シオリア記〜この国は如何にして成ったのか〜 作:くいあらためよ
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「子供たちを倉庫へ! 男たちは武器を持って前に出ろ!」
それはエリオの声ではなかった。
しかし、その声は自分の喉から発せられていた。
『え?』
混乱する。
視界以外、何もかもが自分のものではなかった。手も、足も、周囲の景色さえも。
『俺が、ミューズになっている……いや、憑依しているのか』
理解が追いつかない。
だが状況は、エリオの混乱を待ってはくれなかった。
体が勝手に動く。壁に立てかけられていた槍を掴み、走り出す。村のあちこちに怒号が響いていた。その合間に悲鳴と、金属がぶつかり合う音が混じる。
木柵にたどり着いたとき、緑色の小柄な生き物が何匹も取り付いているのが見えた。鋭い歯。黄色い目。薄汚れた皮膚。
ゴブリンだ。
「柵に取り付いている奴から優先的に殺れ! 壊されるぞ!!」
『うげ、本物のゴブリンだ……』
その瞬間、鼻をつく強烈な悪臭が襲ってきた。血と汗、泥と獣臭が混じり合った、形容しがたい臭い。思わずえずきそうになる。
『うッ……!? においまでわかるのかよ、この装置は……!』
「ちきしょう!! 来るなぁ!!」
「この、このぉ!!」
血しぶきが舞う。村人たちは必死に武器を振るい、柵へ取り付いたゴブリンを押し返していく。ミューズも隣で槍を振るった。斬って、殴って、蹴り飛ばす。
気がつけば肩で息をし、腕は鉛のように重くなっていた。
どれくらい戦ったのだろう。体感では一時間近くあったが、実際には数十分だったのかもしれない。
やがてゴブリンたちが森の奥へと引き返していくのが見えた。
村の外に六匹の死体。村人は三人ほどが負傷し、地面にうずくまっている。
『いったい、何だったんだよ……』
エリオは目の前の惨状をただ見ていた。
ゲームでも、映画でも、流行りのVRでもない。血の匂いも、心臓の鼓動も、汗が伝う感触も、すべてが現実だと嫌でも理解させられる。
「けが人の手当てを!!」
ミューズが叫ぶ。
「ダン、柵の修復を頼む!!」
「おう!」
返事をした男の姿に、エリオは思わず目を見張った。全身が筋肉の塊のような大男だった。ダンと呼ばれた男は、近くに転がっていた丸太を二、三本軽々と担ぎ上げ、壊れた柵へと小走りで向かっていく。
『な、なんて馬鹿力なんだ……重くないのかよ』
まるで小枝を運ぶような軽やかさで丸太を設置し、驚くべき速さで修復していく。村人たちは誰一人として驚かず、当然のように作業を続けていた。日常なのだろう。
『なんなんだ、この人……』
村人もそれぞれ、柵の修理や負傷者の手当に当たっていた。
だが、その表情に安堵の色はない。
襲撃を退けた。普通なら、もう少し明るくなってもいいはずだ。そうエリオは思う。
ふと、体が異様に重く感じた。
いや、自分ではない。ミューズの体が、鉛のように重い。かなりの体力を消耗しているのが、骨の髄まで伝わってくる。
(今回も……乗り切れたか。クソ……)
『今回も?』
その言葉に、エリオは引っかかりを覚えた。単なる独り言ではない。ミューズの心の声だ。この襲撃が、初めてではないことを示していた。
「村長!!」
一人の男が駆け寄ってくる。腕には大きな、生々しい引っかき傷があった。血は止まっているものの、軽傷ではない。
「今回の襲撃で三人やられました……うち二人は、もう仕事ができそうにありません」
「そうか……」
ミューズの返事は重かった。
どうやら、ミューズはこの村の村長らしい。言われてみれば、村人たちは確かに彼の指示で動いていた。
「このままじゃ、今年の収穫は見込めんな……」
「今年だけで、何人が動けなくなったことか」
低くつぶやく声に、近くにいた中年の女性も悲しそうに続けた。
