夜。
第七学区の学生寮を外出した上条当麻たちを追い、瀬川空は地下二千メートルに作られた広大な地下空間、第二十二学区にある温泉レジャー施設へと足を踏み入れていた。
天草式十字凄教の実働部隊よりも単独での機動力に優れる空は、一時的に彼らと別れ、ビル群の屋上や死角を空間移動で飛び移りながら、上条と五和の背中を追跡してここまでやってきたのだ。
(……おかしい)
地下の人工の星空が広がるドーム空間で、空は深い物陰に身を潜めながら、冷たい汗が背中を伝うのを感じていた。思考を高速で巡らせる。
空がこのレジャー施設に到着してから、すでに幾分かの時間が経過している。いかに空に機動力で劣るとはいえ、プロの魔術戦闘集団である建宮斎字たち天草式本隊が、とうに合流地点に到着していても良いくらいの時間が過ぎているのだ。
仮に、彼らが到着後に空と別ルートで警戒監視を続ける判断を下したのだとしても、何らかの一報は入れてくるはずである。
それが、全くない。不気味なほどの完全な静寂。
(……やられたのか?)
何かがある。絶対に、この空間にはすでに『異物』が入り込んでいる。
空の全身の産毛が総毛立ち、その直感が確信へと変わった時。
最悪の『理不尽』は、上条当麻と五和の前に、いっそ唐突なほど静かに顕現した。
「な、なんだよアイツ……!」
物陰からその光景を目撃した空は、息を呑み、完全に圧倒されていた。
上条たちの数十メートル先の路上に、いつの間にか一人の大男が立っていた。
青いゴルフウェアのような服を着た、傭兵を思わせる無骨な男。『後方のアックア』。
武器らしい武器は何も持たず、隠し持っている様子もない。
だが、空の感覚網が、その男の存在そのものが発する異常性を検知して警鐘を鳴らしていた。
刹那。
アックアの姿がブレた。
彼が軽く地面を蹴っただけで、アスファルトが爆発するように抉れ、その巨体が信じられない速度で五和の真横へと飛び込んでいた。
魔術の詠唱も、武器の構えもない。
ただの体当たり。純粋な身体能力による暴力。
「あ……ッ!?」
反応すらできなかった五和の細い身体が、まるでダンプカーに撥ねられたかのように、数十メートル先へと紙屑のように吹き飛ばされた。
空は、これまでに暗部の底で様々な死線や修羅場を潜り抜けてきた。その中には、学園都市第二位・垣根帝督や第一位・一方通行という、圧倒的な力を持つ化け物もいた。
しかし、目の前の男は、それらとはベクトルが全く違う『別格』であった。
アックア自身から、術式を展開したような魔術の気配は一切感じられない。
つまり、彼はあの速度と破壊力を、ただの『純粋な身体能力』だけで引き起こしたのだ。聖人としての人間を超越した筋力。それがどれほどの絶望を意味するのか、空には痛いほどに理解できた。
五和を一瞬で排除し、邪魔者を片付けたと言わんばかりのアックアは、ゆっくりとした動作で、背後の空間から全長五メートルを悠に超える巨大な『メイス』を取り出し、上条当麻へと向き直った。
(まずい……ッ! 上条が殺される!)
空は、自身の『表の顔』を隠すという暗部の鉄則をかなぐり捨て、迷うことなく物陰から飛び出した。
なんとか食い止めなければならない。
あのメイスが振り下ろされれば、上条の肉体ごと、この地下空間の基盤すら粉砕される。
『エミュレート——念動力、空力使い! 多重展開!』
空の脳血管が悲鳴を上げ、鼻の奥からどす黒い血が溢れ出す。
空は、アックアの巨大なメイスが上条の脳天に向かって無慈悲に振り下ろされる直前、上条の足元に猛烈な『突風』を発生させ、アックアの予期せぬ方向へと上条の身体を強引に吹き飛ばした。
同時に、上条が叩きつけられるであろう方向の空間に、念動力による見えないクッションを作り出す。
聖人の攻撃そのものを、空の障壁で正面から受け止めて『止める』ことなど物理的に不可能だ。だからこそ、威力を殺すのではなく、上条の身体を強制的に『逸らす』ことで回避させたのだ。
ドゴォォォォォォォォォォォンッ!!!
