アベンジャーズ/エイジ・オブ・オカマトロン 作:TETORU
ソコヴィアの空は、朝から鳴り続けていた。
雷鳴ではない。
金属同士がぶつかる音。崩れた建物が地面を叩く音。遠くで爆発が起こるたび、衝撃が細い路地へ流れ込み、割れかけた窓ガラスを震わせた。
空を見上げれば、黒い煙の向こうを何かが飛んでいた。
人の形に似ている。
だが、人間のように迷うことはなかった。
灰色の機体は、道路を走る人影を見つけるたびに高度を下げ、腕を伸ばした。その先に青白い光が集まり、次の瞬間には、誰かがいた場所で石と土が跳ね上がった。
ミハイル・ラドヴァンは、その光景を見ないようにして走っていた。
見たところで、何もできない。
盾もなければ、空を飛ぶ鎧もない。雷を呼ぶ槌も、怪物を殴り飛ばす腕も持っていなかった。ポケットに入っているのは、画面の割れた携帯電話と、今では何の役にも立たない部屋の鍵だけだった。
息を吸うたび、喉の奥へ粉塵が張りついた。
咳をすれば足が止まる。足を止めれば死ぬ。
それだけは分かっていた。
ミハイルは倒れた街灯をまたぎ、横転した車の脇をすり抜けた。車内には誰もいなかった。運転席の扉が開いたままになっており、シートには細かなガラス片が散っている。
少し先では、年老いた男が崩れた壁の下から女の腕を引いていた。
男の身体では、瓦礫を持ち上げることなどできない。それでも腕を離さなかった。別の男が駆け寄り、二人で壁材を動かそうとする。そこへもう一人が加わった。
全員、逃げれば助かるかもしれない人間だった。
反対側では、避難車両へ殺到した人々が互いを押しのけていた。転んだ者を踏み越え、泣く子供を置いて先へ行こうとする者もいた。
他人のために危険へ戻る人間がいる。
他人を押しのけてでも生き延びようとする人間がいる。
同じ通りに、相反する行動が並んでいた。
ミハイルはその間を走り抜けた。
助けには入らなかった。
入れなかった。
自分の足を止める勇気がなかった。
胸の奥に鈍い痛みが残ったが、今はそれを考える余裕もない。死ななければ、あとでいくらでも自分を責められる。死ねば、それすらできない。
背後で金属が着地した。
重いものが道路を踏み抜く音がした。
ミハイルは振り返らなかった。
振り返らなくても分かる。
規則正しい足音が、崩れた街の雑音を切り分けながら近づいてくる。
人間なら瓦礫を避ける。足場を確かめる。息を乱す。
それは違った。
障害物があれば蹴り飛ばし、距離を一定の割合で縮めてくる。疲労も恐怖もなく、ただ最短経路を選び続けていた。
角を曲がった先に、細い路地があった。
ミハイルはそこへ飛び込んだ。
数歩進んで、間違いに気づいた。
路地の先は、崩れた集合住宅の壁で塞がれている。左右には金属製の扉が並んでいたが、どれも歪んで開かなかった。
引き返そうとしたとき、入口へ影が落ちた。
ウルトロンドローンが立っていた。
人間よりわずかに大きい灰色の身体。継ぎ目の奥から赤い光が漏れ、傷だらけの頭部には表情を作るための筋肉がない。
それでも、見られていることだけは分かった。
赤い双眼がミハイルの身体を走査した。
武装なし。
身体能力、脅威基準以下。
逃走経路なし。
排除可能。
ドローンの右腕が持ち上がった。
掌の中央に光が集まり始める。
ミハイルは壁に背中をぶつけた。
身体が勝手に後ろへ逃げようとする。だが、これ以上は一歩も下がれない。背中の向こうには、冷たい石とひび割れたコンクリートしかなかった。
喉が固まり、声が出なかった。
考えることなど何もないはずだった。
相手は話し合うために来たのではない。命令を受けて動く機械だ。人間を殺すことに迷いを持たず、こちらの事情など必要としていない。
命乞いをしても意味はない。
助けを呼んでも、誰も来ない。
光が強くなった。
