十月十日、午後。
昨日の凄惨な嵐が嘘のように、学園都市第七学区の空は穏やかに晴れ渡り、秋の柔らかな日差しが窓ガラス越しに白いレースのカーテンを透かしていた。
街の喧騒から少し離れた区画に位置する、カエル顔の優秀な医師が院長を務める大型病院。
その個室病棟の一室で、頭から胴体、果ては両腕に至るまで白い包帯でミイラのようにぐるぐる巻きにされた瀬川空は、リクライニングされたベッドの上で、深いため息を天井に向けて吐き出していた。
「君、本当にいつか死ぬよ? 全身の毛細血管がブチブチに切れてるし、筋肉の断裂もひどい。おまけに内臓の微小出血に、骨のひび割れが数十箇所……普通ならショック死していてもおかしくない数値だ。今回は君の便利な『再生能力』とやらでも誤魔化しきれないダメージだよ」
今朝の回診の際、カルテをペラペラとめくりながら、カエル顔の医師に心底呆れ返ったような顔で告げられた宣告が、未だ耳の奥に残っている。
学園都市第一位・一方通行と、第二位・垣根帝督。
二人の怪獣が一切のブレーキを捨ててぶつかり合った極限の死闘。その余波を『絶対防衛空間』という名の見えない檻で無理やり封じ込め続けた代償は、空の肉体を文字通り限界の向こう側まで叩き落としていた。
バックグラウンドで回し続けている『肉体再生』は、もはや擦り切れたバッテリーのように出力が落ち、呼吸をひとつするだけで肋骨の奥がミシミシと軋みを上げる。
(……とはいえ、日常は守り抜けたんだ。安い授業料だと思わなきゃな)
空は包帯の巻かれた重たい腕をわずかに動かし、サイドテーブルに置かれていた極甘の缶コーヒーへ手を伸ばそうとした。
だが、指先がアルミ缶に触れるか触れないかというその瞬間。
コンコン、ガララッ!
ノックの余韻すら待たずに、病室の引き戸が遠慮のない勢いで開け放たれた。
「失礼するわ! ……ちょっと瀬川!いきなり入院しただなんて小萌先生から聞いて本当に驚いたわよ! 一体全体、どういうことなの!?」
病室の静寂を景気よく蹴散らして踏み込んできたのは、クラスの鉄壁の委員長・吹寄制理だった。
眉間にはいつものように深い青筋が刻まれ、手にはなぜか栄養ドリンクの詰まった紙袋が握られている。だが、病室のベッドで包帯だらけになっている空の姿を視界に捉えた瞬間、その吊り上がった眉尻がふっと下がり、いつもの怒鳴り声のトーンがわずかに優しげな色を帯びた。
「……ちょっと、あんた。冗談でしょ? その包帯の量、ギャグ漫画じゃないんだから」
「あはは……。よう、吹寄さん。わざわざ来てくれたんだ」
空が引き攣った笑顔を向けると、吹寄の背後から、待ってましたとばかりに見慣れた悪友たちがぞろぞろと顔を覗かせた。
「よー瀬川! 無事か!? いや、全然無事に見えねぇな! おいおいおい、能力者同士の喧嘩に巻き込まれるなんて、上条さん並みに不幸じゃねぇかよ!」
ツンツン頭を揺らしながら、本気で心配そうな、それでいて同類を見つけたかのような情けない顔でベッドに駆け寄ってくる上条当麻。
「いやいやカミやん、見当違いも甚だしいで! 瀬川はん! 入院生活言うたら、若くて可愛いナースさんとの禁断の白衣のラブコメフラグやないか! 献身的な看病からの『熱、測りますね……あ、でも瀬川さんのお顔の方が熱いみたい』的な展開が待っとるんやろ!? 羨ましすぎるで! ボクとベッドを代わってくれ!」
青髪ピアスが両手を天に掲げ、病室の真ん中で熱弁を振るい始める。
バゴォッ!!