「納税もあるというのに、これじゃおしまいだよ……」
『収穫? 納税? ……あぁ、そうか。この時代は』
エリオは納得する。働き手の数は、そのまま収穫量に直結する。働き手が減れば畑は維持できず、収穫が減れば税を払えなくなる。ゴブリンの襲撃を退けても、村そのものが確実に痩せ細っていく現実があった。
「村長や、領主様から返答が来たぞ」
「じぃ! 来たか!!」
老人の言葉に、ミューズの顔が思わず明るくなる。今までの暗い空気が嘘のようだった。
「ミューズさん、まさか!」
「あぁ」
力強く頷く。
「領主様に討伐隊の派遣を依頼していたんだ」
エリオは理解した。この村は完全に見捨てられているわけではない。領主にとっても貴重な収入源のはずだ。そう簡単に失うわけにはいかない——はずだった。
「俺は読み書きができないからな……」
ミューズは少し気まずそうに苦笑し、頭を掻く。
「手紙はじぃに頼んでいたんだ」
村人たちから、小さく笑いがこぼれる。
「それで? どうだった?」
「討伐隊はいつ頃来るんだ?」
一筋の希望が、村人たちの顔に浮かぶ。これで助かる——誰もがそう考えていた。ただ一人、手紙を持ってきた老人を除いて。
「……じぃ?」
ミューズの笑顔が、少しずつ消えていく。老人は苦しそうに目を伏せた。
「領主様は……討伐隊は、出せないと」
「は?」
心底悲しそうな声に、ミューズはそれ以外の言葉を失った。
「どういう……ことだ?」
「何を言っているんだ、領主様は!?」
「この村を見捨てたというのか!?」
『この状況を、領主は知らないのかよ!?』
エリオも思わず心の中で叫ぶ。怪我人が出ている。男手は減っている。柵だって壊れている。
老人は震える手で手紙を差し出した。
「護衛兵の派遣には、相応の費用が必要じゃ。村の税収では足りぬそうじゃ」
ミューズはしばらく黙っていた。握り締めた拳に力が入り、爪が掌に食い込む。血が滲むほどだった。
「ミューズさん……」
村人たちは不安そうに彼を見つめている。誰も、次の言葉を発しない。
長い沈黙の後、ミューズは大きく息を吐いた。
「断られたなら仕方ねぇ」
村人たちが顔を上げる。
「なに、方法は考える」
その言葉に、表情が少しだけ和らぐ。
「ダン、今夜も見回りを頼む」
「任せとけ!」
ダンが豪快に笑った。
「おいらはまだまだ元気だからな!」
「みんなも、今日は休んでくれ」
「……わかりました」
村人たちは、少しずつ散っていく。
『本当は、何も考えてないだろ』
エリオにはわかった。ミューズの言葉は希望ではない。村長としての責任だ。自分が折れた瞬間、村全体が終わってしまう。だから、諦めるわけにはいかない。
その後、ミューズの体は自然と自宅へ向かった。
『え? これ、家?』
エリオは思わず目を疑う。村長の家と聞いて想像していたものとは違った。木造の小さな小屋。隙間風さえ防げなさそうな壁。ただ、村の中では比較的新しい。
家の中はさらに質素だった。古びた机。椅子が二脚。壁には使い込まれた麦わら帽子。そして、部屋に並んだ二つのベッド。
ミューズは帽子へ視線を向ける。少しだけ表情が緩んだ。
「ただいま、親父」
静かな部屋に、声だけが響く。
「今日も何とか守り切ったぜ」
返事はない。
エリオは何も言えなかった。その帽子が誰のものだったのか。その相手が今ここにいないことを、ミューズ自身が一番よくわかっているからだ。
ミューズはベッドへ腰を下ろし、天井を見上げる。
(このままじゃ、村は持たねぇ)
初めて漏れた本音だった。
(男手は減る一方だ)
(周囲の村も余裕なんかねぇ)
(ここは開拓村の最前線だ)
(今さら移住だってできやしねぇ)
そこで初めて、エリオは実感した。
ここは単なる村ではない。後世では語られない、辺境の最果てで必死に生きている人たちの村なのだと。
