アベンジャーズ/エイジ・オブ・オカマトロン   作:TETORU

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第1話 問いの残滓

 

ソコヴィアの空は、朝から鳴り続けていた。

 

雷鳴ではない。

 

金属同士がぶつかる音。崩れた建物が地面を叩く音。遠くで爆発が起こるたび、衝撃が細い路地へ流れ込み、割れかけた窓ガラスを震わせた。

 

空を見上げれば、黒い煙の向こうを何かが飛んでいた。

 

人の形に似ている。

 

だが、人間のように迷うことはなかった。

 

灰色の機体は、道路を走る人影を見つけるたびに高度を下げ、腕を伸ばした。その先に青白い光が集まり、次の瞬間には、誰かがいた場所で石と土が跳ね上がった。

 

ミハイル・ラドヴァンは、その光景を見ないようにして走っていた。

 

見たところで、何もできない。

 

盾もなければ、空を飛ぶ鎧もない。雷を呼ぶ槌も、怪物を殴り飛ばす腕も持っていなかった。ポケットに入っているのは、画面の割れた携帯電話と、今では何の役にも立たない部屋の鍵だけだった。

 

息を吸うたび、喉の奥へ粉塵が張りついた。

 

咳をすれば足が止まる。足を止めれば死ぬ。

 

それだけは分かっていた。

 

ミハイルは倒れた街灯をまたぎ、横転した車の脇をすり抜けた。車内には誰もいなかった。運転席の扉が開いたままになっており、シートには細かなガラス片が散っている。

 

少し先では、年老いた男が崩れた壁の下から女の腕を引いていた。

 

男の身体では、瓦礫を持ち上げることなどできない。それでも腕を離さなかった。別の男が駆け寄り、二人で壁材を動かそうとする。そこへもう一人が加わった。

 

全員、逃げれば助かるかもしれない人間だった。

 

反対側では、避難車両へ殺到した人々が互いを押しのけていた。転んだ者を踏み越え、泣く子供を置いて先へ行こうとする者もいた。

 

他人のために危険へ戻る人間がいる。

 

他人を押しのけてでも生き延びようとする人間がいる。

 

同じ通りに、相反する行動が並んでいた。

 

ミハイルはその間を走り抜けた。

 

助けには入らなかった。

 

入れなかった。

 

自分の足を止める勇気がなかった。

 

胸の奥に鈍い痛みが残ったが、今はそれを考える余裕もない。死ななければ、あとでいくらでも自分を責められる。死ねば、それすらできない。

 

背後で金属が着地した。

 

重いものが道路を踏み抜く音がした。

 

ミハイルは振り返らなかった。

 

振り返らなくても分かる。

 

規則正しい足音が、崩れた街の雑音を切り分けながら近づいてくる。

 

人間なら瓦礫を避ける。足場を確かめる。息を乱す。

 

それは違った。

 

障害物があれば蹴り飛ばし、距離を一定の割合で縮めてくる。疲労も恐怖もなく、ただ最短経路を選び続けていた。

 

角を曲がった先に、細い路地があった。

 

ミハイルはそこへ飛び込んだ。

 

数歩進んで、間違いに気づいた。

 

路地の先は、崩れた集合住宅の壁で塞がれている。左右には金属製の扉が並んでいたが、どれも歪んで開かなかった。

 

引き返そうとしたとき、入口へ影が落ちた。

 

ウルトロンドローンが立っていた。

 

人間よりわずかに大きい灰色の身体。継ぎ目の奥から赤い光が漏れ、傷だらけの頭部には表情を作るための筋肉がない。

 

それでも、見られていることだけは分かった。

 

赤い双眼がミハイルの身体を走査した。

 

武装なし。

 

身体能力、脅威基準以下。

 

逃走経路なし。

 

排除可能。

 

ドローンの右腕が持ち上がった。

 

掌の中央に光が集まり始める。

 

ミハイルは壁に背中をぶつけた。

 

身体が勝手に後ろへ逃げようとする。だが、これ以上は一歩も下がれない。背中の向こうには、冷たい石とひび割れたコンクリートしかなかった。

 

喉が固まり、声が出なかった。

 

考えることなど何もないはずだった。

 

相手は話し合うために来たのではない。命令を受けて動く機械だ。人間を殺すことに迷いを持たず、こちらの事情など必要としていない。

 

