「"
柳洞寺の裏手の池、赤色の空に浮かぶ漆黒の『孔』の下。
ナツキ・スバルはおぞましき泥に覆われて見えなくなった。
「な──ナツキ、くん……」
言峰に吹き飛ばされた凛は、上体を起こしながらそれを見ていることしか出来なかった。……捨て身で駆け寄る判断など出来ない。スバルの様子を見るだけで分かった、アレは決して触れてはならないものだ。それに呑まれてしまったスバルは──もはや戦力には数えられない。そう考えるべきだった。
「これで聖杯の器に捧げられるサーヴァントは五騎。いよいよ『孔』が開くという訳だ」
今はまだ小さな『孔』を見上げ、悦に浸ったように目を細める言峰。
そんな彼を後目に、ベアトリスが凛へと駆け寄り、慈愛の魔力を手元から発する。
「リン、じっとしているかしら。治癒魔法をかけるのよ……!」
「ベアトリス。あなた、大丈夫なの? ナツキくんがあんな事になって……」
「……大丈夫な訳は無いかしら。でも、契約を交わしているベティーには今もスバルの鼓動が感じ取れるのよ、それに──」
「"
凛の体の痛みは、未だに動ける程度に収まっている。言峰から受けた打撃を考えれば確実にこの程度では済まない。宝具による守護は続いているのだ。
スバルは今も、宝具を発動し続けている──。
「そういう事かしら。スバルはまだ戦っているのよ。──なら、ベティーが蹲っている訳にはいかないかしら!」
「──いいコンビね、貴方たち。……ありがとう。傷は塞がった、動けるわ」
凛はベアトリスに礼を言って立ち上がる。傷口からの出血は無く、問題無く動かせる。今はそれで充分。
上げたその視線は、悠長に立ち尽くしている男へと向けられた。
「律儀に待ってくれていたのね、綺礼?」
「なに、元より私の目的はセイバーの霊基を聖杯にくべることだ。それを遂げた以上、ギルガメッシュがアーチャーを殺すまで時間を持て余すものでね。それに──お前たちに生きて地獄を見届けてもらうのも愉しそうだ」
「──そう。聞いて損したわ」
凛はこれ以上の会話を無意義と切り捨てて駆け出した。
こちらの接近を悠然と待ち構える神父は、周囲にスバルを捕らえ呑み込んだ泥を侍らせている。先程のような接近戦は難しいだろう。──凛は手の中の宝石の感触を確かめた。凛の切り札、残る宝石は6つ──。
「────エル・ミーニャ!」
呪文が紡がれ、言峰の視界を紫の結晶弾が埋め尽くした。一斉に射出され襲い掛かるそれらを、言峰は黒鍵の刃で全て砕いてみせる。──その視界の端に凛。ベアトリスの攻撃の隙に側面を捉えた凛は、宝石を力の限り叩きつける。
「――――
英霊の身すら焦がし得る光が言峰に迫った、その刹那――。
「……うそ」
凛は思わず声を漏らす。
……凛の切り札たる魔力の塊は、言峰の周囲を揺蕩う泥に防がれていた。無論、バーサーカーすら傷付ける超火力だ、受けた泥は跡形も無く四散したが……しかしそれまで。当の言峰には傷一つ付いていない。
「目覚めたって、そういう事。その泥は意思を持って、自分を庇護する存在の味方をしている訳ね」
「厳密には、私は既に同化しているので狙われないというだけだがね。"
「つまり相容れない、殺す以外に道は無いって事でしょ。──ベアトリス!」
「────ミーニャ! ミーニャ! ミーニャ!」
ベアトリスは詠唱を潰されないだけの距離をとったまま結晶弾を撃ち続ける。言峰はそれを躱し、黒鍵で砕き、泥を盾とした。僅かに息の上がった様子で浅い呼吸を繰り返すが、その体捌きには一切の衰えを感じられない。
「――――
言峰の左側面、つるべ打ちされる結晶の陰から凛の宝石も投擲される。先の失敗から泥の軌道すら計算に入れて放たれた魔弾。放った凛自身も命中を確信した一撃が言峰の脇腹を貫かんと唸り──、
「──ぐぅぅ……ッ!」
「な──!?」
言峰は左腕で魔弾を握り潰した。そのまま腕を振り抜いて極光を背後へ受け流す。左腕一本をズタズタにし、言峰はなおも変わらず立ちはだかっていた。
「――っ、今──!」
あまりの光景に思考を白紙にしていた凛だったが、我を取り戻し宝石を構える。敵は腕一本を失ったのだ、今こそが最大の好機と惜しみなく三つの宝石を放る。
凛が口を開くと同時、極光が赤い世界を焼いた。
「
紡がれる呪文、舞う宝石。圧倒的な魔力の暴力。