空の目論見通り、上条の身体はメイスの直撃を免れた。
しかし、標的を捉え損ねたアックアのメイスが、そのまま横の巨大な鉄橋の支柱へと叩きつけられ、それを飴細工のように粉砕した。
「がァああああッ!?」
砕け散った数トンものアスファルトや鉄骨の破片が散弾銃のように飛び散り、空のクッションに守られていたはずの上条をも、その圧倒的な爆風で数十メートル吹き飛ばした。
「……ガハッ!」
吹き飛ばされた上条が、全身を打ち据えられながらも、痛みを堪えて必死に立ち上がろうとする。
その上条と、悠然と歩み寄ってくるアックアの間に。
黒い学ランを着た瀬川空が、血に濡れた顔で滑り込むように立ち塞がった。
「せ、瀬川……?」
上条は、信じられないものを見たように目を丸くし、動揺を露わにした。
学園都市の能力者とはいえ、普段は弁当を持って一緒に補習を受けているただの悪友が、なぜこんな魔術サイドの化け物がいる死地に立っているのか。魔術の争いの中に、科学の能力者が平然と立っているという異常事態。
だが、空には上条の疑問に答えてやる余裕は一秒もなかった。
「……ほう。天草式の護衛は全員片付けたと思ったのであるが……学園都市の者であるか」
アックアは、空の乱入に対しても全く顔色を変えることなく、ただ道端の石ころを見るような目で話しかけてきた。
「しかし、たった一人でこの私に挑んで、勝てると思っているのであるか」
(……やっぱり。天草式は、こいつに全員やられたのか)
建宮たちが一瞬で壊滅させられたという事実に、空は奥歯を強く噛み締めた。
「やってみないと分からないだろ」
空は、口の端から流れる血を手の甲で拭い、親友を背に庇ったまま言い放った。
「……上条。色々と聞きたいことはあるだろうが、あとで話すから……今は、俺の正体については呑んでくれ」
空は学ランのポケットから、シノが調整したチタン合金のボールペンを取り出し、逆手に構えた。
対してアックアは、空の構えを見て「そうか」と一言だけ短く放った。
直後。
アックアの姿が再び視界から消えた。
いや、速すぎて見えなかった。
次の瞬間、空の目の前にアックアの巨体が現れ、五メートルを超える巨大なメイスが、空の胴体を真っ二つにへし折らんと真横に薙ぎ払われていた。
「『
空は咄嗟に、自身の持つ最大硬度の防御結界を何重にも展開し、ペンの触媒を通して防御を固めた。
だが。
ガアァァァァァァァァァンッ!!!!
「ガ、アァァァァッ!!?」
聖人の純粋な膂力から生み出される暴力は、空の想像を遥かに超えていた。
何重にも重ねた空間固定と念動力の壁が、ガラス細工のように一瞬で粉々に砕け散る。勢いを殺しきれなかったメイスの側面が、空の腹部に深く突き刺さった。
肋骨が数本、無残にへし折れる嫌な音が響き、空の身体がくの字に折れ曲がって宙に浮く。
さらに、メイスの規格外の勢いは空の身体ごと薙ぎ払い、背後で膝をついて立ち上がろうとしていた上条をも巻き込んで吹き飛ばした。
「グハァッ……!! ゴホッ、ゲホォッ……!」
数十メートル先のコンクリートの壁に叩きつけられ、空は大量の血を吐き出した。
空は被弾の瞬間、ベクトル操作や空力使いの風力で極限までメイスの勢いを殺そうと試みたが、空の必死の演算と防衛も虚しく、圧倒的な質量の暴力の前に、上条と空は並んで地面に叩き伏せられてしまったのだ。
「……チィッ!」
空が内臓の痛みに堪えながら、バックグラウンドで『肉体再生』を全開にして再び立ちあがろうとした瞬間。
アックアは、倒れ伏す上条を見下ろし、極めて冷酷に告げた。
「その右腕だ」
アックアは、余裕綽々とした様子で、肩にメイスを担ぎながら静かに言葉を紡ぐ。
「その右腕を切り落として差し出せば、命の方は見逃してやるのである」
「ふ、ざける、な……」
上条は、血に濡れた口元を歪め、反抗の意思を明確に示してフラフラと立ち上がろうとする。