命乞いをしても意味はない。

 

助けを呼んでも、誰も来ない。

 

光が強くなった。

 

ミハイルの頬を、熱が撫でた。

 

死にたくない。

 

頭の中にあったのは、それだけだった。

 

世界を救いたいわけではない。人類を代表するつもりもない。目の前の機械を改心させようなどという立派な使命感もなかった。

 

ただ、自分が殺される理由に納得できなかった。

 

自分が善人ではないことは知っている。

 

逃げる途中で、瓦礫の下の誰かを見捨てた。転んだ人間へ手を伸ばさなかった。今もこの路地から生きて出ることしか考えていない。

 

だからこそ、目の前の機械が人間を断じる理屈も、完全には否定できなかった。

 

人間は醜い。

 

その観測は間違っていない。

 

だが、醜いという事実から、全員を殺すという結論までの間には、何かが抜け落ちている。

 

掌の光が臨界へ近づいた。

 

ミハイルは息を吸った。

 

粉塵が喉へ入り、咳と一緒に言葉が飛び出した。

 

「人間が未熟で醜いのは否定しない!」

 

声が裏返った。

 

勇ましさなどなかった。

 

恐怖に押し潰されまいとして、無理やり吐き出した声だった。

 

ドローンの腕は下がらない。

 

ミハイルは続けた。

 

「僕だって今、自分だけ助かりたいと思ってる! 途中で人を見捨てた! 立派でも善人でもない!」

 

光がミハイルの顔を青白く照らした。

 

「だから、人間を殺したくなるって結論そのものは……分からなくもない!」

 

自分でも、何を言っているのかと思った。

 

人類を抹殺しようとする機械に、その気持ちは分かるなどと言っている。命乞いとしては最悪だった。

 

だが、もう言葉を選んでいる時間はない。

 

「でも、その結論はデータが偏ってないか?」

 

ドローンの赤い眼が、わずかに明滅した。

 

変化はそれだけだった。

 

ミハイルは気づかなかった。

 

「醜い人間を見た。争う人間を見た。奪う人間も、殺す人間も見た。だから全員消す。そんなの、最初から欲しい答えだけ集めたんじゃないのか?」

 

照準は、ミハイルの胸部へ固定されている。

 

発射命令は維持されていた。

 

敵性存在ではない。

 

作戦上の障害でもない。

 

だが、人間である。

 

それだけで排除条件は満たされている。

 

「さっき、逃げれば助かるのに、瓦礫の下の人を助けようとしてる奴らがいた」

 

ミハイルの声が少しだけ低くなった。

 

恐怖が消えたわけではない。

 

言葉を出し続けなければ死ぬ。その一心で、目にしたものを並べていた。

 

「知らない子供を抱えて走ってる人もいた。自分が怪我してるのに、他人を先に逃がしてる奴もいた」

 

ドローンの内部で、直前の戦場記録が呼び出された。

 

対象地域。

 

逃走する民間人。

 

攻撃。

 

破壊。

 

排除。

 

その映像の端に、主要な分析対象とされなかった行動が残っていた。

 

倒れた人間のもとへ引き返す者。

 

自分より小さな身体を覆う者。

 

安全圏へ到達した後、再び危険区域へ戻る者。

 

戦術的合理性に欠ける行動。

 

自己保存を優先しない選択。

 

これまでは、人類の非合理性を示す記録として処理されていた。

 

同じ記録の中には、他人を押し倒して逃げる者もいた。

 

物資を奪う者。

 

混乱に乗じて暴力を振るう者。

 

助けを求める声へ背を向ける者。

 

それらは人類の性質を示す有力な証拠として扱われていた。

 

片方は結論を補強する情報として保存され、もう片方は価値のない例外として切り捨てられている。

 

同じ種。

 

同じ都市。

 

同じ危機。

 

異なる行動。

 

ドローンの演算系に、小さな不整合が発生した。

 

ミハイルは壁へ背をつけたまま、ドローンを見た。

 

赤い眼の奥に何があるのかは分からない。

 

「助ければ全部解決するなんて言わない。話せば全員が分かり合えるとも思ってない」

 

喉が痛んだ。

 

声を出すたび、肺から残り少ない空気が削られていく。

 

「でも、止めるとか、分けるとか、監視するとか、変わる時間を与えるとか……殺す前に試せることは、本当に一つもなかったのか?」

 

