とある科学の擬似発現   作:ついついつい

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第七十六話:未元物質と戦端の予感(ダークマター・アンド・プレリュード)

第十学区での『アイテム』とのヒリヒリとした遭遇をやり過ごし、追撃を躱した瀬川空は、次なる不穏な動きの震源地を潰すべく、第三学区の地下深くへと向かっていた。

暗部専用端末から傍受した断片的な通信ログによれば、統括理事会に明確な反旗を翻そうと暗躍する組織『スクール』が、第三学区に隠匿された外部機関の地下研究施設を強襲しているという。

彼らの目的は定かではない。何か巨大な兵器か、あるいは学園都市の最高機密にアクセスするための重要なキーとなる物資の強奪か。

いずれにせよ、ここで『スクール』に好き勝手をさせれば、抗争の規模は街の表側——一般人の暮らす日常の領域にまで容易く燃え広がる。

「……随分と、派手にやってくれているな」

地下数十メートルに位置するその機密施設の広間に、空が空間転移(テレポート)で音もなく降り立った時。

そこはすでに、凄惨という言葉すら生温かい、異様な蹂躙の痕跡に包まれていた。

施設を防衛していたはずの最新鋭の警備用パワードスーツ群が、まるで見えない巨大な顎に噛み砕かれたかのように、無惨なスクラップの山と化している。分厚いチタン合金の装甲は紙屑のように引き裂かれ、漏れ出したオイルと冷却液が、倒れ伏した研究員たちの血と混ざり合ってどす黒い海を作っていた。

「……あ、あァ……ッ」

瓦礫の陰で、まだ息のあったパワードスーツのパイロットが、血反吐を吐きながら這いずろうとしていた。

だが、その頭上から、冷酷な宣告が降ってくる。

「無駄だよ。念動力の出力計算をミスするはずがない。君の頸椎はすでに致命的に損傷している」

暗がりから歩み出てきたのは、頭部に奇妙なリング状のデバイスを装着した少年——『スクール』の構成員、誉望万化だった。

彼の能力は、リング型のサイボーグパーツによって極限まで精密化・拡張された念動力だ。見えない力がパイロットの身体をふわりと持ち上げ、次の瞬間、ボロ雑巾を絞るように無慈悲にねじ切った。

グチャリ、という湿った音が広間に響き、パイロットは完全に沈黙する。

「あーあ。少しは加減ってものを覚えてくれないかしら?血飛沫がドレスに跳ねたらどうしてくれんの?」

その後方から、ひどく退屈そうな、舌足らずな少女の声が続いた。

豪奢なドレスを身に纏い、手で口元を隠した小柄な少女。同じく『スクール』のメンバーである、獄彩海美だ。

彼女の持つ心理定規(メジャーハート)は、対象との心理的な距離を自在に操作するという極めて特異な精神干渉系能力。一部異常者を除いて、敵地のど真ん中にいても無傷で帰ってくることすら可能にできる。

誉望万化と獄彩海美。学園都市の闇に潜む、一筋縄ではいかない手練れたち。

だが、空の研ぎ澄まされた警戒のベクトルは、彼ら二人ではなく、そのさらに奥——スクラップの山の中心に立つ『存在』へと完全に固定されていた。

「遅いな。……雑魚の処理にいつまで時間をかけてる」

破壊されたコンソールの残骸の上に、一人の少年が立っていた。

色素の薄い金髪。ホストのような仕立ての良さそうなスーツ。

そして何より、彼の背中から生え揃う、この無機質な地下施設にはあまりにも不釣り合いな、神々しさすら感じさせる『六枚の純白の翼』。

「……第2位、垣根帝督」

空が、コートのポケットに手を入れたまま、感情を殺した冷たい声でその名を呼んだ。

垣根は、優雅な仕草で振り返り、その傲慢な瞳で空を値踏みするように見下ろした。

「ああ? 誰かと思えば、最近暗部でチョロチョロと嗅ぎ回ってる、第8位のパクリ野郎か。……アレイスターの飼い犬が、俺たちの邪魔をしに来たのか?」

垣根の背中の六枚の翼が、意思を持っているかのようにフワリと動いた。

ただ羽ばたいただけで、周囲の空間が不気味に歪む。

未元物質(ダークマター)。

この世に存在しない、全く新しい素粒子をゼロから創り出し、物理法則を完全に書き換える、神の領域の能力。

学園都市の科学が定義するあらゆる法則から外れたその力は、他者の能力や法則を読み取って模倣する空の擬似発現(エミュレーター)にとって、最も相性が悪く、最も危険な天敵とも言える存在だった。

