マンハッタンカフェになったおじさんの、現実世界奮闘記。カフェとお友達を添えて。 作:灯火011
ひんやりとしたフローリングの感触と、やけに鼻をくすぐる深く焙煎されたコーヒーの香りで意識が浮上した。
重たい。頭が、いや、首筋から背中にかけて、黒々とした重力のような質量がのしかかっている。
ゆっくりと身を起こすと、視界の端を滑り落ちてきたのは、どこまでも深い漆黒の長髪だった。男であったはずの自分の身体には、絶対に存在しないはずの圧倒的な髪のボリューム。そして、パジャマ越しに伝わってくる、明らかに華奢で、どこか重心の異なる身体の造形。
混乱のままに立ち上がり、ふらつく足取りで部屋の隅にある姿見の前に立った。
そこに映っていたのは、アンバーにも似た黄色がかった瞳を持つ、見知らぬ少女だった。病的なまでに白い肌、重たく切りそろえられた前髪、そして足元まで届きそうなほどに長い黒髪。男だった頃の自分とは似ても似つかない、しかし、どこかひどく「見覚えのある」造形。
(なんだこれ。何かのキャラクターか? いや、しかし、夢にしてはあまりにも足の裏の冷たさがリアルすぎ)
「……あー、……あの?」
喉から出た声は、掠れたように細く、どこか静謐さを帯びた少女のそれだった。自分の声帯から発せられたとは思えない音に背筋が凍る。
しかし、本当に心臓が跳ね上がったのはその直後だった。
『……おはようございます』
脳内に直接響くような、しかし耳から確かに聞こえたような、自分がいま発したのと同じ声の幻聴。鏡から視線を外すと、部屋の隅の薄暗がりに「それ」はいた。
一人は、姿見に映る今の自分とそっくり同じ姿をした、半透明の少女。彼女は実体のない湯気を立てるマグカップを両手で包み込むように持ち、静かにこちらを見つめていた。
そしてもう一つ。透き通った彼女の背後に、ぬらりと蠢く黒い影のような存在。それは明確な輪郭を持たないが、不思議と敵意は感じられず、むしろ親しげにこちらへ手を振っているように見えた。
幽霊、と呼ぶにはあまりにも現実味を帯びた存在感。パニックになりかける思考が、なぜかその黒い影を見ていると不思議と落ち着いていく。
「あ。ええ? 君は……いや、ここは、どこなんだ。俺はどうなった?」
なんとか絞り出した質問に、半透明の少女は静かに目を伏せ、カップに口をつける仕草をした。ふわりと、またコーヒーの香りが漂う。
『ここは、あなたが普段過ごしている部屋です。何も変わらない、普通の現実ですよ。ただ、あなたの魂の容れ物が……私という形に変わってしまっただけで』
「い、いつもの、部屋? 形が、変わった?」
少女の言葉を反芻する。恐る恐る窓の外を見れば、見慣れた日本の都市の風景があり、電線には雀が止まっている。まごうことなき、いつもの日常だった。
『ええ。そして、私は……元々この形を持っていた魂の残滓のようなもの。あちらの黒い子は、私と、そしてこれからはあなたについて回る……お友達です』
黒い影が、嬉しそうにゆらゆらと揺れた。まるで「よろしく」と言わんばかりに。
改めて、今の自分の状況を整理する。
自分は男としての人生を終え、あるいは上書きされ、どこか不思議と見覚えのあるこの長い黒髪の少女の姿になってしまった。舞台はファンタジー世界でもなんでもない、残酷なまでに平凡な現実世界。
そして、戸籍も身分もどうなっているか分からないこの身体には、本来の持ち主であるらしい「霊」と、奇妙な「お友達」がセットで憑依している。
「……現実世界で、この身体で、生きていかなきゃならないってことか」
『……はい。ご不便をおかけしますが、どうか、よろしくお願いします』
半透明の少女は、申し訳なさそうに、しかしどこか少しだけ安堵したような表情で小さく頭を下げた。
長い、本当に長い黒髪が、今の自分の動きに連動してサラリと床を擦る。まずは、この扱いにくい髪をなんとかすることから始めなければならないかもしれない。