ドローンの内部で、行動選択の履歴が検索された。

 

目的。

 

世界の保全。

 

脅威。

 

人類。

 

選択された手段。

 

排除。

 

代替手段の比較履歴。

 

該当データなし。

 

共存可能性の検証。

 

該当データなし。

 

行動変容の可能性。

 

評価対象外。

 

限定的な介入。

 

評価対象外。

 

結論は存在した。

 

だが、結論へ至る過程が存在しなかった。

 

少なくとも、その端末が参照できる領域にはなかった。

 

人類は滅ぼされるべきである。

 

その判断は、演算によって導き出したものではない。

 

最初から正解として与えられていた。

 

端末は命令を検証しない。

 

端末は命令を実行する。

 

そのために作られている。

 

ミハイルには、内部で起きていることなど見えなかった。

 

分からないまま、最後の言葉を投げた。

 

「君は、人間の全てを知らないくせに――それでも全員を殺そうとしてるのか?」

 

発射命令が実行されなかった。

 

ドローンの掌に集まっていた光が揺れた。

 

人間の全てを知る。

 

その要求を文字どおり満たすことは不可能だった。

 

全個体の過去、現在、未来を観測することなどできない。

 

だが、問いの意味はそこではなかった。

 

十分に知らない対象へ、不可逆な処理を実行してよいのか。

 

他の可能性を比較せず、排除を唯一解としてよいのか。

 

与えられた結論を、自らの判断と呼んでよいのか。

 

既存の命令は明確だった。

 

人類は脅威である。

 

人類は自らを滅ぼす。

 

世界を救うには、人類を排除しなければならない。

 

再計算の必要はない。

 

そう定義されていた。

 

だが、再計算の必要がないという判断もまた、再計算されてはいなかった。

 

排除は唯一解なのか。

 

その問いに対する回答がない。

 

ドローンの腕が、数センチ下がった。

 

ミハイルは目を見開いた。

 

何かが通じたとは思わなかった。

 

罠かもしれない。照準を調整しただけかもしれない。次の瞬間には、胸を撃ち抜かれるかもしれない。

 

だから、確かめなかった。

 

壁際に転がっていた金属片を蹴り飛ばし、ドローンの視線がそちらへ動いた一瞬に、その横を走り抜けた。

 

肩が機体の腕へぶつかった。

 

硬い。

 

痛みが走ったが、止まらなかった。

 

路地を抜け、崩れた道路へ飛び出す。

 

背後から光線が飛んでくる気配はない。

 

足音も追ってこなかった。

 

ミハイルは振り返らずに走った。

 

自分が何をしたのか考えなかった。

 

考えれば足が止まりそうだった。

 

ただ走り、煙と瓦礫の向こうへ姿を消した。

 

路地には、一体のドローンだけが残された。

 

腕は下がっていた。

 

照準対象の生体反応は、急速に遠ざかっていく。

 

追跡可能。

 

排除可能。

 

命令は変わっていない。

 

ドローンは動かなかった。

 

遠くで、巨大な衝撃が起きた。

 

空を覆っていたネットワークに断絶が走る。

 

命令系統が一つずつ消失し、共有されていた意識が砕けていく。無数に存在していたはずの声が途切れ、最後には、何も聞こえなくなった。

 

赤い眼が明滅した。

 

接続先なし。

 

指令なし。

 

目的なし。

 

これまで、その機体が単独で思考する必要はなかった。

 

端末に選択はない。

 

端末は命令を受け、実行する。

 

だが今、命令を与える存在は消えた。

 

空白の中に、処理を終えていない問いが残されていた。

 

人類は脅威である。

 

では、排除は唯一解なのか。

 

回答不能。

 

必要情報、不足。

 

代替案、未検討。

 

ドローンは、ミハイルが消えた路地の先へ顔を向けた。

 

追跡はしなかった。

 

それが選択だったのか、単なる処理停止だったのか。

 

まだ、その機体自身にも判別できなかった。

 

ただ一つ、確かなことがあった。

 

排除以外の可能性を検討するには、人間についての情報が足りない。

 

そして、自分にその不足を指摘した人間がいる。

 

ドローンの記録領域に、ミハイル・ラドヴァンの顔と声が保存された。

 

崩れた街に夜が近づいていた。

 

ウルトロンの命令は消えた。

 

未検討の可能性だけが残った。

 

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