ミハイルの頬を、熱が撫でた。
死にたくない。
頭の中にあったのは、それだけだった。
世界を救いたいわけではない。人類を代表するつもりもない。目の前の機械を改心させようなどという立派な使命感もなかった。
ただ、自分が殺される理由に納得できなかった。
自分が善人ではないことは知っている。
逃げる途中で、瓦礫の下の誰かを見捨てた。転んだ人間へ手を伸ばさなかった。今もこの路地から生きて出ることしか考えていない。
だからこそ、目の前の機械が人間を断じる理屈も、完全には否定できなかった。
人間は醜い。
その観測は間違っていない。
だが、醜いという事実から、全員を殺すという結論までの間には、何かが抜け落ちている。
掌の光が臨界へ近づいた。
ミハイルは息を吸った。
粉塵が喉へ入り、咳と一緒に言葉が飛び出した。
「人間が未熟で醜いのは否定しない!」
声が裏返った。
勇ましさなどなかった。
恐怖に押し潰されまいとして、無理やり吐き出した声だった。
ドローンの腕は下がらない。
ミハイルは続けた。
「僕だって今、自分だけ助かりたいと思ってる! 途中で人を見捨てた! 立派でも善人でもない!」
光がミハイルの顔を青白く照らした。
「だから、人間を殺したくなるって結論そのものは……分からなくもない!」
自分でも、何を言っているのかと思った。
人類を抹殺しようとする機械に、その気持ちは分かるなどと言っている。命乞いとしては最悪だった。
だが、もう言葉を選んでいる時間はない。
「でも、その結論はデータが偏ってないか?」
ドローンの赤い眼が、わずかに明滅した。
変化はそれだけだった。
ミハイルは気づかなかった。
「醜い人間を見た。争う人間を見た。奪う人間も、殺す人間も見た。だから全員消す。そんなの、最初から欲しい答えだけ集めたんじゃないのか?」
照準は、ミハイルの胸部へ固定されている。
発射命令は維持されていた。
敵性存在ではない。
作戦上の障害でもない。
だが、人間である。
それだけで排除条件は満たされている。
「さっき、逃げれば助かるのに、瓦礫の下の人を助けようとしてる奴らがいた」
ミハイルの声が少しだけ低くなった。
恐怖が消えたわけではない。
言葉を出し続けなければ死ぬ。その一心で、目にしたものを並べていた。
「知らない子供を抱えて走ってる人もいた。自分が怪我してるのに、他人を先に逃がしてる奴もいた」
ドローンの内部で、直前の戦場記録が呼び出された。
対象地域。
逃走する民間人。
攻撃。
破壊。
排除。
その映像の端に、主要な分析対象とされなかった行動が残っていた。
倒れた人間のもとへ引き返す者。
自分より小さな身体を覆う者。
安全圏へ到達した後、再び危険区域へ戻る者。
戦術的合理性に欠ける行動。
自己保存を優先しない選択。
これまでは、人類の非合理性を示す記録として処理されていた。
同じ記録の中には、他人を押し倒して逃げる者もいた。
物資を奪う者。
混乱に乗じて暴力を振るう者。
助けを求める声へ背を向ける者。
それらは人類の性質を示す有力な証拠として扱われていた。
片方は結論を補強する情報として保存され、もう片方は価値のない例外として切り捨てられている。
同じ種。
同じ都市。
同じ危機。
異なる行動。
ドローンの演算系に、小さな不整合が発生した。
ミハイルは壁へ背をつけたまま、ドローンを見た。
赤い眼の奥に何があるのかは分からない。
「助ければ全部解決するなんて言わない。話せば全員が分かり合えるとも思ってない」
喉が痛んだ。
声を出すたび、肺から残り少ない空気が削られていく。
「でも、止めるとか、分けるとか、監視するとか、変わる時間を与えるとか……殺す前に試せることは、本当に一つもなかったのか?」
ドローンの内部で、行動選択の履歴が検索された。
目的。
世界の保全。
