マンハッタンカフェになったおじさんの、現実世界奮闘記。カフェとお友達を添えて。 作:灯火011
関係者以外立ち入り禁止の、静寂に包まれた広大なターフ。
俺は軽く息を吸い込み、真新しい黒いプロトタイプの靴で、青々とした芝を蹴り出した。
「おっ……」
最初はジョギング程度の軽いペースから。
普通に走れる。というかだ、普通以上に楽しく走れる。片足1000グラムという重量も、ウマ娘のバネのような脚力の前ではほとんど気にならない。
「カフェさんや、実際、どーやって走るのかしらね? この前はなんとなく走ったけど」
『走り方は……。そうですね……。以前、芝生を走った時のようにして頂ければ、問題、ありませんよ』
「りょー」
俺は恐る恐る、一段階ずつスピードを上げていった。風を切る感覚が心地よく、なるほど、これは気持ち良い。そして、改めてウマ娘の凄さを実感していた。ゆっくりと流れていた景色は、徐々に、速くなり、気が付けば、車窓から見るような速い流れの景色へと変貌していた。
「よーし、いまんところ靴は大丈夫。服は……」
『外から見た感じでは、どこも異常ありません』
そして、最初のコーナーに突っ込んだ時だった。
「ん?」
足元から、少しだけ靴が『ヨレる』ような、グニャリとした嫌な感覚が伝わってきた。強烈な遠心力と踏み込みのパワーに耐えきれず、靴がわずかに歪みを生じているようだった。
「おっと?」
『どうか、されました?』
「いや、ちょっとぐにっと。靴がな? 報告だなこれ」
俺が咄嗟に速度を緩めると、そのヨレる感覚はスッと消え、再び安定したホールド感が戻った。
(なるほど。直線はいいが、コーナーのGがかかるとアッパーとソールのバランスが崩れるのか? 底面の蹄鉄のバランスも悪いのかね? これは要報告だな)
そんなことを現場目線で冷静に分析しつつ、俺はあっという間に向こう正面、バックストレッチへと飛び出した。
流石に結構なペースで飛ばしているため、強靭なウマ娘の身体でもじんわりと汗が滲み出てくる。腕で額の汗を拭いながら、走りながらふと自分の勝負服を見下ろしてみた。
「あー……」
一見完璧に見えた勝負服だが、よく見ると腰回りの装飾と、スカートの重ね生地の部分に、少しだけほつれが生じていた。時速60キロ前後という風圧と、規格外の股関節の動きによる引っ張りに、最高級の縫製ラインで作られた服であっても悲鳴を上げ始めているらしい。
『……これも、報告ですね』
並走する半透明のカフェが、少しだけ申し訳なさそうに、しかしどこか楽しげに苦笑しながら呟いた。
そして、迎えた第3コーナー。ここで、お友達が少し前に出て、手を大きく回した。まるで、「そろそろ本気でいこーぜ?」と言っているようだ。
「こら辺から、ちょっと本気で行くか!」
『前傾のし過ぎに、注意してください。本気のスパートは初めてでしょうから、腰を落として、無理はせずに。腕の振りを大きく、そして、歩幅を大きくする、イメージで、走ってみてください』
「おっけー! やるだけやってみらぁよ!」
俺は足元のヨレを強引に無視し、グッと腰を落とした。言われた通りに一歩の蹴り足を強くする。すると、一歩進むごとに靴全体が軋む嫌な音が聞こえてくるが、カーボンでロックされた『インナー蹄鉄』が力を蹄鉄に伝え、しっかりと芝を噛んでいる。特殊ラバーも必死に摩擦に耐え、最低限のグリップを保ったまま、俺の身体を最終コーナーの出口へと導いた。
そして迎えた、誰も居ない最終直線。
俺の意志に呼応するように、カフェの身体が自然とグッと深く沈み込んだ。全身の筋肉が爆発的に躍動し、ターフを猛烈な勢いで蹴り砕く。
お友達の黒い影が「いっけええええ!!」とばかりに先行して風を切り、俺とカフェは文字通り一体となって、誰もいないゴール板を一直線に駆け抜けた。
タイムとしては、本職のウマ娘たちのレース基準からすれば遅いのだろう。だが、スタンドでストップウォッチを握りしめている大人たちの目には、人間では明らかに到達不可能な異常な数字が刻まれたはずだ。
「っはーーー! いやー、気持ち良かった!!」
俺が空に向かって叫ぶと、カフェも満足そうに深く頷き、お友達は空中で大回転して喜びを爆発させた。
――だが。
ゴールを過ぎ、俺が止まろうと急ブレーキをかけて減速姿勢に入った、まさにその瞬間だった。
バァァンッ!!
「うおっ!?」
急激な制動力と、ウマ娘の脚力から来る変形に限界を迎えたのか、靴の中で耐え続けていたカーボンと接着剤がついに破断。その影響で、蹄鉄が火花を散らして芝生の上へ豪快に吹っ飛んでいった。
さらに。
ビリッ、バツンッ!
