第八十三話:裏側の見舞い客と一本の電話(シャドウズ・アンド・コーラー)
夕暮れが病室の壁を茜色から群青へと静かに塗り替えていく。
窓の外では、街を照らす街灯や高層ビルの航空障害灯がぽつぽつと灯り始め、面会時間の終わりを告げる館内アナウンスが遠くのスピーカーから微かに響いていた。
上条たちクラスメイト、そして美琴や初春たちが去った病室には、心地よい静寂が戻っていた。サイドテーブルに残された林檎の皮の甘酸っぱい香りが、先ほどまでの賑やかな時間をそっと証明している。
ベッドの上で、空は包帯で固定された体をゆっくりと休ませながら、天井の無機質な模様をぼんやりと眺めていた。
(……静かだな)
だが、その平穏な空気は、微かなノックの音とともにあっけなく揺らいだ。
ガラリ、と引き戸が開く。
「じゃんじゃん。またお前は、一人でとんでもない無茶をしでかしたじゃんよ」
呆れと疲労が入り混じった独特の語尾とともに病室へ足を踏み入れてきたのは、緑のジャージを着た女性——黄泉川愛穂だった。
その腹部には分厚い医療用コルセットが巻かれており、足取りは普段の颯爽としたものとは程遠く、どこか重苦しい。昨夜、第二位・垣根帝督の未元物質によって下腹部を貫かれた重傷は、いかにカエル顔の医師の手術を受けたとはいえ、そう簡単に完治するはずもなかった。
「黄泉川先生……」
空はベッドの上で姿勢を正そうと身じろぎした。
「……すいません。色々と、ご心配をおかけしました」
「謝るくらいなら、最初からそんな無茶をするなじゃんよ」
黄泉川はパイプ椅子を引き寄せ、ドカリと腰を下ろした。眉間には深い皺が刻まれている。
「昨日の現場……お前が血反吐を吐きながらあそこに立っていた理由、そして一方通行を巡るあの異様な状況。……正直、聞きたいことは山ほどあるじゃんよ」
彼女の視線が、空の全身を覆う痛々しい包帯の山へと注がれる。
「普通の高校生が巻き込まれるような規模の事件じゃなかった。お前がただの通りすがりの被害者じゃないことくらい、あたしだって馬鹿じゃないから勘づいてはいる。……だがな」
黄泉川は大きなため息を吐き出すと、身を乗り出して空のボサボサの頭を、乱暴に、しかしこれ以上ないほど温かい手のひらでぐしゃぐしゃと撫で回した。
「生徒が大人に言えない秘密を抱えてるからって、それを無理やりこじ開けるのは教師の仕事じゃないじゃんよ。……お前が誰かを守ろうとしてそこにいたこと、そしてあたしを背負って救護班まで運んでくれたこと。それだけで十分だ。だから、今は余計な詮索はしないでおく」
「先生……」
「ただな、これだけは覚えておけ。お前がどれだけ強かろうが、どれだけ特別な事情を抱えていようが、あたしから見ればただの『守るべきガキ』の一人なんだよ。一人で全部背負い込んで死にそうな顔をするな。大人を少しは頼れじゃんよ」
黄泉川はそう言い捨てると、持参したレジ袋から冷えたスポーツドリンクのペットボトルを数本、サイドテーブルの上に無造作に並べた。
「差し入れだ。しっかり水分取って、さっさと治して学校に来いよ。小萌もお前がいないと寂しがってるからな」
「……はい。ありがとうございます」
踵を返し、痛む腹部を庇いながら部屋を出ていく黄泉川の背中を見送りながら、空は口元を緩めた。
大人としての、あまりに不器用で、けれど真っ直ぐな愛情。
かつて木原虚のような狂気の大人にすべてを奪われ、自我を破壊された空にとって、黄泉川のような「本物の大人」が差し伸べてくれる温もりは、何よりも深く胸に染み渡った。
黄泉川の足音が遠ざかり、再び静けさが戻ったのも束の間。
今度は音もなく、気配すら殺した足取りで病室の扉がスッと開いた。
「…………」
姿を現したのは、常盤台中学の制服に身を包んだ一人の少女だった。
栗色のショートヘアに、美琴と寸分違わぬ顔立ち。だが、その頭上には特徴的なミリタリーゴーグルが装着されており、瞳には特有の無機質な光が宿っている。