コンコン、とノックの音が響いた。
「ん?」
ミューズが顔を上げる。
「開いてるぞ」
扉がゆっくり開く。入ってきたのは、この寒村には似つかわしくない女性だった。両手には水桶。思った以上に重そうだ。栗色の髪を肩まで伸ばし、日に焼けた村人たちの中では目立つほど整った顔立ちをしている。
「ミューズ、お疲れさま」
柔らかな声だった。
「水、汲んできたよ」
「ああ、助かる。メルト」
ミューズの表情が少しだけ緩む。
『なんか……すげぇ美人じゃないか?』
現代でも十分通用する。そんなことを考えてしまうくらいには、目を引く女性だった。しかしメルト本人は気にもせず、慣れた手つきで家の中を動き回る。まるで自分の家のようだった。
水桶を置く。机を拭く。散らかった道具をまとめる。動きに迷いがない。何度も出入りしているのがわかる。
「今日は誰も死んでないんでしょ?」
メルトは少しだけ笑った。
「最近、うまくなってきたんじゃない?」
「そうでもねぇよ」
ミューズは力なく答える。
「また二人、使えなくしちまった」
メルトの動きが止まった。
「……そう」
部屋の空気が、少しだけ重くなる。
「ジョルのところ?」
「ああ」
「奥さん、泣いてた?」
「泣いてた」
短い会話。だが、それだけで十分だった。
この村では、怪我をすることが家族の生活に直結する。動けなくなれば畑に出られない。収穫が減れば、家族が食べられなくなる。今日の襲撃は終わった。だが、問題は何一つ終わっていない。
「ミューズ」
メルトがぽつりと言う。
「無理しないでね」
「してねぇよ」
即答だった。
『嘘つけ』
エリオは思わず心の中で突っ込む。さっきまで拳から血を流していた男の台詞ではない。
重苦しい沈黙を破るように、メルトが口を開いた。
「あ、そういえば」
「ん?」
「最近村に住み着いてるガルドさん、いるでしょ?」
「ああ」
「昔、王都で傭兵やってたらしいわよ」
ミューズは適当に相槌を打つ。
「ふーん」
「なんでも、結構有名だったみたい」
「へぇ」
反応は薄い。
『興味なさそうだな……』
しかしメルトは気にせず続ける。
「王都って、どんな場所なんだろうね」
少しだけ遠くを見る。
「死ぬ前に一度くらい、行ってみたいなぁ」
その瞬間だった。
ミューズの思考が止まる。エリオにもそれがわかった。何かが引っかかったのだ。
「……待て」
「え?」
「ガルドさん」
ミューズがゆっくり顔を上げる。
「傭兵だったのか?」
「そうだけど?」
メルトは首を傾げた。
「それがどうしたの?」
ミューズは立ち上がった。さっきまで疲れ切っていた男とは思えない勢いだった。
『お?』
エリオも思わず身を乗り出す。何か思いついたらしい。
「メルト!」
「な、なに?」
「いつも手伝い、ありがとな!」
そう言うや否や、ミューズは扉へ向かって歩き出した。
「ガルドさんのところに行ってくる!」
「えっ!?」
バタン、と勢いよく扉が閉まり、家が静まり返る。
メルトはしばらく呆然としていた。
「……行ってらっしゃい」
『絶対、なんか思いついたな』
エリオは少しだけ胸が高鳴った。
ミューズの足は、村の入口近くへ向かっている。やがて一軒の家の前で止まった。周囲の家と比べると、少しだけ大きい。
「ガルドさん!」
ドンドン、と扉を叩く。
「いるか!?」
しばらくして扉が開く。現れたのは大柄な中年男性だった。筋肉質な体。日に焼けた肌。頬には古い傷跡。歴戦の兵士そのものだ。
『うわ、強そう……』
男はミューズを見て笑う。
「おぉ、村長」
気さくな声だった。
「全然構わねぇが、どうした?」
ミューズは真っ直ぐガルドを見つめる。そして、確信めいた口調でこう言った。
「ガルドさん」
「ん?」
「俺たちに、ゴブリンの戦い方を教えてくれないか?」