「あっ」
限界を超えた風圧と、可動域に耐えきれず、俺の身体を包んでいた最高級のロングコートの固定金具が次々と弾け飛ぶ。そして、はらりと……まるで舞台の幕が下りるように、勝負服の象徴である漆黒のコートが、ターフの上へと無惨に崩れ落ちたのだった。
■
ターフでの激しいテスト走行(と、それに伴う装備の大破)を終え、再び帝国ホテルのスイートルームでの待機を命じられた俺たち。
―――限界を迎えて弾け飛んだ勝負服のコートは、三〇のテーラーたちが、
「これは我々への挑戦状ですね……!」
と目を血走らせながら、研究と再設計のために持ち帰っていった。ひとまず手元には、撮影や軽い運動に耐えうる「予備の勝負服」が一着残されている。一方の靴職人たちも、無残に壊れたプロトタイプを前に落ち込むどころか、
「2000メートルは確実に持ったぞ! これで基礎(ベース)は完成した!」
と歓喜の声を上げていた。彼らは今後の開発の礎として壊れた安全靴を持ち帰り、代わりに、カフェの本来の勝負服のデザインである「上履き(スリッポン)」を模した、特注の蹄鉄付きモックアップ、つまりは外見重視の試作品を部屋に置いていってくれた。本気で走ることはできないが、見た目の再現度は完璧で、歩くたびに蹄鉄がカツカツと心地よい音を鳴らす代物だ。
「……いやはや。それにしても、やはり規格外だなぁ。ウマ娘という存在は」
豪華なソファに深く腰掛けた〇RAの近藤理事が、手元のティーカップを揺らしながら、心底しみじみとした声で呟いた。
「ええ。ゲームのパラメータやシナリオで散々『人間とは違う』と描写してきましたが……現実の物理法則で見せつけられると、言葉を失いますね」
Cy〇amesの秋山も、タブレット端末で先ほどの走行データを眺めながら、深く同意するように頷いている。俺は出された最高級のメロンをフォークでつつきながら、大人たちに問いかけた。
「で、俺はどうすれば? ひとまず服もモックアップの靴も用意されて、世に出れる形は揃いましたけど」
「はい。早速ですが、お披露目の日を、一週間後に設定しました」
秋山がタブレットを操作し、見慣れた動画サイトの画面を俺に向けた。そこには、見慣れたニンジン型のロゴマークが輝いている。
「勝負服は揃いましたからね。まずはライブ配信の体裁で、世間の反応を見ましょう。ウマ娘の公式〇ouTubeチャンネル……『ぱ〇チューブっ!』で、『5分』ほどのショート動画をプレミア公開で配信します」
「おお、〇かチューブ。公式からの供給ってやつか」
「ええ。超絶クオリティの3Dモデルか、それとも実写のスーパーレイヤーか……あえて明言せず、ファンの間で議論を呼ぶような見せ方にします」
「ちなみに聞くけどさ」
と俺がメロンを頬張りながら尋ねる。
「あの大臣さんも、この計画は了承済みで?」
「はい。『私が一番最初に見させていただきます。検閲として』と、職権をフル活用して意気込んでおられましたよ」
秋山が少しだけ疲れたような苦笑いを浮かべる。あの限界オタク大臣なら、データが上がるまで省庁の執務室の巨大モニターで正座待機しているに違いない。
『……ふふっ。なんだか、映画の公開を待つような気分ですね』
俺の隣では、半透明のカフェが実体のない口元に手を当てて上品に笑っていた。足元のお友達も「動画! デビュー!」と謎のダンスを踊っている。
「でも、内容はどんな感じにするんだ? 撮影っても外に出るわけにもいかないだろ? ずっとこのホテルにいるわけだし」
「ええ。ですからまずは、このスイートルームで撮影したものを編集します。あなたがただコーヒーを淹れたり、窓の外を眺めたりするだけの、静かで美しい日常風景……それを、4分50秒ほど流します」
「おー、そりゃいいな。日常ってやつか……。ん? 4分50秒?」
俺は首を傾げた。全体で『5分』の動画なら、残りの10秒が足りない。
「少し足らないっすよね? 最後の10秒は?」
「今日のテスト走行の、ラストシーンを使用します」
答えたのは、近藤理事だった。彼の瞳の奥に、競馬を、そしてウマ娘を愛する者としての鋭い熱が宿る。
「美しい日常風景から一転し、ターフを駆け抜ける圧倒的なスピード。そして……ゴール板を駆け抜け、あの蹄鉄が火花を散らして弾け飛ぶ、衝撃の瞬間まで」
近藤はゆっくりと口角を上げ、不敵に笑った。
「CGでは決して表現できない、本物の肉体と物理法則の限界点。……これで、世間の反応を見ます」