「ミサカ10032号です。今日は15001号たちからのお使いで参上しました、とミサカは任務の開始を粛々と報告します」
「ああ、お前か。……わざわざすまないな。あいつらは、まだ表を自由に歩き回れる立場じゃないからな」
空はほっと息を吐き、表情を和らげた。
研究所に残してきた五人の妹達——イチ、ニナ、ミト、シノ、イツキ。彼女たちはアレイスターとの取引によって引き取った身であり、表向きは存在しないはずの『模造品』だ。何もない日に病院までの道のりを移動するのは少々不都合だ。
「問題ありません。ネットワークを通じて彼女たちの強い要請を受信したため、伝言を受け取りました。まずは15001号、イチからの伝言です。『ソラ、どうかご無事で。一刻も早いご帰還を心よりお待ちしております。研究所の防衛レベルは現在フェーズ4を維持中。留守は私たちにお任せください』とのことです、とミサカは報告します」
「そうか…心強い限りだ」
「続いてニナです。『マスター、今後このような事態が発生しないように特製サプリを作成中です。効果は絶大ですが、その分副作用は大きくなりそうです。もし飲みたくないなら早く治して帰ってきてください』だそうです、とミサカは調合していた薬品の名を思い出し、身震いをします」
「ハハ、ちょっと恐ろしいから早く帰るよ」
「ミトからは『ソラさん、お花をお届けしたかったのですが、どうやら無理そうですね。元気になったら、また一緒に美味しいお茶を飲みましょうね』と伝言を預かりました、とミサカは少しなりきって伝えてみます」
「そうか、代わりといっちゃ変だが、花を買って帰るよ」
「シノは『ボス、コートの強化が必要そうだったから新しくコートを作っておいたぞ。今度は首元にアラミド繊維を追加したから、次はもっと暴れても大丈夫だ。次は怪我をしないで帰ってきて欲しい』と言っておりました、とミサカはあまりに早い仕事ぶりに少し感動してみます」
「シノには最近ずっと作業させてしまってるな。今度は長持ちできるように頑張るよ」
「最後にイツキです。『お兄ちゃん! 早く帰ってきて! 新しいレースゲーム、お兄ちゃんが帰ってくるまで進めないで待ってるんだからね!』 、とあまりに自由さに本当に同じDNAを共有しているのかと呆れながら伝えます。 」
「そうだな。また俺が勝つさ」
空はミサカネットワークで繋がっているであろう5人の妹達のことを思いながら御坂妹と会話する。その中、空の視界が微かに滲んだ。
胸の奥に空いたはずの巨大な空洞に、彼女たちの体温が、言葉が、容赦なく流れ込んでくる。
自分は空っぽの器だ。誰かの日常を守るための、ただの代用品に過ぎない。
そうやって自らを呪い、傷つくことから逃げるために心を殺してきたはずだった。
だが、今の自分には、こんなにも不器用で、こんなにも温かい「家族」がいる。
血の繋がりなどない。作られたクローンと、心を空洞化させた掃除屋。世間から見れば歪な模造品の集まりかもしれない。けれど、ここに確かにある絆は、どんな本物の家族よりも深く、温かかった。
「……最高のお見舞いだな」
空は袖でそっと目頭を拭い、照れ隠しのように笑った。
「10032号。ありがとな」
「了解しました、とミサカは満足げに任務の完了を宣言します」
10032号はゴーグルの位置を直すと、任務を果たした兵士のようにピシッと敬礼し、気配を消して部屋を去っていった。
5人が待っている限り、自分は何度でも地獄から這い上がってこられる。
そう確信しながら、空はゆっくりとベッドに横たわった。
♢
夜十時。
完全な消灯時間を過ぎ、病院全体が深い静寂に包まれた頃。
シュン、と。
病室の空気が、不自然な気圧の変動とともにわずかに歪んだ。
「……ッ!」
空の眠りは瞬時に覚醒へと切り替わり、暗闇の中で瞳が見開かれた。
ベッドの脇、月明かりすら届かない部屋の隅に、音もなく三つの影が忽然と立ち現れていた。
「昼間ぶりだな、瀬川」
アロハシャツの上にジャンパーを羽織った金髪の少年——土御門元春が、サングラスをギラリと光らせて片手を挙げた。