「入院患者の前でやかましいこと言ってんじゃないわよこのド変態!!」
吹寄の容赦のない手刀が青髪の側頭部にクリーンヒットし、青髪は「あべしっ!」と叫びながら床を転がった。病室だというのに全く容赦がない。
「にゃー。カミやんの不幸体質が感染したならお祓いが必要だぜよ。それにしても、普段は要領よく立ち回る瀬川が、こんな大怪我して病院送りになるなんて珍しいにゃー」
サングラスの奥で、全てを察しているような冷徹な光をほんの一瞬だけ走らせつつ、土御門元春がいつものアロハシャツの襟元を揺らしてニヤリと笑った。昨夜の少年院での共闘、そして第一位との修羅場を共に潜り抜けた男の、悪戯っぽい視線だ。
「……お見舞い。早く良くなって」
騒ぎ立てる男子三人を冷ややかな目で見送りながら、巫女服を着た無表情な転校生・姫神秋沙が静かに歩み寄り、ファーストフード店のハンバーガーの包みをサイドテーブルにコトッと置いた。
「ありがとう、姫神さん。……吹寄さんも、上条たちも、心配かけてごめんな。ちょっと駅前の自販機でジュース買おうとしてボケっとしてたらさ、チンピラ能力者同士がド派手な喧嘩を始めちゃって、瓦礫の下敷きになりかけたんだよ」
空は、目の下に濃いクマを刻んだまま、いつもの虚ろさを孕んだニコニコとした笑顔で、事前に用意していた嘘の言い訳を口にした。
「
吹寄は怪訝そうな顔を浮かべ、じっと空の包帯を見つめる。
学園都市の治安の悪さは今に始まったことではないが、常盤台中学の特別指導員すら務める空がここまで一方的に負傷するなど、常識的には考えにくい。
だが、痛みに顔を歪めながらも笑っている空を見て、吹寄はそれ以上の追及をぐっと飲み込んだ。
「……まあいいわ。無事だったんだから、今は余計なこと考えずに寝てなさい。ほら、これ小萌先生から預かってきたプリント。授業の遅れは許さないって先生張り切ってたから、退院したら覚悟することね」
「うげっ、それは怪我より効くな……」
「ははは! ざまあみろ瀬川、これで俺と一緒に補習を受ける仲間が増えたぜ!」
「カミやんと一緒にされたら瀬川はんの知能指数が下がるやろが!」
「青髪、てめぇ一発殴らせろ!」
狭い病室の中で、いつものくだらない口論が始まる。
吹寄が割って入り、上条が悲鳴を上げ、土御門が煽り、姫神がそれを淡々と眺めている。
自分が昨夜、内臓を破裂させ、脳を焼き切りながら守り抜いた『表の日常』。
その眩しい光景が、今、手を伸ばせば触れられる距離でやかましく騒いでいる。
その事実だけで、全身の骨が軋むような激痛も、嘘のように和らいでいく気がした。
空っぽの器に、温かい温度が満ちていく。
「……じゃあな、瀬川! あんまり無理すんなよ!」
「次回来る時は、とびきりセクシーなナースの裏コスプレ写真集を持ってくるで!」
「持ってこなくていいからね青髪」
「安静にしてなさいよ、瀬川!」
ひとしきり騒ぎ散らした後、吹寄に首根っこを掴まれた上条たちが、嵐のように病室を去っていった。
バタン、と扉が閉まる。
病室に、再び柔らかな午後の静寂が戻ってきた。
「……ふぅ。元気だな、あいつらは」
空は枕に頭を沈め、小さく息を吐いた。
体の芯にはまだ鉛のような疲労感が残っているが、胸の奥は不思議と軽かった。
それから十分ほど経った頃だろうか。
再び、今度は先ほどとは対照的な、控えめで上品なノックの音が扉を叩いた。
トントントン。
「……入りますわよ」
静かに開いた扉の隙間から、見覚えのある制服に身を包んだ四人の少女たちが顔を覗かせた。
