マンハッタンカフェになったおじさんの、現実世界奮闘記。カフェとお友達を添えて。 作:灯火011
翌日の事。現場の空気は、昨日とはまた違った種類の熱気に包まれていた。
「う、うぃーっす……おはようございます、姉さん……」
「おう、おはよう。顔色悪いな、ちゃんと水飲んだか?」
「へい……姉さんに言われた通り、スポーツドリンクがぶ飲みしてきました……」
朝礼の場には、見事なまでの二日酔いで顔を青くしている職人たちと、肌ツヤ絶好調で涼しい顔をした黒髪ロングの美少女、つまりは俺の姿があった。
昨晩の飲み会での「底なし」っぷりは、どうやら一晩にして現場中の伝説と化したらしい。俺がいくら可憐な十代の少女の姿をしていようと、あの圧倒的な仕事量と酒の強さを目の当たりにした男たちにとって、俺はすでに「絶対に逆らってはいけない絶対強者」としてインプットされていた。
「姉さん! 午後からうちの資材の荷揚げ、お願いしていいっすか!」
「姉さん、こっちの配筋ちょっと手伝ってもらえませんか!」
作業が始まると、各所からひっきりなしに声がかかる。
男だった頃より遥かに若い、しかも女の子の姿になっているというのに「姉さん」呼ばわりされるのはひどくシュールだったが、現場が回るならまあいいかと割り切ることにした。
元請けの所長や監督も、俺の働きぶりと職人たちからの謎のカリスマ的人気(?)を目の当たりにして、ただただ苦笑するしかないようだった。
「いやはや、すげえな嬢ちゃん……じゃなくて、姉さん。もはやこの現場の裏ボスじゃねえか」
と鈴山所長が呆れたように呟いていたのを、俺は聞き逃さなかった。
■
そして、午前中の作業もひと段落した昼休み。詰め所のパイプ椅子に陣取った俺の目の前には、特上弁当が3つ並べられていた。
すべて、午前中に俺の怪力に助けられた各業者の職長たちからの「お布施(奢り)」である。働いて数日だが、既に扱いは神か仏かって具合だ。悪くはない。
「いただきます」
俺は躊躇なく一つ目の弁当箱を開け、猛然と白米と唐揚げをかき込み始めた。ウマ娘の尋常ではないカロリー消費量を補うには、これくらい食べないと午後からのエネルギーがもたないのだ。
『……本当に、我ながら見事な食べっぷり、ですね』
ふわりとコーヒーの香りが漂い、斜め向かいの空席に半透明のカフェが腰を下ろした。俺の足元では、お友達が「肉! 肉!」と言わんばかりに嬉しそうに飛び跳ねている。味覚を共有している彼女たちも、この特上弁当3連発の恩恵に預かっているわけだ。
二つ目の弁当(ハンバーグ弁当)に差し掛かったあたりで、俺はふと思いついて箸を止めた。
「そいえば、カフェさんや」
『はい?』
「改めて思うんだがさ、これで良いのか? 俺が君の身体を使って、こんな土方仕事して、飯食って酒飲んで……。元の世界に戻るというか、そういうのは探さなくていいのか?」
俺の素朴な疑問に、カフェは少しだけ目を丸くした後、優しく、本当に優しく微笑んだ。
『ひとまずは、あなたの生活優先、でしょう』
「俺の生活?」
『ええ。私たちが、無理やり、巻き込んでしまったような、ものですし。それに、あなたが、ここで生きていくためには、お仕事をして、ご飯を食べなければ、いけませんから』
彼女の言葉に同意するように、足元のお友達もウンウンと激しく縦に揺れた。どうやら「俺が現実世界でしっかり生き延びること」が、今の彼女たちの第一目標になっているらしい。幽霊のくせに、妙に現実的で義理堅い奴らだ。
「まあ、そう言ってもらえるなら助かるけどさ」
俺が三つ目の弁当(幕の内)に手を伸ばそうとした時、カフェは実体のないマグカップを両手で包み込みながら、少しだけ視線を落とした。
『……ただ、そう、ですね』
静かな声。いつもより少しだけ、感情の揺れを感じさせる声音だった。
『一度、レース場には行ってみたいと思っています』
「レース場……あー、競馬場か」
中山、府中、大井。この現実世界にも、馬が走るレース場はいくつもある。彼女が元いた「ウマ娘の世界」のレース場とは少し勝手が違うかもしれないが、彼女の魂の根底にある「走ること」への郷愁のようなものが、その願いを形作っているのだろう。
俺は箸で卵焼きをつまみながら、軽く頷いた。
「わかった。今度の休み、週末にでも行ってみるか。どこの競馬場がいいか、後でスマホで調べておくよ」
俺がそう答えると、カフェはパッと顔を輝かせ、深く頭を下げた。
