マンハッタンカフェになったおじさんの、現実世界奮闘記。カフェとお友達を添えて。 作:灯火011
ホテルのスイートルームに軟禁……、という名の超絶VIP待遇されてから数日後。俺の目の前のふかふかのソファには、テレビのニュース番組でよく見る顔が座っていた。
「なるほど……確かに、人間じゃあないですね。あなたが、ウマ娘ですか」
パリッとしたスーツを着こなす、某省庁のトップである女性大臣。クールな印象で知られる彼女だが、一部の界隈では「筋金入りのオタク」であると噂されている人物だ。
彼女は俺の頭でピクピクと動く馬耳を食い入るように見つめながら、少しだけ、いや、かなり興奮したように鼻息を荒くしていた。
「ええと、一応、別室で『確認』させてもらってもよろしいですか?」
至極当然の要求に、しかしながら思い切り私情が入っている言葉に俺は苦笑しながら「どうぞ」と頷いた。スイートルームの奥、広々としたベッドルームに二人だけで入り、扉を閉めた。
■
数分後。
「……素晴らしい。本当に骨格から繋がっているのですね。あの毛並み、あの筋肉の躍動感……ふふっ、最高です」
部屋から出てきた大臣は、頬を紅潮させ、ひどく満足げな――完全に「限界オタク」の顔になっていた。カフェがNGを出す程度にまでは満足いくまでモフモフさせたのだ。俺の耳と尻尾は少しだけ乱れていたが、まあ権力者の協力を得られるなら安いものである。
「納得しました。この件、国の方でも極秘裏に協議を進めましょう。戸籍や法的な身分の保証など、特例措置が必要になるでしょうから」
大臣が頼もしい言葉を口にすると、同席していたJ〇Aの近藤と、Cy〇amesの秋山がホッと胸を撫で下ろした。そして、二人は改めて背筋を伸ばした。
「ではまず、現状ですが。親会社の方で権利関係の調整を進めています」
と、秋山がタブレットを開きながら提案してくる。
「それと並行しまして、ですね。何時までもこのように監禁のような形とを執るわけにもいきません」
続けて、近藤が口を開く。
「いきなり『本物が現れました』と言うと世界中がパニックになりますから、まずは『公認の公式イベントコスプレイヤー』という名目で世に出すのはどうでしょうか? うちと秋山さんの所でバックアップし、『圧倒的なクオリティのコスプレ』、ということにすれば、SNSの反応もコントロールしやすいかと」
「なるほど、悪くない隠れ蓑ですね」
と大臣も頷く。
大人たちが、俺というイレギュラーな存在を社会の枠組みにどう組み込むか、真剣な顔で丁々発止の議論を交わしている。当の俺はといえば、執事が淹れてくれた最高級のコーヒーを啜りながら、それを完全に他人事として眺めていた。
(へえー……国とか大企業が本気で動くと、すごいスピードで物事が決まっていくんだな)
俺の隣では、半透明のカフェも実体のないコーヒーを上品に飲みながら、
『なんだか、大きな話になってきましたね』
と小首を傾げている。
「ひとまず、この場では方向性と事実の確認までとしましょう。具体的な動きについては、また追ってご連絡します」
大臣たちは立ち上がり、嵐のように去っていった。
■
再び、広大なスイートルームに取り残された俺たち三人。
静寂の中、俺はふかふかの絨毯の上に大の字に寝転がった。衣食住には何の不自由もない。食事は三ツ星レストランの味がルームサービスで運ばれてくるし、風呂は無駄に広くて泡風呂まで楽しめる。
だが、根が労働者のオッサンである俺にとって、この「何もしなくていい時間」はひどく退屈だった。
「……とはいえ、現場に行って土方の仕事も出来ねぇし。これ、これからどうしたもんかなぁ」
有り余るウマ娘の体力が、身体の中で燻っているのを感じる。俺はむくりと起き上がり、部屋の隅に控えていた初老の執事に声をかけた。
「あのー、執事さん」
「はい。何なりと、四月一日様」
「ずっと部屋にいるのも窮屈で。せめて、少し思いっきり体を動かしたいんだけども……」
外に出られない以上、ホテルの廊下を走るわけにもいかない。せめて腹筋や腕立て伏せでもするかと考えていた俺に対し、執事は恭しく一礼し、涼しい顔でこう言い放った。
「畏まりました。では、当ホテルの室内プールと、フィットネスジムを『貸し切り』にいたしましょう」
「……はい?」
「四月一日様がご満足いただけるよう、他の一般客の皆様やスタッフの立ち入りを一時的に制限し、完全なプライベート空間としてご用意させていただきます。水着やウェアの手配もすぐに行います」