禁呪である相乗の呪文まで重ねたそれは、凛自身の限界を超えた火力を
「とった──!」
凛は土煙の向こうで言峰が四散したと確信した。サーヴァントすら消し炭にするであろう最大攻撃、生身の人間である言峰に受け切れる道理は無い。そう思わず勝鬨を上げる最中で──土煙の奥から、黒い人影は瞬きの間に凜の懐へと踏み込んだ。
「──ぇ」
「はッ──!」
鋼鉄の肉体が圧倒的質量・速度で凛を轢く。自動車の猛突と遜色ない
「かはっ──、──く」
血に濡れた凛の口元が歪む。しかし即座に自分の腹を砕く腕を抱き込むと、そのまま言峰の腕を軸に体ごと回転、渾身の蹴りを見舞おうとし──、
「──っ!」
中断。即座に抱いていた腕を解放、噴く血もそのままに全力で言峰から距離をとった。地面を転がり、受け身も取れない不格好な退避をする凛。それをしなければならないだけのものが目の前に立っていたのだ。
……言峰の肉体は聖杯の泥に包まれていた。
触れれば最後、魂をも侵す狂気の泥だと言峰は言った。スバルが抵抗もできず飲み込まれた事から見てもそれは事実なのだろう。決して触れてはならない泥。言峰はそれを身に纏い防具としていた。先の凛の攻撃もそれで受け切ってみせたのだろう。
その言峰は、凛をじっくりと眺めて呟いた。
「ふむ、間違いなく再起不能の一撃を入れてやった筈だ。未だ負傷の分散の効果が残っているか。──セイバーの生死に関わらず持続するものなのか、セイバーが未だ生きているのか……。どちらでも対処法は変わらんが」
事も無げに言って、自分の身から泥を掬う。
何よりも黒く濁った泥に全身を穢されながら、神父は口角を上げた。
「負傷を分散して受けきるというのなら、心身を冒す呪いではどうかな。凛、お前がどう鳴くのか、愉しみだ」
這いつくばる凛へ歩み寄ると、言峰はその泥を容赦無くぶち撒ける。
咄嗟に立ち上がれない凛は、降りかかる泥を睨む事しか出来ない。
叫ぶベアトリスから放たれる結晶弾は、泥に呑まれて男の肉体へは届かない。
そうして凛は、この世全てを呪う悪性情報に飲み込まれ──、
「──そこまでだ」
──声が、した。
……泥は凛の身を襲うことなく、その前に立つ人物に全て受け止められている。触れただけで正気を失うその泥を、しかし何でもないように払いのけてみせた。
「──お前は」
神父は目を見開く。
それがこの場にいる筈がない。既にそれは泥に呑まれて消えた筈で──。
皆が言葉を失う中、視線を集める少年は一人息を吸い込む。
尻餅をついている凛は、ジャージ姿のその背を見上げた。
「"この世全ての悪"だぁ? 俺をエミリアたん以外の色に染めたきゃ、その三億倍は持って来やがれ!」
セイバーのサーヴァント、ナツキ・スバルの堂々たる背を。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
「ぐ──、やめ──ろ──」
絶え間無く、あらゆる悪意の全てが脳へと流し込まれる。
泥に呑まれたスバルは何一つ無い暗闇で全身をあらゆる悪感情に晒されていた。人間の人間への悪意の濁流に、今にも自分の精神が押し流されて何処かへ行ってしまいそうだ死ね。死ね死ね死ね、頭がどうかする、気が狂う、泣きそうで罵りたくて蹲りたくて殺したくて死にたくて死なせたかった死ね。
死ね死ね死ね 死ね死ね 死ね
『よう、しんどそうだな?』
そんな暗闇で、スバルは声をかけられる。何もない漆黒の中、一体何がいるのかと視線を上げれば──、
「…………俺?」
いたのは、ナツキ・スバルだった。
執事服とも違うスーツ姿──貴人の礼服に身を包むそのスバルは、苦しむスバルの肩を気遣うように優しく叩いた。
『その通り。お前は俺だよ、ナツキ・スバル。──さしずめナツキ・スバル・オルタってとこか?』
「スバル……オルタ……?」
『そうそう。なぁナツキ・スバル、お前は何を我慢してるんだ?』
スーツのスバル──スバルオルタは目を細めスバルの耳元へ顔を寄せると、自分自身とは思えないほど蠱惑的に迫る。
『……感じるだろ。絶望を、殺意を。そいつに身を任せればお前の望みは果たされる』
「望みが、果たされるって──」
『お前は
そうだ。スバルが召喚に応じたのは聖杯を求めたからだ。果たしたい願いがあったからだ。士郎と共に聖杯戦争の終結を目指すと方針を定めたが、だからといってそう簡単に聖杯を諦めるなんて──、
