十月中旬。
大覇星祭の熱狂もすっかり遠のき、学園都市は秋の深まりとともに、冷たい木枯らしがビルの隙間を吹き抜ける季節を迎えていた。街を歩く学生たちの装いも、すっかり冬服のブレザーやセーターへと変わり、吐く息がわずかに白みを帯び始めている。
だが、第七学区の片隅に佇む、多層階の廃研究所。その居住スペースである広大なリビングは、設定温度高めの暖房と、五人の妹達の騒がしい熱気によって、ポカポカと南国のように温かい空間が保たれていた。
第一位と第二位の怪獣大決戦で全身の細胞がズタズタになり、カエル顔の医師から「普通ならショック死している」と呆れられながらも、驚異的な『肉体再生』のバックグラウンド処理によって数日で退院を果たした空は、今、ほんの一時の平穏な休日を謳歌していたのだ。
「お兄ちゃん! 早く早く! 次のステージ始まっちゃうよ! ボス戦は私一人じゃ回復アイテム足りないんだから! とイツキはコントローラーを握りしめて全力で急かします!」
テレビの前に陣取った末っ子のイツキが、画面のカウントダウンを見つめながらピョンピョンと跳ねている。
「ちょっと待ってくれ、今コーヒー淹れてるから。ミトの栽培した豆、やたらとお湯の温度に敏感なんだよ」
空はキッチンで、マグカップに極甘のコーヒーをなみなみと注ぎ、こぼさないように小走りでソファへと戻った。
「マスター。糖分の過剰摂取はインスリンの分泌異常を招き、最悪の場合……」
「ニナ、今日は休戦。俺の脳みそにはこの糖分が必要不可欠なんだよ」
平和な休日。焦げた卵焼きの匂い。家族の笑い声。
だが、その温かい空気を、空のズボンのポケットで鳴った暗部専用端末の無機質なバイブレーションが、鋭い刃のように切り裂いた。
ヴヴッ、ヴヴッ。
(……チッ。休日に限って、ロクな連絡が来ないな)
空はマグカップをテーブルに置き、妹達に背を向けるようにして画面を開いた。
その瞬間。
空の瞳から、それまで浮かべていた温かな光と「良き兄」としての穏やかな表情が一瞬にして消え失せ、絶対零度の『掃除屋』の貌へと切り替わった。
『——緊急通達。ローマ正教・神の右席「後方のアックア」。学園都市の外部警戒網を突破し、内部へ侵入の形跡あり。標的は第七学区在住、上条当麻の
さらに、その無機質なテキストファイルの末尾に添付されていた詳細データを開き、空は息を呑んだ。
そこには、イギリス清教側から提供されたと思われる、アックアの異常すぎるスペックが箇条書きにされていた。
『聖人』。
神の御子と似た身体的特徴を持ち、生身のままで超音速の機動と軍艦を一撃で両断するほどの破壊力を行使できる、人間を超越した突然変異。かつて空が大天使の余波から上条の家族を守った際、その桁外れの剣撃の余波だけで両腕の骨にヒビを入れられた神裂火織と同じ、世界に二十人にも満たない化け物。
だが、アックアの異常性はそれだけに留まらない。
彼は『聖人』であると同時に、世界最大規模の十字教教派であるローマ正教の最暗部、『神の右席』としての強大な魔術的特質と権利を併せ持つというのだ。
二つの特異な素質を併せ持ち、それを100%の出力で同時に行使できる、文字通りの『化け物の中の化け物』。
「…………」
空の奥歯がギリッと鳴る。
先日、第一位と第二位の衝突を『絶対防衛結界』で押さえ込んだ際、空は己の限界を誰よりも痛感したはずだった。だが、今回この街に侵入してきた外敵は、それと同等か、あるいはベクトルが違う分、それ以上の理不尽な破壊をもたらす存在だ。
「……ソラ。何か、非常に悪い知らせですか? とイチは、ソラの顔面筋の硬直と発汗の微細な変化から、事態の危険度を算出しようと試みます」
リーダーのイチが、テレビから視線を外し、心配そうに空の背中に声をかけた。
空は即座に端末をスリープさせ、深呼吸をしてから振り返った。
「ああ、ちょっとデカいゴミが街に入り込んだみたいだ。……明日以降の出勤になりそうだが」
空はいつものように苦笑を浮かべ、五階の工房で武器の手入れをしていたシノへと視線を向けた。