俺はポカンと口を開けた。ちょっと汗をかきたいと言っただけで、帝国ホテルの巨大な施設を丸ごと貸し切ってしまうとは。VIP待遇もここまでくると、もはやギャグである。
「お、おう……じゃあ、それで頼むわ」
俺がなんとか頷くと、執事は、
「直ちに手配いたします」
と優雅に一礼し、部屋を出て行った。
『……ふふっ。プール、いいですね』
俺の隣で、カフェが実体のない口元に手を当て、とても楽しそうに笑った。足元では、お友達(黒い影)がクロールの真似をするように腕をグルグルと回し、「泳ぐぞー!」と大はしゃぎしている。
「まあ、そうだよな。せっかくの好意だ。水遊びと洒落込もうぜ」
突然のセレブ生活に戸惑いつつも、俺はこれから届くであろう高級な水着と、完全貸し切りのプールでのバカンスに、少しだけ心を躍らせていた。
■
ホテル側が用意してくれた、黒を基調としたスポーティで品のある水着に着替え、俺は完全貸し切りの室内プールへと足を踏み入れた。
水面の揺らめきと、微かな塩素の匂い。17メートルという決して長くはない距離だが、体を動かすには十分すぎる環境だ。
準備運動を軽く済ませ、プールサイドから勢いよく飛び込む。
すると、水に入った瞬間、俺は自分の身体能力の異常さを改めて思い知ることになった。壁を蹴って進む「けのび」だけで、プールの半分近くまで到達してしまうのだ。そこから軽くバタ足を打ち、水を掻くと、身体がまるでスクリューを搭載した小型魚雷のように前へと射出される。
「うおおっ!? はやっ、水が軽い!!」
水の抵抗など存在しないかのような圧倒的な推進力。
息継ぎすらほとんど必要なく、17メートルのプールを文字通り「右往左往」と爆速で往復する。水を掻き分けるというより、水ごと空間をぶち抜いて進んでいるような感覚がたまらなく楽しい。
バシャンッ!
と水飛沫を上げてターンを決めた時、ガラス張りのドアの向こうから、信じられないモノを見るような視線を感じた。いつの間にか視察という名目で、様子見に来ていた〇ygamesの秋山だ。
彼はガラスにべったりと両手と顔を押し付け、俺が引き起こした凄まじい波立ちと白波を見つめながら、うわ言のように呟いていた。
「う、ウマ娘だ……本当にウマ娘だ……」
現実世界の物理法則を無視した泳ぎを目の当たりにして、秋山のオタク心と企業担当者としての理性が再び激しいエラーを起こしているようだった。
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プールの後、秋山の提案で、身体スペックの確認がてら俺たちはそのまま併設された、フィットネスジムへと移動した。最新鋭のトレーニングマシンがズラリと並ぶ空間。執事が恭しくバスタオルとミネラルウォーターを手渡してくれる。
「それじゃあ、いっちょ上げてみるか」
俺はウェイトトレーニング用のバーベルが設置されたベンチに仰向けになり、両端のプレートをマシンの最大重量(約150キロ)に設定した。人間であれば、熟練のボディビルダーやアスリートでなければ持ち上がらない重量だ。
秋山と執事が固唾を呑んで見守る中、俺は細い腕を伸ばし、バーを握る。
「ふっ」
ガコンッ、スッ……。
「……ん? 軽っ」
拍子抜けだった。
150キロの鉄の塊が、まるで発泡スチロールの小道具か何かのように、一切の抵抗なく持ち上がったのだ。胸元まで下ろし、再び上げる。下ろして、上げる。呼吸一つ乱れず、腕の筋肉が震えることさえない。テレビを見ながらポテトチップスを食べるような気軽さで、俺は最大重量をポンポンと上下させた。
「ああ、これ、これほんとうに……うまむすめ……うまむすめだ……」
秋山は完全に放心状態となり、焦点の合わない目が虚空を彷徨っている。そして、これまでどんなVIPの要求にも顔色一つ変えなかったあの完璧な執事でさえ、目を丸くして口をパクパクとさせていた。
「さ、流石にこれは……人間の骨格と筋繊維では、説明が……」
大の大人二人が絶句する中、俺は「もういいや」とばかりに、150キロのバーベルをひょいと『片手』でラックに戻した。
『おもちゃ、ですね』
ガシャン、という重たい金属音がジム内に響き渡るが、俺の細い腕には一切の疲労感はない。
うーん、実に規格外だこと。
■
「次は走ってみるか」
ウェイトに見切りをつけた俺は、隣の最新式ランニングマシンに乗り込んだ。パネルを操作し、設定できる最速の時速20キロに合わせてスタートボタンを押す。
ウィィィィン!!