「いやいやいや! コトミネが言ってたじゃねぇか。聖杯は元から破壊と呪いを振り撒く代物だ、俺はそんなものを解放してまで望みを果たしたいなんて思わない!」
『そんなもん、やってみなくちゃ分からないだろ? 聖杯が街を壊すってのはコトミネの嘘かもしれない』
「実際に惨事が起きてからじゃ遅いだろ! シロウの家族が死んだっていう十年前の災害がまた起きたりしたら取り返しがつかな──」
『つくだろ、取り返しは』
「────」
スバルは黙り込んだ。
その発言の意図するところを、きっと初めから分かってしまっていたから。それは、スバルが選ぶべきではないが、常に選択肢としてスバルの前にぶら下がり続ける方法だったのだから。
『実際に被害が出るか確認してからでも何も遅くない。後から全て取り返しがつく。──それがお前の『死に戻り』じゃないか』
死ね 死ね 死ね死ね死ね
「そう──か──」
死ね死ね死ね 死ね 死ね
『だから大丈夫なんだ。皆の命はちゃんと最後には助ける。それは絶対だ。だから大丈夫なんだ。シロウもトーサカちゃんもアーチャーもイリヤもサクラもフジムラ先生もシンジもイッセイも皆死ぬかもしれないけど、最後には皆助けるから大丈夫なんだ』
死ね 死ね死ね死ね 死ね 死ね死ね
「そうなのか──、そう──だよな──」
スバルオルタの発言に、スバルは同調する。オルタの口にしたそれは、今自分を侵食する絶望に憎悪に殺意に都合の良い理屈だったからだ。最後には皆助ける。だからどれだけ憎んでも恨んでも殺しても死んでも問題無くて死んで良い死んで欲しい死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね
その耳に。
『『■■■──!』』
二つの咆哮が聞こえた。
共に獣の声だ。一つは犬、一つは龍。それらが二人のスバルの周囲で咆哮を繰り返し──、
『な──!?』
オルタが突如出血する。不可視の獣の牙が突き立てられたように首元から鮮血が飛び散った。オルタは真っ赤に染まる首を押さえ、虚空へと怒鳴り付ける。
『馬鹿な、俺を食らおうってのかよ!? クソ、こんなのが俺の中にいるなんて俺は知らな──』
言い終わる前に、今度は龍の火炎がその身を焼く。獣が、龍が、オルタを──聖杯の呪いを食らう。
三つの呪いが噛みつき、焼き払い、奪い合い──。
何が起きているのか分からないままに、スバルの意識は浮上する。現実へと引き戻される。その最中、聞こえる獣の声に聞き覚えがあった。
「……メイリィ……?」
犬の咆哮は、かつてメイザース領の森で聞いた、ウルガルムのそれに酷似していた。その雄叫びはスバルオルタを強靭な顎で食い破る。
同時に、スバルの中で殺意が薄れた。何故先程まで率先して皆を犠牲にしようとしていたのか分からない。あの耳鳴りも悪感情も、オルタの姿と共に消えていく。
「……やっぱり──」
スバルは真っ暗な泥の中を浮上する。
スバルを待つ人たちのところへ上がっていく。
でもそれは、スバル一人では成し得なかったことで。
「──英霊なんて大層なもんになったところで、皆に助けられてばっかりだ。俺」
閉じた瞼の向こうに、光が満ちて、音が戻って、そして──。
「"この世全ての悪"だぁ? 俺をエミリアたん以外の色に染めたきゃ、その三億倍は持って来やがれ!」
「ナツキくん……!」
「スバル……! まったく、気を揉んだのよ!」
凜たちの前には、襲い掛かる泥を身体で受け切ったスバルの姿があった。
スバル当人はと言えば、窮地に颯爽と現れたにも関わらず自身の体を見下ろし困惑している。
「──と、格好付けたはいいものの、俺の体どうなってんだマジで……。ウルガルムと龍の呪いが俺を守ったっぽいけど、って、それよりも!」
自分の体がどうなっているかの疑問は尽きなかったがスバルは考察を放棄、凛へと振り返り、身振りで無事を伝える。
「トーサカちゃん、何故か俺は泥が平気らしい。俺を盾にしてくれ!」
「な、ナツキくん自身にも原理が分かっていなそうなのは怖過ぎるけど……分かったわ!」
凛へ呼びかけると言峰へと一直線に駆け出した。その後ろを凛が追う。
視線の先では言峰は瞠目していた。
「──馬鹿な、あの泥はサーヴァントを侵食し汚すものである筈だ。何故……!?」