『ありがとうございます……!』
(ヤッター!)とお友達も俺の足元で喜びのダンスを踊っている。
むさ苦しい現場の詰め所で、弁当3つを平らげる怪力美少女と、それに寄り添う見えない幽霊たち。奇妙な同居生活は、こうして次の「週末の予定」に向けて、少しずつ新しい方向へと転がり始めていた。
■
週末。約束通り、俺は電車を乗り継いで東京競馬場――府中へとやってきた。
季節は夏真っ盛り。中央競馬の夏期スケジュールにより、この時期の府中で実際のレースは開催されていない。広大なターフに馬が走る姿はないが、場外馬券発売所(パークウインズ)として開放されているため、エアコンの効いたスタンド内には競馬オヤジたちが群れをなしていた。
『……すごい、ですね。私たちの世界と同じ。広くて、大きくて……』
私服のサマートワンピースに身を包んだ俺(客観的に見れば、黒髪ロングの可憐で儚げな美少女)の隣で、半透明のカフェがうっとりとしたため息を漏らした。実体のない彼女の瞳には、誰も走っていない青々とした芝のコースが、ひどくまぶしいものとして映っているようだった。
「まあ、今日は馬走ってないけどな。雰囲気だけでも味わってくれ」
俺はそう言いながら、マークカードの記入台へと向かった。
せっかく競馬場に来たのだから、少しだけ遊んでいくのも悪くない。今日のメインレースは新潟競馬場で行われる夏の風物詩、「アイビスサマーダッシュ」だ。日本で唯一の直線1000メートル走。枠順の有利不利が激しく、予想が難しいことでも知られている。
俺が競馬新聞を広げ、適当な人気馬を軸にしようかと考えていた、その時だった。
「……ん?」
足元で大人しくしていた「お友達(黒い影)」が、突然新聞の馬柱を指差して、猛烈な勢いでブルブルと震え始めたのだ。
「なんだ? これを買えって?」
俺が小声で尋ねると、黒い影は「ウンウンウンウン!!」と首(?)がもげそうなほど激しく縦に揺れた。
影が指差しているのは、三連単(1着から3着までを順番通りに当てる馬券)の、とある買い目。オッズモニターを確認すると、なんと500倍。完全に人気薄の穴馬を絡めた大穴狙いだった。
「いやいや、オカルトかよ。こんなの来るわけねーじゃん」
苦笑しながらも、まあお遊びだ。俺はマークカードを塗りつぶし、財布から100円玉を取り出して自動発券機に向かおうとした。
しかし、黒い影が俺の足首にピタリと張り付き、行く手を阻む。
そして、開いたままの俺の財布の中――1万円札をビシィッ! と指差したのだ。
「は? お前、ふざけんなよ。この500倍の三連単に1万賭けろって? 来るわけねーよこんなの!」
俺は周囲の目を気にしつつ、小声で問答を繰り広げた。
(絶対コレー!!!)
声こそ聞こえないが、黒い影は全身を使ってそう主張し、地面でのたうち回り始めた。駄々をこねる子供そのものだ。横にいるカフェも、
『……ふふっ。お友達がここまで言うのは珍しいですね』
と、止めるどころか面白がっている。
「……っあー、もう! わかったよ! 外れたら今晩の野菜抜きだからな!」
俺は半ば自暴自棄になりながら、発券機に1万円札を吸い込ませた。印字された馬券を手にする。「三連単 10,000円」の文字が、やけに重たく感じられた。
■
やがて、巨大なターフビジョンに新潟競馬場のファンファーレが鳴り響いた。
スタンドの客たちが一斉にモニターを見上げる。俺もカフェと並んで、その巨大な画面を見つめた。
『スタートしました!』
実況の声と共に、各馬が一斉にゲートを飛び出す。
アイビスサマーダッシュ特有の、外ラチ沿いへの激しい進路取り。あっという間に馬群が横一線になり、猛烈なスピードで芝の上を駆け抜けていく。
「……おいおい」
残り400メートル。俺は、自分の目を疑った。
先頭争いをしているのは、一番人気の馬でも、二番人気の馬でもない。
黒い影が指差した、あの人気薄の穴馬だった。
「うそ、だろ……」
残り200メートル。
さらに後方から、黒い影が指定した「2着」と「3着」の馬が、信じられない末脚でグングンと追い上げてくる。周囲の競馬オヤジたちの怒号と悲鳴が飛び交う中、俺の隣でカフェが実体のない手をギュッと握り締め、画面の中の馬たちを見つめていた。
『そのまま……!』
誰の言葉だったのか。俺の中のウマ娘としての本能がそう叫んだのか、あるいはカフェの声だったのか。
――ゴールイン!!