その背後には、サラシ姿で懐中時計を弄ぶ結標淡希、そして海原光貴の顔をしたアステカの魔術師・エツァリの姿がある。
学園都市の暗部組織『グループ』の構成員たちだった。
「お前ら……」
空は深くため息をつき、頭を抱えた。
「病室に
「減るもんじゃあるまいし、堅いこと言いなさんな」
土御門は悪びれもせずに肩をすくめる。
だが、その軽薄な態度の裏で、結標が気まずそうに視線を泳がせながら口を開いた。
「……昨日は、色々と借りができたわね」
彼女は腕を組み、横を向いたまま、ボソリと呟くように言った。
「……礼くらいは言っておくわ」
エツァリもまた、穏やかな笑みを浮かべながら一歩前に出た。
「ええ。あなたの状況判断の速さ、そして何より他者の被害を最小限に抑える徹底した立ち回りは、我々も見習うべき点が多い。……今回は本当に助かりました、瀬川さん」
二人の言葉に、空は呆気にとられたように瞬きをし、それから小さく鼻を鳴らした。
「気にするなよ。俺はただ、あいつらが笑って暮らせる俺の『家』を守りたかっただけだ。……お前らだって、守りたいもののためにあの泥沼を這いずり回ってるんだろ?」
結標の脳裏には少年院にいる大切な仲間が、エツァリの胸中には御坂美琴という光が、そして土御門には義妹である舞夏という絶対的な日常の象徴がある。
「……フン、生意気なガキね」
結標は小さく悪態をついたが、その表情には先ほどまでの険しさはなかった。
「そうだな。誰もが何かのために必死だ」
土御門が話を切り替え、サングラスの奥の瞳を鋭く細めた。
部屋の温度が一段階下がる。彼らがわざわざ真夜中にリスクを冒してここまで足を運んだ、真の目的がそこにあった。
「さて、本題だ。ここに来たのは、ただの傷病兵の慰問じゃない。……瀬川、お前さんは『ドラゴン』という名に何か聞き覚えはあるか?」
「ドラゴン……?」
空は眉をひそめた。
「なんだそれ。ファンタジーRPGのモンスターか何かの話か?」
「……そうか」
土御門は短く吐き捨て、顎に手を当てた。
「統括理事長から直々に特命を受ける掃除屋たるお前さんなら、俺たちより深い機密に触れているかと思ったんだが……その様子じゃ、本当に初耳みたいだな」
「ああ、全く心当たりがないな。一体どこから出てきた単語だ?」
「昨日、『スクール』が強奪しようとし、俺たちが回収したピンセット。あれを使って
「ドラゴン、か……」
空はその名を口の中で転がした。
脳の奥で、嫌な予感がチリチリと音を立てる。
アレイスターはことあるごとに『プラン』のためと称して空を酷使してきた。にも関わらずその『プラン』の全容は掴めないままだった。
その『プラン』と、この『ドラゴン』という言葉の間に、何らかの繋がりがあるのではないか。そんな直感が、冷たい汗となって背中を伝った。
「分かった。俺の方でも、暗部の情報網や理事会の回線から何か引っかからないか探ってみる。……何か分かったら共有するよ」
「頼む。俺たちも、これ以上見えない首輪に締め殺されるのは御免だからな」
土御門が短く告げると、結標が懐中時計をカチリと鳴らした。
「じゃあね、瀬川。早く退院しなさいよ。……あんたがいないと、街の掃除が追いつかないんだから」
「手厚い励まし、どうも」
シュン、という微かな空気の破裂音とともに、三人の気配は完全に消え去った。
訪れる、深い静寂。
土御門たちが残していった『ドラゴン』という不吉な影。
(色んな奴が来てくれたな……)
空は自嘲気味に息を吐いた。
かつて施設で一人、名前すら持たずに番号で呼ばれていた頃には、想像もできなかった光景だ。
他者に愛着を持つことを恐れ、自らパーソナルリアリティを空洞化させて生きてきた。
けれど、気付けば自分の空っぽな器の中には、こんなにもたくさんの人間が、それぞれの色を持って入り込んできている。
(……守らなきゃな。何が来ようと、絶対に)
ゆっくりと瞳を閉じ、微睡みの中へと意識を委ねようとした——その時だった。
プルルルルッ、プルルルルッ……。
