シオリア記〜この国は如何にして成ったのか〜 作:くいあらためよ
エリオが目を覚ましたのは、翌日の昼過ぎだった。
「………………痛ぇ」
最初に出た言葉がそれだった。
別に怪我をしたわけではない。
それなのに全身が妙に重い。
ベッドから起き上がり、肩を回す。
筋肉痛のような感覚が残っていた。
「なんでだよ……」
昨日の光景が頭をよぎる。
ゴブリン。
血の臭い。
悲鳴。
槍を握る村人たち。
そしてミューズ。
あれが本当に記憶だったのか。
今でも信じられない。
コンコン。
部屋のドアが叩かれた。
「少年、起きてるー?」
聞き慣れた声だった。
「どうぞ」
扉が開く。
そこから顔を出したのはエミリーだった。
紙袋を抱えている。
「おはよう!」
「昼ですけどね」
「研究者にとっては朝よ」
「駄目な大人の発言だ……」
エミリーは気にした様子もなく部屋へ入る。
そして袋から何かを取り出した。
「ほら」
「サンドイッチ?」
「昨日から何も食べてないでしょ」
そう言われて初めて気付く。
空腹だった。
猛烈に。
エリオは礼も言わずにかぶりついた。
「美味い……」
「でしょ? お気に入りのお店なの」
エミリーは満足そうに笑う。
しばらく二人とも無言だった。
やがて食べ終わった頃、エリオがぽつりと言った。
「ミューズって、普通の人だったんですね」
エミリーは少しだけ目を見開いた。
「そう思った?」
「だって」
エリオは窓の外を見る。
「教科書だと英雄だとか、実在が怪しまれている人物だとか、そんな感じじゃないですか」
建国の祖。
伝説上の人物。
神話の英雄。
そんな言葉ばかりが並んでいた。
だけど実際に見たミューズは違った。
村の将来に悩み、
税に頭を抱え、
怪我人を心配し、
手紙すら読めない。
ただの青年だった。
「英雄って感じじゃなかったな」
そう呟く。
するとエミリーは静かに笑った。
「でも」
彼女は言う。
「村のみんなはミューズを頼ってた」
エリオは答えなかった。
確かにそうだった。
不安になれば集まる。
困れば相談する。
誰もがミューズを見ていた。
ミューズ自身は自覚していなかったかもしれない。
だが、あの村にとって、彼は間違いなく中心だった。
「歴史って面白いでしょ?」
エミリーが言う。
「全然」
即答だった。
「嘘つき」
「……少しだけです」
エミリーは満足そうに頷く。
そして懐から端末を取り出した。
「じゃあ続きを見に行くわよ」
「は?」
「領主に呼ばれたところから見るに決まってるでしょ?」
「いやいやいや」
エリオは慌てて立ち上がる。
「昨日行ったばっかですよ!?」
「だから?」
「だからって!」
エミリーは首を傾げた。
本気で不思議そうだった。
「向こうのミューズは今から領主館へ行くのよ?」
「そうですけど!」
「続き、気にならない?」
痛いところを突かれた。
気になる。
ものすごく気になる。
なぜ領主は呼んだのか。
援軍を断ったくせに、どうして今さら招待するのか。
「ほら」
エミリーが笑う。
「もう歴史の沼に片足突っ込んでる」
「嫌な言い方しないでください!」
「さあ行くわよ」
「あ、ていうか学校! 授業に出ないと!」
とっさの言い訳だった。
だが学校が心配なのは事実である。
「ああ、それなら心配ないわ!」
エミリーは親指を立てた。
「ちゃんと許可は取ってあるから!」
「そんなのありかよぉ!」
エリオの悲鳴は誰にも届かなかった。
数十分後。
エリオは再び魂導装置の椅子に座っていた。
研究員たちが慌ただしく準備を進める。
「同期開始」
「魂導波安定」
「直系記録追尾開始」
モニターに無数の波形が走る。
エミリーが隣で腕を組んだ。
「今回の予想は?」
「え?」
「研究ってのは仮説が大事なの。領主に呼ばれた理由は何かしら?」
エリオは少し考える。
そして言った。
「ゴブリンを倒したから呼ばれた」
「無難ね」
「違うんですか?」
「私は別の予想」