ターフビジョンに、スローモーションの着順リプレイが映し出される。
1着、2着、3着。
確定ランプが点灯し、表示された馬番は、俺が握りしめている馬券の数字と完全に、一糸違わず一致していた。
「…………」
静まり返る俺。
その足元で、「ヤッターーー!!!」と大暴れして歓喜のダンスを踊り狂う黒い影。
カフェは『素晴らしい走りでしたね』と、静かに拍手を送っている。
俺は、震える手で馬券とオッズモニターを交互に見比べた。
500倍のオッズ。それに賭けた、1万円。
「……ご、ひゃくまん、えん……?」
真夏の府中のスタンドの片隅で、現場仕事で汗水垂らして稼いでいる美少女(中身はゴリゴリの土方のおっさん)は、突如として舞い降りた500万円の払戻金を前に、完全にフリーズしていた。
■
足元では、顔のパーツなど明確には存在しないはずの黒い影が、どう見ても「ドヤァ……」という効果音を背負った満面のドヤ顔(?)で、ふんぞり返るように胸を張っていた。
『……凄いですね。お見事です』
実体のない手をパチパチと上品に叩きながら、カフェが感嘆の声を漏らす。
「いや、凄いっていうか……こいつは……」
未だに震えが止まらない手で500万円の当たり馬券を握りしめながら、俺は額に冷や汗を浮かべて困惑していた。
「こんなの、完全にオカルトじゃねえか。未来予知っていうか……ズルっけぇなー」
周囲に聞こえないよう小声で呟くと、足元のドヤ顔お友達は、「いやいやいや!」と猛烈な勢いで首(らしき部分)を横に振った。
そして、ビシィッ! と俺の手の中の馬券を指差し、そこから自分の口(らしき部分)へとジェスチャーを繰り返す。
(ズルだろうが何だろうが、お金はあるだけいいじゃん! これで美味しいもの食えるじゃん!)
言葉は発せられずとも、全身を使ったその動きからは、そんなド直球で現金な主張が痛いほど伝わってきた。
「……まぁ、そうか。たしかに、あるに越したことはねえな」
建設現場の過酷な労働で汗水垂らして稼ぐ日当も尊いが、突如として空から降ってきた500万円を前にして、聖人君子ぶって無効化する気もない。この理不尽な身体になってしまった慰謝料だと思えば、むしろ安いぐらいかもしれない。
俺は大きく息を吐き出し、オカルト馬券をしっかりと財布の奥深くにしまい込んだ。
「よし。ひとまず府中まで来たわけだし、このまま真っ直ぐ帰るのも勿体ねえな」
俺がそう切り出すと、カフェとお友達がピクッと反応してこちらを見上げた。
「せっかくのドデカい臨時収入だ。帰りに新宿かどっかのデパ地下にでも寄って、とびっきりいい珈琲豆と、一番高級な野菜でも買って帰るか」
その瞬間。
『……っ!!』
カフェのアンバーの瞳が、これまでにないほどの星のような輝きを放った。実体のない彼女の周囲に、ふわりと幻の薔薇が咲き乱れたように見えたのは気のせいだろうか。
そして足元のお友達に至っては、文字通り「ヒャッホーウ!!」とばかりに天高く飛び上がり、空中で凄まじいトルネード回転をキメて歓喜を爆発させていた。
「おいおい、落ち着けって。目立ってしょうがねえぞ」
俺は周囲の目を気にしながら苦笑したが、心なしか俺自身の足取りも、いつもよりずっと軽かった。
ウマ娘の規格外のパワーと、幽霊たちの不可思議な力。
この奇妙な共同生活は、ますます予測不能な方向へと転がっていくらしい。