マンハッタンカフェになったおじさんの、現実世界奮闘記。カフェとお友達を添えて。 作:灯火011
払戻専用窓口で受け取った帯封付きの札束。
あまりの非現実的な出来事に浮かれそうになるのをグッと堪え、俺は現実を見すえる。
とりあえず10万円だけを当面の生活費や今日の豪遊費として財布に入れ、残りの490万円は競馬場内のATMから迷わず口座へとぶち込んだ。
「NISAとか、固い投資信託にでも回しとくか……」
とボヤく俺の横で、お友達(黒い影)が「えーっ、全部使わないの!?」とばかりに不満げに揺れていたが、そこはガン無視だ。
臨時収入の処理を終え、俺たちは再びうだるような暑さの屋外へと出た。
夏の東京競馬場。メインレースは他場での開催であり、炎天下ということもあって、屋外のエリアに人の姿はまばらだった。
その時だ。
青々とした芝生が広がる、一般開放された広場(内馬場のファミリーゾーン)が視界に入った瞬間。
――走りたい。
突如として、内側から爆発的な衝動が突き上げてきた。それは俺自身の意思というより、この身体の奥底に眠る「ウマ娘」としての本能であり、同時に、半透明の相棒であるカフェの魂が放つ、抑えきれない渇望の共鳴だった。
本物のレースコースに入る術はもちろんない。
だが、目の前には、誰もいない広大な芝生がある。
「……ちょっと、行ってくる」
俺は履いていたスニーカーの紐をきつく締め直し、芝生エリアの端に立った。カフェが
『えっ? どうされ、ました?』
と目を丸くする。
軽く息を吐き、前傾姿勢をとる。そして、大地を蹴った。
■
ドゴォン!!
足元の芝が爆ぜるような錯覚。次の瞬間、俺の身体は文字通り「弾丸」となって青々とした空間を切り裂いていた。
「うおおおおおッ!!?」
速い。速すぎる。男だった頃の全力疾走など、まるでスローモーションだ。自転車どころか、原付バイクのフルスロットルに匹敵する――いや、それ以上の凄まじいスピード。時速60キロを超える風圧が、長い黒髪を真後ろへと激しくなびかせる。
『……っ!』
俺の視界の端を、並走するようにカフェの幻影がついてくる。彼女のアンバーの瞳は驚きに見開かれていたが、やがてその口元に、たまらなく嬉しそうな、純粋な歓喜の笑みが浮かんだ。
後方では、お友達が「ヒャッホーウ!!」と言わんばかりに楽し気に、ロケットのように回転しながらついてきている。
ただ走る。それだけで、全身の細胞が歓喜に震える。息一つ上がらない。強靭な心肺機能とバネのような筋肉が、もっと速く、もっと前へとうねりを上げて加速を要求してくる。
炎天下の重い空気を切り裂き、俺は芝生広場の端から端までを、ほんの数秒で駆け抜けた。
ズザザザザァッ!!
急ブレーキをかけると、スニーカーが芝を擦り、少しだけ土煙が上がった。心地よい汗の感覚と、スポーツ後のような爽快感。
「っはー! すげえなこの身体!! マジで風になれるじゃん!」
俺が興奮気味に振り返り、カフェとハイタッチを交わそうとした、その時だった。
「お、おやおや……? ちょっと、そこのお嬢さん」
背後から、信じられないモノを見るような、ひどく困惑した声がかけられた。
振り向くと、そこには無線機を片手に持ったJRAの警備スタッフと、施設管理の腕章をつけた職員が、ぽかんと口を開けて立ち尽くしていた。
「あ」
「い、いま……ものすごい速度で……バイクでも走ったのかと……」
「いや、防犯カメラの映像で、女の子が……その、とんでもない速度で芝生を爆走しているように見えたんですが……」
彼らの視線は、俺の足元、ブレーキで少し削れてしまった芝生と、俺の頭でピョコンと揺れる馬の耳に釘付けになっていた。
真夏の閑散とした競馬場で、とんでもない身体能力を見せつけてしまった「謎の美少女」。俺は頬を引きつらせながら、咄嗟の言い訳をフル回転で探し始めた。