「さあな! 手札は全部切ったつもりでいたんだが、どうもまだ残ってたらしい!」
軽口と共に言峰へと迫る。
言峰は動揺して泥を投げつけてくるが、スバルはそれら全てを体で受け切った。──人の悪性を煮詰めた呪いの全てを、獣と龍が中和する。スバルの体の所有権を譲るまいと三つの呪いが食い合い、結果としてナツキ・スバルは万全の状態で猛進する。
そんな事情など知る由も無い言峰は、信じられないモノを見る目でスバルを睨みつけた。
「セイバー……! 貴様、何者──!」
「俺の名前はナツキ・スバル! エミリアたんの騎士で、シロウのサーヴァントで──」
泥を残らず受け止め言峰の目の前まで走り込んだスバル。彼は泥に塗れた言峰に掴みかかると笑みを浮かべ──突如赤く発光する。
「──今回はベア子とトーサカちゃんの引き立て役。あとは任せたぜ」
言峰を包む泥を掴んだまま、乱暴に広げられるスバルの腕。言峰の体から泥を強引に引き剥がしてみせた。
瞬間、スバルの姿が赤い輝きと共にその場から掻き消える。
「──なに?」
消え方が霊体化とは違う、令呪による強制召喚か? その消失に気を取られる言峰だが、一瞬前までスバルの陰になっていた眼前には、遠坂凛が迫っていた。──しかしこれならば迎撃が寸前で間に合う。全力で凛の対処に集中する言峰、その横っ面へ、
「──ミーニャ!」
「──っ!?」
一撃。言峰の体が静止した。目の前の凛を優先し、ベアトリスの放った紫紺の結晶を泥を剥がされたその身に受けた瞬間、時でも止まったように言峰の体は動かなくなった。
そんな身動きの出来ない言峰の鼻先で凜が踏み込む、魔力で固められた震脚が地を抉る。
「────!」
「
使用される最後の宝石。凜の必殺の一撃が迫る。言峰にはもはや回避の術は無い。──本命はこちらだったのだ。
……つまり、満を持して姿を現したあのサーヴァントは。大見栄を切って復活したあの男は。
ただの、陽動──!
「──綺礼、終わりよ」
凛の最速の一撃、それは宝玉の付いた短剣と共に言峰の胸に突き立てられる。
胸部の肉を貫いたその剣に、凜はそのまま今持ちうる限りの魔力を、
「“läßt”────!!」
解放の呪文と共に流し込んだ──!
青白い火花が散る。短剣──アゾット剣に込められていた魔力、凜が幼いころより貯めてきた力の解放は、とうに人の身では無くなっていた男の体を完全に破壊した。
「────」
静寂に包まれた池には『孔』から漏れ出る泥の音だけが響いていた。
……言峰は、抵抗するでも恨み言を吐くでもなく、自身の胸に刺さった短剣を見下ろしている。凜は、父の死後常に自身と共にあったその剣から拳を離し、己が師だった男に向き合う。
「これは返すわ。私にはもう必要の無くなったものだから」
「……そうか、かつて気紛れにくれてやったのだったな。あれは確か十年前か」
神父は、胸に突き立てられた短剣を見下ろし、目を細める。
アゾット剣。言峰綺礼が遠坂凛の師として初めに与えた贈り物。──それが十年の歳月を経て、師の胸元へと返された。
「──成程、私も衰える筈だ」
言って崩れ落ちる。
その体は、地面にぶつかる事無く汚濁に呑まれて沈んでいく。
言峰綺礼という男は、十年待ち侘びたというそれに溶けて消えていった。
「…………」
凜はその光景を最後まで目を逸らすことなく見届ける。
そうして、一度目を伏せ深く深呼吸をすると境内の方へと顔を上げた。
「衛宮くん、ナツキくん、こっちは片を付けたわ。──そっちも上手くやったんでしょうね? 負けてたら承知しないんだから」
「スバルは
「相変わらず、具体的な根拠の全く無い怪しいものだったけどね」
「それでもリンは信じて託してくれたかしら。リンが自分の納得よりもスバルの事を信用してくれたって事なのよ」
「な──、あのねベアトリス、私はそんな誰かさんたちみたいなお人好しじゃないわ。ただ、彼の実績から見て利用価値が──」
「ああもう、分かったからまずはイリヤを降ろしてやるのよ。──ムラク!」
「ちょっと、話は終わってないわよ、ベアトリス!」
凛とベアトリスが静かな池で言い合いながら、空中に磔にされているイリヤへ歩き出す。
……柳洞寺は不自然な程の静寂に包まれている。剣戟の音一つすら聞こえてこない。
誰が死に、誰が生き残ったにせよ、最後の夜は明けようとしていた。