エミリーはニヤリと笑った。
「領主がミューズを試そうとしている」
「試す?」
「まあ、見てのお楽しみ」
そう言った瞬間だった。
足元の魔法陣が光る。
視界が白く染まっていく。
意識が遠ざかる。
最後に見えたのは、期待に目を輝かせるエミリーの顔だった。
(この人、絶対楽しんでるだろ……)
そして世界が反転する。
「で、本当に俺が行くのか?」
聞き慣れた声だった。
目を開く。
そこはシオン村だった。
数日前と同じ村。
だが空気は違う。
活気がある。
笑顔がある。
そして目の前には、旅支度を整えたガルドが待っていた。
「当たり前だろ」
ガルドは笑う。
「領主様がお呼びなんだ」
そう言ってミューズへ一頭の馬を差し出した。
「さっさと行くぞ、村長」
「気乗りはしないが……」
ミューズは手綱を受け取る。
そして振り返った。
「ダン、村を頼んだ!」
「任せとけ!」
ダンは豪快に胸を叩いた。
ミューズは馬にまたがり、村の入口へ向かう。
その時だった。
「ミューズ!」
聞き慣れた声が背後から飛んできた。
振り返る。
メルトだった。
「メルト」
「気を付けてね?」
少し不安そうな顔でこちらを見る。
「待ってるから」
ミューズは微笑んだ。
そして馬上から彼女の頭を軽く撫でる。
「大丈夫だ」
「それに、お土産もしっかり買ってくる」
「それまでは村を頼む」
メルトの頬がわずかに赤くなった。
「う、うん……」
「なんか見てるこっちが恥ずかしいな」
エリオは思わず顔をしかめる。
『メルト、絶対照れてるだろ』
隣でガルドがぽつりと呟いた。
「……若いねぇ」
どこか遠い目だった。
『お前も思うよな!?』
エリオは心の中で全力で同意した。
一方のミューズは気付いているのかいないのか、少しだけ居心地悪そうに咳払いをする。
「……行くか」
そうして、二頭の馬はゆっくりと村を後にした。
後のシオリア公国の礎となる小さな村を背に。
ミューズ・シオンは初めて、本格的に村の外の世界へ足を踏み出すのだった。
道中はいたって平和だった。
時折、遠くで魔物の姿を見かけることはあったが、こちらへ近寄ってくる様子はない。
しかし、何の変化もないわけではなかった。
「……荒れた村がまた一つか」
馬を進めながらミューズが呟く。
街道の脇に見える小さな集落は、明らかに何かの襲撃を受けた痕跡を残していた。
壊された柵。
打ち捨てられた荷車。
人気のない家々。
ミューズが眉をひそめる。
ガルドは静かに頷いた。
「これは……おそらく盗賊だな。少なくとも魔物じゃねぇ。見てみろ」
「あんたには分かるのか?」
「ああ」
ガルドは顎をしゃくる。
視線の先には一軒の民家があった。
壁の一部が壊れており、外からでも内部が見える。
引き出しは全て引き抜かれ、棚は倒され、中身は床へぶちまけられていた。
「タンスも引き出しも軒並み荒らされてる」
ガルドが淡々と言う。
「魔物なら金目の物なんか漁らねぇ。食い物や家畜を狙うだけだ」
ミューズは険しい顔で村を見つめた。
「……帰り際にでも武器を買うか」
「ああ。それがいい」
『こんな時代でも人間同士で争ってるのか』
エリオは吐き捨てるように思った。
『嫌な時代だな』
その日の晩。
二人は街道から少し外れた茂みの近くで野営していた。
焚火の上では鍋がぐつぐつと音を立てている。
干し肉。
穀物。
道中で採取した野草。
質素な食事だったが、温かさだけは十分だった。
「領主様の館まではまだかかるな」
ミューズが鍋をかき混ぜながら言う。
ガルドは地面に枝で地図を描いた。
「この調子なら三日ってところだな」
「まだ三日もあるのか……」
『結構進んでたと思ったんだけどな』
エリオは思う。
『車って本当に便利だったんだな……』
現代の豊かさを改めて実感していた。
その時だった。
ミューズがふと森の奥へ視線を向ける。
ガルドもまた同じ方向を見る。
何気ない動作で槍を手元へ引き寄せた。