というモーター音と共に、ベルトが猛烈な勢いで回転し始めた。時速20キロといえば、人間にとっては「全力疾走」に近い速度だ。これを数分維持するだけでも、並のアスリートなら息が上がり、汗だくになる。
「タッタッタッタッ」
俺は回転するベルトの上で、ごく自然なフォームで走り始めた。足音は驚くほど軽く、規則的だ。しかし、俺にとってこの速度は――。
(……ただの小走りだな、これ)
息も上がらなければ、汗一つかかない。
まるで近所のコンビニへ散歩に行くような顔つきで、時速20キロのベルトの上を優雅に走り続ける美少女。秋山と執事の目は、もはや点になっていた。人間用の最高峰の機材が、ウマ娘の前では完全に児戯に等しいことを証明してしまったのだ。
しかし、この状況に最も不満を抱いていたのは、見学していた大人たちではなく、俺のすぐ隣にいた者たちだった。
『……遅いですね』
マシンの横にふわりと浮かんだカフェが、回転するベルトを見つめながら、ひどく退屈そうに呟いた。彼女のアンバーの瞳には、「こんなのは走るうちに入らない」という明確な不満が浮かんでいる。
そして俺の横を並走するように漂っているお友達の黒い影も、(遅いなコレ……)とでも言いたげに、呆れたように首を大きく横に振っていた。
時速60キロオーバーで芝生を爆走する彼女たち。そして今の俺にとって、時速20キロの制限付きマシンなど、フラストレーションが溜まるだけの代物でしかない。
「あー……秋山さん」
俺は時速20キロで涼しい顔をして走りながら、放心状態の秋山に声をかけた。
「これ、もっと速く回るやつないっすか? ちょっと物足りないっていうか、隣の連中もご不満みたいでして」
俺の言葉に、秋山はついに膝から崩れ落ち、頭を抱えて唸り声を上げた。執事はただただ、額に滲んだ汗を白いハンカチで拭うことしかできなかった。
■
ランニングマシンでの時速20キロの「お散歩」を終え、秋山と共に雑談しつつつ、再びスイートルームのふかふかなソファで寛いでいた時のことだ。
部屋の固定電話が鳴り、控えていた執事が恭しく受話器を取った。数回のやり取りの後、執事は僅かに表情を引き締め、〇ygamesの秋山と共に俺の正面へと歩み寄ってきた。
「四月一日様。先ほどの省庁の……お国の方から、折り返しのご連絡がございました」
「お、マジ? もう方針決まったの?」
俺がオレンジジュースのグラスを傾けながら尋ねると、秋山がハンカチで額の汗を拭いながら、神妙な面持ちで口を開いた。
「はい。今後の身分保証や法的な手続きを進めるにあたって、まずはあなたのその……『ウマ娘としての身体の構造』を、医学的かつ科学的に証明する必要があるとのことです」
「ふんふん」
「つきましては、国の主導で、国立病院の特別設備を使った徹底的な精密検査を受けていただきたい、と……。もちろん、極秘裏に、かつ細心の注意を払って行われます」
秋山の声は硬かった。
『国立病院での精密検査』
響きだけ聞けば、まるで未知のウイルス感染者か、あるいは宇宙人の解剖実験にでも連行されるかのような、国家レベルの重々しいニュアンスが含まれている。下手をすればモルモット扱いされるのかもしれない。
俺はグラスをテーブルに置き、隣の空間へと視線を向けた。
(どうする? カフェさん。お前さんの身体のデータを隅々まで取られるわけだが)
俺が脳内で尋ねると、半透明のカフェは実体のない口元に指を当て、少しだけ考える素振りを見せた後、静かに微笑んだ。
『……受けてもいい、でしょう。この世界で、私たちが生きていくために、必要な手続きなら、悪いようにはされないはずです』
(ウンウンッ!)
カフェの言葉に合わせるように、足元の黒い影も「問題なし!」とばかりに力強く首を縦に振った。この幽霊たち、見た目に反してやけに肝が据わっている。
「ま、こうしてても仕方がないか」
俺はソファの背もたれに深く寄りかかり、なんの気負いもない、コンビニへアイスを買いに行くかのような極めて軽いトーンで告げた。
「行きますわー」
「……えっ」
「……はい?」
あまりにも軽い即答に、秋山と執事の動きがピタリと止まった。
「いや、だから、精密検査っすよね。全然いいですよ、受けます受けます。どうせここに居ても暇だし、自分の身体が今どうなってるのか、俺自身もちょっと興味ありますし」
「あ、あの……採血とか、MRIとか、かなり大掛かりなものになりますよ……? 国家機密レベルの……」
「まあ、注射ぐらいは我慢しますよ。終わったら美味い飯でも食わせてください」
俺がへらっと笑って言うと、秋山は「ははは……」と力なく笑い、執事は「直ちに、お車と極秘ルートの手配を……」と、少しだけ足元をふらつかせながら部屋の外へと向かっていった。
―――大の大人が国家権力と未知の生物の間で胃を痛めているというのに、当の本人(と幽霊たち)は、どこまでもマイペースにこの非日常をエンジョイし続けていた。