右手を失えば、インデックスをはじめとする、彼が今まで救ってきた者たちを守る力がなくなる。彼がそんな要求を呑むはずがない。
上条は、ボロボロになった空の前に立ち塞がろうとするように、前に出ようとした。
「ま、待て! 上条! お前は後ろに……!」
空は叫び、手を伸ばしたが、遅かった。
「それならば、もう少し『現実』を知ってもらうのである」
そこからの光景は、あまりにも凄惨だった。
上条が立ち上がろうとするや否や、アックアのメイスが容赦なく上条の身体を襲った。
叩き潰され、吹き飛ばされ、地面に転がる。
それでも上条は、折れた足で立ち上がろうとする。
その度に、アックアのメイスが、あるいは容赦のない蹴りが、上条の肉体を徹底的に破壊していく。
右手の『幻想殺し』は、純粋な物理的質量であるメイスの前には全く意味を成さない。
「やめろ……ッ!!」
耐えられなかった。
自分がどれだけ血反吐を吐いてでも守りたかった、ただのバカで真っ直ぐな親友が、何の抵抗もできずに一方的に肉塊に変えられていく。
空は、理性を失い、我を忘れてアックアの背中へと飛びかかった。
ペンの触媒に『空間断裂』のベクトルを込め、アックアの首筋を狙って突き刺そうとする。
しかし。
「小賢しいのである」
アックアは振り返りもせず、まるで飛び回る羽虫を払うかの如く、メイスを片手で軽く一振りした。
「ガ、ァァッ……!?」
その一振りが生み出した衝撃波だけで、空の身体は木の葉のように弾き飛ばされた。
冷静な演算を放棄し、考える前に行動をしてしまったせいで、空は受け身をとることも勢いを殺すこともできず、そのままコンクリートの柱に激突した。
「ハァッ……ゲホッ、ゴホォッ!!」
全身の骨が悲鳴を上げ、大量の血反吐を吐き出しながら体を動かそうとするが、手足が全く言うことを聞かない。脳の命令を肉体が拒絶している。
(クソッ……! ふざけんな……! こうやって、上条がボロボロになっていくのを、俺はただ地べたに這いつくばって見てるだけかよ……!)
絶望と無力感が、空の精神をドロドロに塗り潰していく。
視界が赤く染まり、空の世界から音が消えた。
ただ目の前の凄惨な光景だけが、無音の悪夢のように映し出される。
上条が、完全に倒れた。
ピクリとも動かず、立ち上がる気配もない。
アックアは、無慈悲にトドメを刺さんと、巨大なメイスを上条の頭上へと高く構えた。
その中、遠くで気絶していた五和が目を覚まし、悲鳴のような表情で上条に駆け寄った。
彼女は倒れた上条の胸にすがりつき、何やら必死に治癒の魔術をかけようとしている様子だった。
だが、いくら魔術を紡いでも、上条の右手が無意識に発動している『幻想殺し』のせいで、回復魔術の光がすべて打ち消され、傷が全く塞がらない。
どうやっても彼を救えないという残酷な現実に、五和の顔が深い絶望に染まる。
だが、突如として。
死に絶えたかに見えた上条当麻が、血まみれの身体を震わせ、ゆっくりと、執念の化身のように立ち上がったのだ。
彼は、泣き崩れる五和に向けて、何かを優しく語りかけていた。
その瞳は、どれだけ肉体を破壊されても、決して折れることのない強烈な光を放っていた。
アックアは、その上条の姿を見て、何かを悟ったようにメイスを下ろした。
そして、上条と五和に向けて何かを短く宣告した後、上条を横薙ぎ一閃で川にへと吹き飛ばし、夜の闇の中へと静かに立ち去っていった。
(上条のことだ。あれでは死にはしないだろう……第一波は、凌いだ……か?)
遠のいていた聴覚が少しずつ回復し、夜風の音と五和の泣き叫ぶ声が耳に届くようになる。
とはいえ、気を失った状態で水中にいることは致命的になる。
「……っ、上条……」
空は、折れた肋骨と潰れた内臓の痛みに耐えながら、血だまりの中で無理やり立ち上がった。
上条を一刻も早く病院へ連れて行かなければならない。
自分が無力だったせいで親友に背負わせてしまった絶望的な傷を、少しでも償うために。
空は、這うようにして親友の元へと歩みを進めた。