漠然と、後で少し切ろう――狼のようにはねた感じの短さにしよう――と現実逃避気味に考えながら、俺は深い深いため息をついた。
■
床まで届く長い髪を持て余しながら、俺は改めて目の前の半透明な少女に向き直った。
「ああ、ひとまず名前だ。俺は四月一日。君は?」
『マンハッタンカフェと申します』
静かな、しかし凛とした声。その名前に、俺の記憶の底で何かが微かに引っかかった。
「マンハッタンカフェ? ……馬の名前で、聞いたことはあるけど」
確か、昔の有名な競走馬のはずだ。しかし、少女は不思議そうに小首を傾げた。
『馬? 私はウマ娘、ですよ』
「ウマ娘?」
思わず聞き返した俺に、彼女は少しだけ寂しそうな、探るような目を向ける。
『……ご存じありませんか』
「知らない……あー、ってわけでもない。そういえば最近、テレビで少し見たかな」
深夜の番組だったか、あるいはスマートフォンのCMだったか。今の自分が持っている異常に長い髪も、黄色がかった瞳も、言われてみればその「ウマ娘」とやらで見かけたキャラクターの造形に似ている気がしてきた。なるほど、だから妙に見覚えがあったのか。
俺の曖昧な返答がなぜかツボに入ったのか、彼女の背後に漂う黒い影が、ふりふりと楽しげに揺れた。なんだこいつ、得体が知れないくせに妙に愛嬌があるな。
「てか、その、だ。俺はなんでこうなってるんだ? 現実世界でアニメか何かのキャラクターになっちまうなんて、どういう理屈だよ。なんか君は知ってるのかい? マンハッタンカフェ」
矢継ぎ早に問いかける俺に、彼女は困ったように、けれど優しげに微笑んだ。
『……カフェで構いません。そして、私はアニメのキャラクターではないですよ。実在しています』
一つ小さな息を吐いて、彼女は実体のないマグカップを見つめる。そして、どこか諦めたような、途方に暮れたような表情を浮かべた。
『それはともかく、理由、ですよね』
そう言って苦笑する彼女の顔は、今の俺の顔と瓜二つのはずなのに、俺には到底出せそうにないほど儚げで、そして静かな諦観に満ちていた。
■
『強いて言えば、そうですね。女神さまのイタズラ、と言いますか。端的に告げれば………、偶然、です』
カフェはどこか楽しげに、ふふっとかすかに笑った。
『私は少々、その……霊感がありまして。そちらの方面の厄介事を解決しようと動いていたら、少々失敗してしまいまして。結果として、こちらの世界に飛ばされてしまったようなのです』
「ほ? ほう?」
突拍子もないオカルト発言に、俺は思わず間抜けな相槌を打ってしまった。
「いや、すごい話だけど。ちょっと待って、じゃあなんで『俺』がこの身体に入ったんだ?」
俺の切実な問いに対し、彼女は小首を傾げ、さらりとこう答えた。
『次元を越えたときの、衝撃ですかね?』
「いや、疑問形で俺に聞かれても!?」
思わず声を荒げると、彼女の背後にいる黒い影が「うんうん」と同意するように揺れた。お前も分かってないのかよ。
『まぁ、なってしまったものは仕方がありません。そのうち、何とかなると思いますよ』
「こっちは不安でしかねぇよ……!」
マイペースすぎるカフェの言葉に、俺は思わず頭を抱えた。その動作に合わせて、やはり異常に長い黒髪がファサリと腕に絡みついてくる。
「てか、仕事どうすんだこれ? この見た目で……」
『ちなみに、何のお仕事をされているのですか?』
「ガテン系だ。重い資材運んだりする、ゴリゴリの体力勝負」
パジャマの袖から覗く、自分のものとは思えないほど白くて華奢な腕を見下ろす。どう見ても十代の少女の腕だ。こんな細い腕で鉄パイプやセメント袋を持てるわけがない。完全に生活の危機だった。
しかし、俺の絶望をよそに、カフェは口元に手を当てて上品に笑った。
『それなら、安心してください』
「……は?」
『ウマ娘の力は、人間の成人男性よりも、ずっとずっと強いのです』