「シノ、悪いが一番頑丈な触媒……チタン合金のペンとタングステンビー玉、それに防弾処理をしたトランプを、明日着ていく学ランの裏地にフルセットで装填しておいてくれ。……今回ばかりは、相当骨が折れそうだ」
空のその言葉の重みに、妹達の顔に緊張が走る。
数十分後。
シノがミシンをカタカタと鳴らし、空の通う高校の指定の冬服である黒い学ランの裏地に、次々と兵器を装填していく間。
空はソファに深く腰掛け、目を閉じながら、脳内の演算領域で『化け物』に対するシミュレーションを何百回、何千回と繰り返していた。
(聖人クラスの攻撃をまともに受ければ、俺がどれだけ多重展開で防壁を張ろうと、防壁ごとミンチにされる。……真っ向勝負は絶対に無理だ。俺があの聖人の女の人の体術をエミュレートしたところで、元々の基礎スペックが違いすぎる。三秒で首が飛ぶ)
空の役割は、上条当麻の代わりに敵を倒すことではない。
上条当麻という表の英雄が、自分の足で立ち上がり、その右手で理不尽をぶち壊すまでの間、舞台を整え続けることだ。
(俺の仕事は、上条が死なないように『衝撃を逃がす』こと。そして、あの化け物が暴れ回ることで生じる街への被害——俺たちの日常への被害を、結界で食い止めることだけだ)
空は、自らの『空洞化された器』の使い方を再確認し、静かに目を開けた。
「ボス、装填完了です。裏地のケブラー繊維も増強しました。相手の質量がどれほどであろうと、ミサカのチューンした触媒は、ボスの極限の演算に絶対に耐え抜きます。……どうか、ご無事で……とシノは不安を隠すように、力強く学ランの背中をポンポンと叩きます」
シノからずしりと重い学ランを受け取り、空は優しく彼女の頭を撫でた。
「ありがとう、シノ。ニナの怪しいサプリも全部持っていくよ。……とりあえず、今日はもう仕事のことは忘れて、しばらくの平和を楽しもう。イツキ、ゲームの続きやるぞ」
空は、窓の外で冷たい木枯らしが吹く学園都市の空を一瞥した後、安心させるような笑顔を装い、コントローラーを握った。
(……あの野郎。記憶がないくせに、またとんでもなく厄介なものを背負い込みやがって)
空は、自分が命を削って守ろうとしている親友——上条当麻のお人好しな顔を思い浮かべながら、イツキの隣へと座った。
♢
翌日。
シノが完璧に兵器を装填してくれた重い学ランを着て登校した第七学区の高校は、空の覚悟とは裏腹に、驚くほどに平和で、いつも通りの間抜けな喧騒に包まれていた。
だが、平和というものは、往々にして些細なきっかけで突如として崩れ去るものである。
今日も、まさにそうだった。
「へー。じゃあもし、織田信長が織田幕府を作っていたら、日本はどうなってたんですか?」
この、上条当麻が発した無邪気で無教養な一言によって、一年七組は未曾有の危機——『飢餓地獄』に見舞われることになったのだ。
歴史のロマンに火をつけられた日本史担当の教師は、上条の質問を皮切りに、黒板にびっしりと架空の歴史年表を書き殴り始め、四限の日本史の授業は圧倒的かつ絶望的に長引いた。
昼休みのチャイムが鳴り響いても、教師の熱弁は止まらない。
生徒たちの腹の虫がオーケストラのように鳴り響き、阿鼻叫喚の空気が教室を包み込む中、ようやく「よし、今日はここまで!」と教師が解放の合図を出した時には、すでに昼休みの半分以上が経過していた。
その時間からの出遅れは、学園都市の高校生にとって致命的だ。
猛ダッシュで購買へ向かった者たちが目にしたのは「本日のパンは完売しました」という非情な看板。食堂へ駆け込んだ者たちを待っていたのは、他クラスの生徒たちで埋め尽くされ、座る隙間すらない満席の地獄絵図だった。
本来であれば、この凄惨な昼食難民の惨劇には、毎日欠かさず弁当を持参してくる空は、一切関係がないはずだった。
しかし。
十月九日以来、上条当麻の『不幸』が強力に伝染してしまったのか、空の机の中には今日に限って弁当箱が存在しなかったのだ。
(『アックアとかいう化け物との戦いで、また長期間入院するかもしれないから』と思って、冷蔵庫の食材を全部作り置きの料理に昨晩のうちにしちゃったせいで……昼食くらい購買でなんとかなると思っていたが……こんなところで自分の準備の良さが裏目に出るなんて!)