「……人か?」
「ああ」
ガルドが小さく頷く。
「五人いるな」
「盗賊か?」
「分からん」
ガルドは目を細めた。
「だが人間だ」
『え、どこ!?』
エリオには何も見えない。
だが二人には分かるらしい。
しばらく沈黙が続く。
そして、その沈黙を破ったのはミューズだった。
「おーい!」
突然、大声を張り上げる。
「そんなところで見てるなら一緒に食わないか!」
「なっ!?」
ガルドが思わず振り返った。
「ミューズ! 何を考えてる!?」
「腹減ってるんだろ?」
「そういう問題じゃねぇ!」
『そういう問題じゃねぇだろ!』
エリオも全力で同意した。
しばらくして。
茂みが揺れる。
やがて一人の男が姿を現した。
金髪。
やつれた顔。
擦り切れた外套。
腰には剣。
いかにも盗賊といった風貌だった。
続いて後ろから四人。
全員が似たような格好をしている。
だが不思議と敵意は感じなかった。
男は呆れたように笑う。
「なんというか……肝は据わってるな、あんた」
ミューズも笑った。
「よく言われる」
そう言って鍋を指差す。
「そろそろできる頃だ。座れよ」
不思議な光景だった。
一人の農民。
元傭兵。
そして五人の盗賊。
全員が同じ焚火を囲んでいる。
『なんだこれ……』
エリオは思わず額を押さえた。
『絵面がおかしすぎるだろ』
「これ、うまいな」
盗賊の一人が言う。
「だろ?」
ミューズが嬉しそうに笑った。
「うちの村の料理なんだ」
鍋を見ながら続ける。
「寒い日はみんなで囲って食う」
「へぇ」
男たちはどこか懐かしそうな顔をした。
「そこのあんた」
今度はリーダー格の男がガルドを見る。
「随分いい体してるな」
「昔、傭兵をやってたからな」
ガルドが笑う。
「お前こそなかなか強そうじゃねぇか」
「まあな」
男も苦笑した。
さっきまでの緊張はいつの間にか消えていた。
やがて、リーダー格の男が口を開く。
「ところで」
器を置く。
「あんたたちはどこへ向かってるんだ?」
「領主様の館だ」
ミューズが答えた。
「呼ばれててな」
その瞬間、男たちの動きがわずかに止まった。
「……領主に会うのか?」
「ああ」
ミューズが頷く。
「理由は俺にもよく分からないがな」
すると隣でガルドが笑った。
「おいおい、分からねぇはねぇだろ」
「ん?」
「どう考えてもあれだ」
ガルドは木椀を傾ける。
「こいつの村が、この前ゴブリンの群れをぶっ潰したんだよ」
男たちの眉が少し動く。
「ゴブリンの群れ?」
「二十匹以上いたな」
ガルドが楽しそうに続けた。
「しかも親玉付きだ」
ミューズを指差す。
「最後はこいつが首を刎ねた」
「おい」
ミューズが苦笑する。
「大げさだろ」
「大げさなもんか」
ガルドは鼻を鳴らした。
「農民だけの村で死者ゼロだぞ? 普通なら領主軍が出てもおかしくねぇ案件だ」
男たちは黙って聞いていた。
意外そうな顔をしている。
「なるほどな……」
リーダー格の男が呟く。
「それで主に呼ばれたのか」
「多分な」
ミューズは肩をすくめた。
「褒賞でも貰えたらありがたいんだが」
その言葉を聞いてから、男たちは顔を見合わせた。
先ほどとは違う沈黙だった。
何かを考えるような、そんな空気。
だが結局、誰も何も言わなかった。
食事を終えると、リーダー格の男が立ち上がる。
「飯、ご馳走さん」
「うまかった」
周りの男たちも頷いた。
「それは良かった」
ミューズが笑う。
男は少しだけ迷うような顔をした後、口を開く。
「飯の礼だ」
真剣な声だった。
「ここから先の街道には野盗がいる」
「野盗?」
「俺たちより、よっぽど質の悪い連中だ」
苦々しく吐き捨てる。
「街道を外れろ」
男は森の奥を指差した。
「昔使われていた脇道がある」
「道は悪いが安全だ」
そして小さく笑う。
「生きて領主様に会いな」
そう言い残し、五人の男たちは夜の森へ消えていった。
焚火だけが静かに揺れていた。
「……変な奴らだったな」