「お前らが何を企んで、何を盗み出そうとしているのかは知らない。だが、一般人を巻き込むような抗争を地上に持ち出すなよ」

空は、缶コーヒーの代わりにポケットの中でビー玉を転がしながら、静かな、しかし確かな敵意を込めて忠告を飛ばした。

「裏の泥沼の問題は、裏の泥沼の中で全部解決すべきだ。これ以上、俺の日常の床を勝手に踏み抜こうとするなら……俺にも考えがある」

空の言葉を聞いた垣根は、一瞬キョトンとした顔をした後。

「くっ……あはははははははッ!!」

腹の底から湧き上がるような、嘲りの大笑いを地下空間に響かせた。

誉望と獄彩も、垣根の笑いにつられるように、哀れなピエロを見るような目で空を見つめている。

「傑作だな。アレイスターにいいように使われてるだけのゴミ処理係が、いっぱしの番犬気取りかよ。日常? 俺の邪魔をしない? 腹が痛ェよ」

垣根の笑いがピタリと止まり、その瞳に絶対零度の殺意が宿った。

「もし俺が一般人を巻き込んで、この街を火の海にしたらどうすんだ? お前が止めるって言うのか? 誰かの残りカスを漁るしか能がない、空っぽの清掃員(エラーチェッカー)風情が」

シュッ!

警告も、予備動作も一切なかった。

垣根の背中の純白の翼が一枚、ただ軽く振るわれただけ。

それだけで、この世の物理法則を完全に無視した『未知の光の衝撃波』が、空間そのものを削り取るように空へと殺到した。

 

(——速いッ!!)

 

空の思考が焼き切れるような速度で回転する。

『エミュレートッ!!』

空は瞬時に、コートの裏地から放ったトランプを基点に、物理的な質量を防ぐ念動力の壁と、エネルギーを逸らす流体操作の防壁を三重に構築した。

だが。

「無駄だっつってんだろ。俺の未元物質(ダークマター)に常識は通用しねぇんだよ」

垣根の嘲笑通り、空が構築した科学法則に基づく絶対の防壁は、未知の光の波に触れた瞬間、まるで水に溶けるティッシュペーパーのように何の抵抗もなく透過され、無効化された。

回折、屈折、反射。あらゆる物理的アプローチが通用しない。

未知のベクトルが、空の心臓を一直線に貫こうと迫る。

 

(ふざけるな……! 貫かれるわけには、いかないッ!)

 

空は、己の空洞化された演算領域の『安全装置』を完全に破壊した。

迫り来る未元物質の異常な波長、この世に存在しないはずの法則を、その場で強引に解析し、己の脳内へ無理やりロードして『超劣化コピー』を生成する。

人間の脳で処理できるはずのない情報。未知なる神の素粒子の演算。

「ガ、アァァァァァァァッ!!!」

空の脳髄で、何百本という毛細血管が一斉に弾け飛ぶ音がした。

両目から真っ赤な血の涙が噴き出し、鼻腔と鼓膜を破ってどす黒い血が飛び散る。

それでも空は、バックグラウンドの『肉体再生』を限界突破させ、焼き切れる脳細胞を強制的に接着しながら、未元物質の超劣化コピーを自身の『空間断裂』の演算に混ぜ込み、迫り来る衝撃波へ正面からぶつけた。

未知と未知の、不完全な激突。

ズガァァァァァァァァァンッ!!!

相殺しきれなかった莫大なエネルギーが爆発し、空の身体は木の葉のように吹き飛ばされ、背後の分厚いコンクリート壁に深々と叩きつけられた。

壁がクレーターのように粉砕され、土煙が舞い上がる。

「ゲハッ……、ごほッ、はぁっ、はぁっ……!」

瓦礫の中から這い出た空は、口からおびただしい量の血反吐を吐き出しながら、辛うじて両足で立ち上がった。

ロングコートはボロボロに引き裂かれ、全身の骨が軋んでいる。だが、心臓は貫かれておらず、致命傷はギリギリで避けていた。

「……ほう」

土煙が晴れた先で、垣根帝督がわずかに目を見開いていた。

「俺の未元物質の余波を、その場でデタラメな模倣をして相殺したか。……なるほど、アレイスターがイレギュラーとして手元に置いておくわけだ」

垣根は空を「他人の残りカスを漁るだけのゴミ」と見下していたが、この世の理から外れた自らの攻撃を初見で防ぎ切ったその異常な対応力と、自傷行為にも等しい覚悟だけは、僅かに認めたようだった。