常盤台中学の夏服を着た御坂美琴と白井黒子。
そして、柵川中学校のセーラー服を着た初春飾利と佐天涙子だ。
「瀬川さん……! 大丈夫ですか!?」
入ってくるなり、頭に花飾りを乗せた初春が、今にも泣き出しそうな顔でベッド脇へと駆け寄ってきた。その目元は赤く腫れており、昨夜の恐怖と、目の前で包帯まみれになっている恩人の姿に、激しく動揺しているのが一目でわかった。
「初春さん。うん、見ての通り生きてるよ」
空は痛む体を少しだけ起こし、努めて穏やかな声で微笑みかけた。
「あの……昨日は、私を助けてくれて……本当に、本当にありがとうございました……! でも、私を庇ったせいで、瀬川さんがこんなにボロボロになってしまうなんて……っ」
ぽろぽろと涙をこぼし、深々と頭を下げる初春。
「たまたま通りかかっただけだよ。それに、俺は頑丈だから大丈夫。初春さんが無事で、本当に良かった」
空は包帯の巻かれた手を伸ばし、初春の頭をポンポンと軽く撫でた。
彼女のような心優しい少女が、暗部の理不尽な抗争に巻き込まれ、命を落とすような結末だけは、絶対に許してはならなかった。自分が血反吐を吐いた意味は、この少女の無事な姿だけで十二分にお釣りが来る。
「もう、本当に心配したんですよ! 初春が詰所から電話かけてきて、あんなに取り乱して大泣きしたの、私久しぶりに見たんですから!」
佐天涙子が、両手に持ったフルーツの籠をテーブルに置きながら、少し怒ったように、けれど心底安堵した表情で口を尖らせた。
「あの、聞いていいのか分からないんですけど……昨日の夜、一体何があったんですか? 私、ニュースを見ても『高位能力者による喧嘩とそれに起因するガス爆発』としか報道されてなくて、ほとんど何にも知らなくて……」
佐天の瞳には、親友を救ってくれた恩人への心配が半分、そして都市伝説や非日常を好む彼女らしい純粋な好奇心が半分、といった色が浮かんでいた。
「あれ? 初春さんや白井さんから聞かなかったの?」
空が首を傾げると、腕を組んで壁際に立っていた白井黒子が、ひどく不満げに鼻を鳴らした。
「防犯カメラの映像から事件の詳細を洗おうとしたのですが、警備員の上層部から『子供が見るようなものじゃない』と一蹴され、アクセスコードを完全にロックされてしまいましたの。初春が暴漢に襲われたところを、通りかかった瀬川さんが身を挺して救い出してくださった……という以上の情報は、私たち風紀委員にすら一切開示されておりませんのよ」
黒子はジト目を空に向け、探るように眉をひそめる。
「ガス爆発の規模にしては、現場周辺のアスファルトの抉れ方や建造物の切断面が不自然極まりありませんでしたわ。……瀬川さん、あなた、一体何と戦いましたの?」
流石は風紀委員の精鋭というべき鋭い洞察力だった。
しかし、あの戦いの本質は、統括理事会直属の暗部組織同士が繰り広げた、市街地を巻き込む皆殺しのバトルロイヤルだ。第二位の『未元物質』と、第一位の『暴走』。
当然、学園都市の上層部によって、完璧な情報統制と隠蔽工作が敷かれている。
「えっと……どこまで言っていいのかな? 警備員が情報統制してるってことは、俺が勝手にペラペラ喋っちゃうと、後で偉い人たちに怒られちゃいそうだしなぁ……」
空は困ったようにボサボサの頭を掻いた。
暗部が直結する話題である以上、適当な嘘で誤魔化すのも限界がある。
美琴や黒子だけなら、ある程度は裏の事情を察してくれるかもしれないが、一般の学生である佐天や初春がいるこの場で、血生臭い暗部の名前を出すわけにはいかない。