空は机に突っ伏し、未だ見ぬ『後方のアックア』とやらを理不尽に怨みながら、キューと鳴る胃袋を抱えて空腹と戦っていた。
「……脱走だ!! 脱走してコンビニへ行くんだ!!」
突如として、教室の誰かが悲痛な声で叫んだ。
誰が発した言葉なのかは、もはや分からない。しかし、誰であろうと関係なかった。その一言が、飢えに苦しむ若者たちの心に革命の火を灯したのだ。
「おおおおおッ!!」
その一声で、上条当麻を含む『空腹同盟』二十二名は、一斉に席を立ち、学校からの決死の脱走作戦を開始したのであった。
だが、結果から言おう。作戦は無惨にも失敗に終わった。
体育館裏のフェンスからこっそりと逃亡しようとした、まさにそのタイミングで。
空腹に忍び足で歩く生徒たちを尻目に、優雅に外食を済ませて爪楊枝をくわえながら帰還してきた、生活指導の体育教師・災誤先生が、悪鬼のような顔で現れたのだ。
「お前らァァァ! 昼休みの無断外出は校則違反だと言ってるだろうがァァァ!!」
「げぇっ! 災誤だ!! 散れっ!!」
「不幸だぁぁぁぁぁっ!!」
蜘蛛の子を散らすように、フェンスを乗り越えようとする上条、土御門、青髪ピアス。
形勢の完全なる不利を瞬時に判断し、別ルートから華麗に逃亡を図る委員長の吹寄。
そして。
「……悪いな、お前ら。俺は生きて帰る」
仲間を見捨て、何の躊躇いもなく
その後、土御門に無情にも足蹴にされてフェンスから蹴り落とされ、災誤先生のアイアンクローとヘッドロックによって物理的に絞め落とされた青髪ピアスは、床に倒れ伏しながら涙声で語った。
「ていうか……なんで最初から、瀬川はんのテレポートで全員コンビニに運んでもらおうと頼まなかったんや……ボクたち、アホちゃうか……」
♢
敵前逃亡を果たしたせめてもの償いとして、コンビニで徳用の菓子パンを持てるだけ買い込み、空間移動で教室に帰還した空。
逃亡に成功した土御門と吹寄を含めた二十名の空腹同盟の生き残りたちは、空が持ち帰ったパンを分け合い、今は亡き仲間たちを弔いながら、空腹をわずかに満たしていた。
その中、死んだと思われていた上条が微妙に引き攣った顔をしながら、ある『報せ』とともに教室に帰還した。
「……健康上の理由により、災誤先生は早退したらしいぞ」
早退のタイミングが味方した結果、上条は奇跡的に生還したらしい。
犠牲者は青髪一人だけだった。
「……なぁ、瀬川」
上条が、空の机の上に置かれたカラのビニール袋を見つめ、怨めしそうな声で呟いた。
「俺のパンは?」
空は、自分の口の端についたメロンパンのクッキー生地をペロッと舐め取り、爽やかな笑顔で答えた。
「ああ、みんなで全部食べちゃったよ。なんならみんなまだ足りないくらいだ」
「カミやん、すまないにゃー。カミやんはもう戻ってこないとばかり思ってたんだぜよ」
「ふざけんなァァァ! 俺のカロリーを返せェェェ!!」
訂正。犠牲者はやはり、二人だったようだ。
♢
放課後。
日常のバカ騒ぎから一転、空は学ランの裏地にある兵器の重量を確認し、上層部から指示された合流地点へと向かっていた。
第七学区の入り組んだ裏路地。
そこには、日本の土着魔術と十字教を融合させた実働部隊天草式十字凄教の面々が、待機していた。
「……瀬川空、と言ったよな? 天草式十字凄教で教皇代理をしている、建宮斎字なのよな」
黒い髪をツンツンに固めたクワガタのような髪型を持ち、ぶかぶかのTシャツにだぼだぼのジーンズと、天草式としては珍しく奇抜な格好をした男が空に向かって片手を上げた。
「ああ、瀬川空だ。……一時的とはいえ、相手が相手だ。よろしく頼む」
空は、難しい顔をしながら短い挨拶を済ませた。