枕元に置かれていた、黒い暗部専用端末が無機質に震え、甲高い着信音を鳴り響かせた。
画面に表示された文字は——『非通知』。
「…………ッ」
空の全身の筋肉が一瞬で緊張した。
深夜のこの時間帯に、この端末に直接かけてくる相手など、世界に一人しか存在しない。
空は小さく舌打ちを鳴らし、痛む腕を伸ばして通話ボタンをスワイプした。
端末を耳に押し当てる。
「……何の用だ。俺は今、重傷を負って入院中の身なんだが」
スピーカーの向こう側から返ってきたのは、男とも女とも、老人とも子供ともつかない、機械的なノイズを帯びた冷酷な声だった。
『——ご苦労だった、第8位。昨日の市街地における君の結界展開、実に見事だったよ。都市インフラの物理的損壊率は、許容予測値の十パーセント未満に抑えられた』
学園都市統括理事長、アレイスター=クロウリー。
窓のないビルの奥底、生命維持装置の中で培養液に浮かぶ魔術師であり科学者。この街の絶対的な支配者だった。
「お褒めに預かり光栄だな。……で、本題は何だ? 掃除屋への労いの言葉をかけるためだけに、わざわざ直電を寄越したわけじゃないだろ」
『当然だ』
アレイスターの声には、微塵の感情の揺らぎもなかった。
『君の働きには感謝しているよ。おかげで盤面上の不要なノイズ——スクールやブロックといった不純物は綺麗に淘汰された。……だが、世界の時計は止まらない。盤面はすでに、次のフェーズへと移行したのだ』
「次のフェーズ……?」
空の瞳から、昼間の穏やかさが完全に抜け落ち、絶対零度の冷徹さが宿った。
『十字教だ』
アレイスターが紡いだその三文字が、病室の空気を凍りつかせた。
『ローマ正教、そしてそれに同調するロシア正教と、学園都市の対立は、もはや対話による修復が不可能な段階に達した。いまや極東から東欧に至る軍事的緊張は臨界点を突破しようとしている。……いわば第三次世界大戦の開戦は、もはや秒読みだ』
「世界大戦……だと?」
空の奥歯がギリリと鳴った。
学園都市の暗部という狭い箱庭での殺し合いなど、児戯に過ぎないと言わんばかりの、地球規模の破滅の跫音。
『やがて戦火は雪原へと広がり、光と闇の境界線は曖昧になる。……君には近いうち、再び「あの男」の背中を追ってもらうことになるだろう』
「あの男……上条のことか」
『彼がどこへ向かい、何を打ち破るのか。その舞台裏を支え、盤面が完全に崩壊するのを防ぐのが、君というエラーチェッカーに与えられた役割だ』
アレイスターは一方的に告げると、僅かな間を置いた。
『傷を癒やす時間は、そう長くは残されていない。……備えておくことだ、瀬川空』
「……上等だ」
空は低く、氷のような声で言い放った。
「相手がローマ正教だろうが、ロシアだろうが、お前の思い描くプランだろうが関係ない。世界がどれだけ狂おうと、俺が守るべき日常の席は、絶対に踏み荒らさせない」
『期待しているよ』
プツン、と通信が切断され、ツーツーという無機質な電子音だけが受話口から流れ続けた。
空は端末をベッドの上に放り出し、ゆっくりと起き上がった。
軋む肋骨の痛みを無視して、窓辺へと歩み寄る。
カーテンの隙間から見下ろす学園都市の夜景。
無数に瞬くネオンの光、整然と並ぶ風力発電の風車、そして、その光の届かない場所で蠢く無数の影。
自分が命を削って守り抜いた、この街の「平和な夜」。
だが、その平穏のすぐ隣には、世界を丸ごと焼き尽くすほどの巨大な戦争の炎が口を開けて待っている。
「……早く、退院しないとな」
空は独り言を呟き、ベッドサイドの黄色い花にそっと触れた。
手のひらに伝わる、確かな生命の温もり。
「俺の家族を。あいつらの日常を。……世界なんかの都合で、絶対に壊させてたまるか」
瀬川空の瞳に、暗く、熱く、何者にも消せない決意の炎が灯っていた。
暗部大戦の終わりは、さらなる絶望の始まりに過ぎない。
極寒の雪原で繰り広げられるであろう、命を賭した最後の戦いへ向けて。
空っぽの器を持つ少年は、静かに、誰にも知られることなく、己の牙を研ぎ澄まし始めた。