空の窮地を察したのか。
それまで窓際で黙って腕を組み、空の包帯をじっと見つめていた御坂美琴が、スッと前に出た。
「そうね。警備員が箝口令を敷いてるなら、あんまり怪我人を問い詰めて困らせちゃ悪いわよ。初春が無事で、瀬川さんも生きてるんだから、今はそれで十分じゃない」
美琴の言葉に、佐天と黒子は顔を見合わせ、「まあ、御坂さんがそう言うなら……」と引き下がった。
美琴は妹達の一件を通して、空が学園都市の深い闇と関わっていることは知ってはいる。
目の前の少年が、誰にも言えない地獄を一人で背負い、どれほどの覚悟でその傷を負ったのか。美琴には痛いほどに察せられていた。
「……さてと! 重苦しい話はおしまい! せっかくお見舞いに来たんだから、何か食べましょ。そうだ、リンゴ食べる? 私が剥いてあげましょうか?」
美琴は佐天が持ってきたフルーツ籠から真っ赤なリンゴを一つ手に取り、わざとらしく明るい声を張り上げた。完璧な救い船だった。
「お、本当? じゃあ、ありがたく頂こうかな」
空が苦笑しながら頷くと、美琴はサイドテーブルの果物ナイフを手に取り、慣れた手つきでリンゴの皮を剥き始めた。
「すごいな。常盤台ではそんなことも教えているのか」
空は何と無しに話す。
その瞬間。
黒子のツインテールが、バチバチと怒りのオーラを帯びて逆立った。
「ちょ、ちょっと待ちなさいなお姉様ァァァッ!!」
黒子がベッドのシーツを掴んで激しく身を乗り出す。
「お姉様がお手ずから皮をお剥きになったリンゴを、殿方が口にするだなんて、百年、いえ一万年早すぎますのよォッ!! 食べるならこの黒子が! この白井黒子が、一滴の果汁も残さず貪り尽くすべきですの!!」
「アンタは黙ってなさい黒子! ほら、変な声を出すんじゃないの!」
美琴が顔を真っ赤にしてナイフを振り回し、黒子が「お姉様の刃物なら本望ですのー!」と奇声を上げながら抱きつこうとして躱される。
「あはは……白井さん、相変わらずですねぇ」
初春が涙を拭いながら苦笑し、佐天が「御坂さん、皮が途切れ途切れでデコボコになってますよー!」とゲラゲラ笑いながら茶々を入れる。
病室に満ちる、他愛のない笑い声。
先ほどの上条たちとはまた違う、柔らかで、少し甘酸っぱいような少女たちの時間。
やがて、ウサギの形に切り分けられたリンゴが、小皿に乗せられて空の前に差し出された。
「……はい、瀬川さん。黒子のせいでちょっと見た目はアレだけど、味は変わらないはずだから」
美琴が少し照れくさそうに視線を逸らしながら言う。
「ありがとう、御坂さん」
空は爪楊枝でリンゴを一切れ口に運んだ。
シャクッ、と心地よい音が鳴り、冷たく澄んだ果汁が口いっぱいに広がる。
甘くて、瑞々しくて、少しだけ酸っぱい。
昨夜、口の中にこびりついて離れなかった、あの鉄錆のような血の味を、綺麗に洗い流してくれるような味だった。
「……うまいよ」
空は、心底嬉しそうに目を細めて笑った。
自分は空っぽの器だ。
誰かの法則を真似て、誰かのために泥を被ることしかできない、壊れた人間。
それでも。
こうして誰かの日常を守り抜き、その結果として、この眩しい笑顔たちに囲まれている。
その瞬間の温もりだけは、どんな強力な魔術や能力をもってしても再現できない、空にとってのたった一つの『真実』だった。
夕暮れの光が病室を橙色に染め、少女たちの賑やかな声がどこまでも続いていく。
傷だらけの掃除屋は、甘いリンゴを噛み締めながら、自分が守り抜いた世界の美しさを、静かに胸の奥へと刻み込んでいた。