めた。

暗部という世界は、一度足を踏み入れれば二度と抜け出せない底なし沼だ。空のように、己の自我を焼き切って器を空洞にし、血反吐を吐きながらバケモノに適応するしかない地獄。

こんな、ただの等身大の無能力者が生き残れるほど、甘い世界ではない。

「こんな暗部の抗争に深入りするな。命がいくつあっても足りないぞ」

空は、持っていた極甘の缶コーヒーの空き缶を、足元のゴミ箱に正確に投げ入れた。

カラコンッ、という乾いた音が夜のヤードに響く。

そして、闇に溶け込む直前、背中越しにポツリと言い残した。

「……死ぬなよ」

それは、暗部で手を血に染める化け物から、無力な少年へ向けられた、不器用で、ある種の祈りにも似た忠告だった。

「え……?」

浜面が呆然と声を漏らした時には、空の姿はすでに空間移動によって跡形もなく消え去っていた。

潮風が吹き抜けるコンテナヤードの陰。

浜面仕上は、突如現れて忠告を残していった、得体の知れない黒衣の第8位の背中を、ただへたり込んだまま呆然と見送るしかなかった。

学園都市の深い闇の中で、化け物と無力な少年が交差した、ほんの一瞬の出来事。

だが、この無能力者の少年が、やがてこの暗部の大戦において、空をも上回る、アレイスターすら予測し得ない『巨大なイレギュラー』として盤面をひっくり返すことになろうとは、この時の瀬川空には知る由もなかった。

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