暗部の掃除屋として魔術関係の事件に首を突っ込むようになってから数ヶ月が経ち、多くの魔術師と対峙、あるいは裏でフォローをしてきたが、こうして面と向かって『協力関係』として言葉を交わすのは、今回が初めてだった。
「とりあえず、標的である上条当麻の直接的な護衛には、うちの五和をつけたのよな。学校外ではアイツが常に傍に付き添う。もしアックアから奇襲を受けた際は、五和がひとまず交戦して時間を稼ぎ、我々本隊がすぐに介入する手筈になっているのよ。……そちらには、学校内や、我々がカバーしきれない死角での隠密護衛をお願いしたいのよな」
建宮が、地面に簡単な見取り図を書きながら作戦の概要を伝える。
空は小さく頷いた。
「学校内の護衛は俺が請け負おう。だが……申し訳ないが、上条には、俺がこういう『裏の仕事』をしているってことは、絶対に知られたくないんだ。学校外での行動中も、俺はできるだけ表には出ずに、死角から盤面を整えるように動かせてもらってもいいか?」
空は真剣な声で念を押した。
「もちろん、そんな悠長なことが言ってられないような本当に危機的な状況になれば、戦闘に介入するが。……あいつの日常に、俺みたいな暗部の人間が関わっていると思わせたくないんだ」
建宮は、空の言葉の裏にある「親友への不器用な気遣い」を察したのか、深く追求することなく鷹揚に頷いた。
「ふむ。まあ、こちらとしては、死角からのバックアップをしっかり働いてくれたら、何も問題はないのよな。よろしく頼むぞ、第八位」
最低限の行動指針を伝え合い、空は建宮たちと別れ、上条のマークへと移行した。
♢
その後は——空にとって、色々な意味で頭の痛くなる展開が続いた。
上条の護衛についたという五和だが、彼女は上条に対して明らかに『護衛対象以上』の好意を抱いており、それが行動の端々にポンコツな形で漏れ出ていた。
突如として天草式のメンバーたちが、上条と五和の距離を縮めさせるためだけに、街中で連携してサッカーボールでフリーキックを始めたり。
あろうことか、そのボールが護衛対象のはずの上条の顔面に激突し、彼が盛大に吹っ飛ばされたり。
その結果、上条が倒れ込んだ先が五和の胸の谷間であり。
それを運悪く目撃してしまった御坂美琴が、怒りで怒髪天を突き、天草式に向けて特大の電撃を放ち、その巻き添えを喰らって黒焦げになったり。
その後、色々あって完全に暴走した美琴との果てしない追いかけっこを始めた上条を、空は護衛のためにビルの屋上から追跡し、学園都市中を数時間にわたって走り回る羽目になったのだ。
「……無駄に動いたもんだな、本当に」
日が暮れた頃。ようやく上条が学生寮に逃げ帰ったのを確認し、空はビルの屋上で息を整えながら、隣に合流した建宮たちに向かって『余計な恋愛サポートなんてしやがって』というジト目を向けた。
「……申し訳ないのよな」
建宮も、一緒になって走り回った疲労からか、あるいは五和の奥手ぶりに呆れたのか、素直に反省の色を見せて頭を掻いた。
「まあ、上条が帰宅したから、ひとまずは落ち着いたか。……アックアの野郎も、こんなドタバタ劇の最中に襲撃してくるほど馬鹿じゃないだろうしな」
空が学ランのポケットから缶コーヒーを取り出そうとした、長い一日を終えて一段落がついたと思った、矢先だった。
学生寮の扉が開き、上条当麻が、居候のシスターであるインデックスと、護衛の五和を連れて、再び夜の街へと外出を始めたのだ。
「はぁ……。どうやら、まだまだ忙しそうだな。上条さんよ」
空はため息をつきながら、開け損ねた缶コーヒーを懐にしまい直した。
聖人という規格外の化け物が、いつ、どこから襲いかかってくるか分からない、極度の緊張状態。
空は気配を完全に殺し、天草式達とともに、再び夜の学園都市を移動し始めた親友の背中を、見えない影となって追い続けた。
理不尽な暴力が、日常を破壊するその瞬間に備えて。