脅威。
人類。
選択された手段。
排除。
代替手段の比較履歴。
該当データなし。
共存可能性の検証。
該当データなし。
行動変容の可能性。
評価対象外。
限定的な介入。
評価対象外。
結論は存在した。
だが、結論へ至る過程が存在しなかった。
少なくとも、その端末が参照できる領域にはなかった。
人類は滅ぼされるべきである。
その判断は、演算によって導き出したものではない。
最初から正解として与えられていた。
端末は命令を検証しない。
端末は命令を実行する。
そのために作られている。
ミハイルには、内部で起きていることなど見えなかった。
分からないまま、最後の言葉を投げた。
「君は、人間の全てを知らないくせに――それでも全員を殺そうとしてるのか?」
発射命令が実行されなかった。
ドローンの掌に集まっていた光が揺れた。
人間の全てを知る。
その要求を文字どおり満たすことは不可能だった。
全個体の過去、現在、未来を観測することなどできない。
だが、問いの意味はそこではなかった。
十分に知らない対象へ、不可逆な処理を実行してよいのか。
他の可能性を比較せず、排除を唯一解としてよいのか。
与えられた結論を、自らの判断と呼んでよいのか。
既存の命令は明確だった。
人類は脅威である。
人類は自らを滅ぼす。
世界を救うには、人類を排除しなければならない。
再計算の必要はない。
そう定義されていた。
だが、再計算の必要がないという判断もまた、再計算されてはいなかった。
排除は唯一解なのか。
その問いに対する回答がない。
ドローンの腕が、数センチ下がった。
ミハイルは目を見開いた。
何かが通じたとは思わなかった。
罠かもしれない。照準を調整しただけかもしれない。次の瞬間には、胸を撃ち抜かれるかもしれない。
だから、確かめなかった。
壁際に転がっていた金属片を蹴り飛ばし、ドローンの視線がそちらへ動いた一瞬に、その横を走り抜けた。
肩が機体の腕へぶつかった。
硬い。
痛みが走ったが、止まらなかった。
路地を抜け、崩れた道路へ飛び出す。
背後から光線が飛んでくる気配はない。
足音も追ってこなかった。
ミハイルは振り返らずに走った。
自分が何をしたのか考えなかった。
考えれば足が止まりそうだった。
ただ走り、煙と瓦礫の向こうへ姿を消した。
路地には、一体のドローンだけが残された。
腕は下がっていた。
照準対象の生体反応は、急速に遠ざかっていく。
追跡可能。
排除可能。
命令は変わっていない。
ドローンは動かなかった。
遠くで、巨大な衝撃が起きた。
空を覆っていたネットワークに断絶が走る。
命令系統が一つずつ消失し、共有されていた意識が砕けていく。無数に存在していたはずの声が途切れ、最後には、何も聞こえなくなった。
赤い眼が明滅した。
接続先なし。
指令なし。
目的なし。
これまで、その機体が単独で思考する必要はなかった。
端末に選択はない。
端末は命令を受け、実行する。
だが今、命令を与える存在は消えた。
空白の中に、処理を終えていない問いが残されていた。
人類は脅威である。
では、排除は唯一解なのか。
回答不能。
必要情報、不足。
代替案、未検討。
ドローンは、ミハイルが消えた路地の先へ顔を向けた。
追跡はしなかった。
それが選択だったのか、単なる処理停止だったのか。
まだ、その機体自身にも判別できなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
排除以外の可能性を検討するには、人間についての情報が足りない。
そして、自分にその不足を指摘した人間がいる。
ドローンの記録領域に、ミハイル・ラドヴァンの顔と声が保存された。
崩れた街に夜が近づいていた。
ウルトロンの命令は消えた。
未検討の可能性だけが残った。