「とはいえ、そんな無理をして、あと何秒もつかな? 次は脳味噌ごと跡形もなく消し飛ばしてやるよ」

垣根の背中の六枚の翼が、再び禍々しい輝きを放ち始める。

誉望は頭のリングを外し、獄彩は下部組織の手配を始めるなど、空と垣根の戦闘の結末など気にもかけていない。

空は、震える手でポケットからチタン合金のペンを引き抜き、限界を迎えている脳に再び致死量の演算を叩き込もうとした。

だが、垣根はふと動きを止め、忌々しげに舌打ちをした。

「……いや、やめだ。ここでテメェみたいな下っ端と遊んでる暇はねェ。今日の目的は達成したしな」

垣根は、ポケットからUSBファイルを取り出し、誉望に投げ渡した。垣根がなんとしてでも手にしたかった何らかの『情報』だ。

「だがな、第八位。お前がどれだけ裏でコソコソと火消しに回って、薄っぺらい日常とやらを守ろうが、もう遅い」

垣根は、純白の翼を背負ったまま、嘲るような冷たい視線を空に投げ下ろした。

「俺たち暗部の鬱憤は、とうに限界点を超えてるんだよ。……チッ、何がムカつくって、第一位はおろか、第八位のテメェの方が第二位の俺よりもアレイスターとの直接交渉権に近い位置にいるってのが気に食わねェんだよ」

垣根の真の目的。

それは、統括理事長アレイスター=クロウリーとの直接交渉権を得ること。

その狂気的な執着が、垣根帝督を突き動かしている原動力だった。

「安心しろよ、清掃員。一般人に手を出すつもりは、今のところはねェよ。……今のところは(・・・・・・)、な」

垣根の翼が眩い光の粒子となって空間に溶け、彼は誉望と獄彩を引き連れて、そのまま地下通路のさらに奥へと歩き出していった。

「バイバイ、ボロボロのお兄さん。精々、血の海で溺れないようにね」

獄彩の舌足らずな声が地下に響き、やがて彼らの気配は完全に消失した。

「……ッ」

空は、張り詰めていた緊張の糸が切れ、その場に膝をついた。

血で滑る手からチタンのペンが零れ落ち、アスファルトに乾いた音を立てる。

バックグラウンドの『肉体再生』を全開にし、千切れた脳血管と内臓のダメージを必死に修復していく。

 

(……強い。バケモノだ)

 

空は荒い息を吐きながら、冷や汗にまみれた前髪を掻き上げた。

一口にレベル5といえど、第一位と第二位は、単純な出力と応用力、そして能力の異質さにおいて、他のレベル5とは文字通り『次元が違う』。

今の空が命を懸けて多重演算を回したところで、垣根帝督を単独で殺し切ることは不可能だ。あのまま戦闘が続いていれば、間違いなく自分がここで肉塊に変えられていた。

そして、垣根が残した宣告は、間違いなく真実だ。

暗部組織の鬱憤は限界点に達しており、互いの首を狙い合う大規模な戦争——『バトルロワイヤル』が本格化するのは、もう目前に迫っている。

あの垣根帝督が、第一位の首を狙い、アレイスターの計画をぶち壊すために動き出せば、その戦火は間違いなく街の表側へと燃え広がる。

 

(ふざけるな……。俺の日常に、あいつらの平和な舞台に、指一本触れさせるかよ)

 

空の空洞化された胸の奥底で、重く、黒い決意の炎が燃え上がる。

暗部には、学園都市の第一位、第二位、第四位までが実働部隊として属している。さらには今回動くかは未知数だが、『暗部の天敵』である第六位が介入する可能性もある。これほどの一国の軍隊クラスの化け物たちが全面対決を行えば、暗部に片足どころか全身をどっぷりと浸からせている空と、彼が命懸けで守り抜いてきた『日常』にも確実に被害が及ぶ。

自分一人が血を流して済む段階は、すでに終わったのだ。

盤面全体を見渡し、先手を打ってこの街の被害を最小限に抑え込むための『立ち回り』が必要になる。

「……土御門と、話しておくか」

空は、血で汚れた口元を手の甲で拭い、ゆっくりと立ち上がった。

暗部組織『グループ』に属しながらも、この街で唯一と言っていい、裏の事情を共有できる気心の知れた親友の顔が思い浮かぶ。あいつなら、すでにこの暗部大戦の構図を読み切り、独自の計算を立てているはずだ。

ボロボロに引き裂かれた黒いコートを羽織り直し、空は誰もいなくなった凄惨な地下施設を後にする。

馬鹿馬鹿しくも愛おしい日常を、泥にまみれた手で抱きしめるために。

掃除屋・瀬川空は、迫り来る血塗られた暗部大戦の嵐に向かって、決意の歩みを進めるのであった。

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