ミューズが呟く。
ガルドはしばらく男たちが去った方向を眺めていた。
そして小さく言う。
「いや。案外、まともな連中だったのかもしれねぇな」
夜風が静かに吹き抜けた。
翌朝。
ミューズたちは男たちに教えられた脇道を進んでいた。
かつて街道として使われていたのだろう。
今では雑草が生い茂り、人ひとりがやっと通れる程度の細い道になっている。
「本当にこっちで合ってるのか?」
ミューズが周囲を見回す。
ガルドは頷いた。
「道の跡が残ってる」
倒木の隙間から先を見る。
「昔はそれなりに使われてたんだろうな」
『街道っていうより獣道だろ……』
エリオは思わず呟いた。
現代人の感覚では、とても人が使う道には見えない。
しかし進むしかなかった。
昼頃。
道は小高い丘へ続いていた。
木々の間から少し開けた場所へ出る。
そこでガルドが不意に手を上げた。
「止まれ」
「ん?」
ミューズが馬を止める。
ガルドは丘の向こうを指差した。
「見ろ」
ミューズが目を凝らす。
遠く。
おそらく本来の街道だろう。
人影が見えた。
十人。
いや十五人ほど。
木陰や岩場に腰を下ろしながら、街道を監視している。
馬までいる。
武器も持っていた。
剣。
槍。
弓。
どれも使い込まれている。
「ありゃ……」
ミューズが顔をしかめた。
「野盗か」
「ああ」
ガルドが低く答える。
「間違いねぇ」
男たちは街道を通る荷馬車へ視線を向けている。
まるで獲物を待つ狼だった。
その中の一人が立ち上がる。
仲間に何かを話している。
どうやら通行人を見つけたらしい。
しばらくすると集団の半分ほどが森の中へ消えた。
待ち伏せの準備だろう。
『うわ……』
エリオは思わず呟く。
『本当にいたのか』
昨日の男たちの顔が浮かぶ。
もし忠告を無視していたら、今頃、自分たちはあそこを通っていたかもしれない。
「助かったな」
ガルドが腕を組む。
「あいつらに騙す理由はなかったみてぇだ」
ミューズもうなずいた。
「飯代としては破格だな」
そう言って笑う。
だがその目は笑っていなかった。
街道の向こう。
野盗たちのさらに奥。
焼け落ちた荷車が見えていたからだ。
車輪は砕け、荷は散乱し、黒く焦げた跡まで残っている。
おそらく最近襲われたのだろう。
「……」
ミューズはしばらく黙っていた。
やがてぽつりと呟く。
「村の外も大変なんだな」
襲われる。
そこにはゴブリンはいない。
魔物もいない。
それでも人は死ぬ。
奪われる。
シオン村だけが苦しいわけではない。
エリオはこの時代の現実を初めて目の当たりにしたのだった。
その後の道中は拍子抜けするほど平穏だった。
男たちの忠告どおり脇道を進み、何度か野営を挟みながら西へ向かう。
幸い魔物に襲われることもなく、盗賊と遭遇することもなかった。
そして四日目の昼頃。
「見えてきたぞ」
先を進んでいたガルドが声を上げた。
ミューズは顔を上げる。
そして思わず言葉を失った。
「……すげぇな」
目の前には広大な農地が広がっていた。
黄金色の麦畑。
整備された灌漑水路。
荷馬車が行き交う街道。
所々に見える農村も、シオン村とは比べ物にならないほど大きい。
『うわ……』
エリオも思わず息を呑む。
ここまで見てきた辺境とは別世界だった。
「ここから先が領主様の直轄領だ」
ガルドが言った。
その表情には少しだけ感心したような色が浮かんでいる。
「盗賊の姿も見当たらねぇな」
街道には商人たちが行き交っていた。
護衛付きの馬車。
家畜を運ぶ農民。
旅人。
皆、ごく当たり前のように道を歩いている。
数日前に見た荒れ果てた村とはあまりに対照的だった。
「同じ領地とは思えねぇな」
ミューズが呟く。
「ああ」
ガルドは頷いた。
「金が集まる場所は守られる」
その言葉にミューズは何も答えなかった。
ただ、遠くに見える城壁を見つめていた。
『あれが領主の世界か』
その中心にいる人物が、シオン村では一生見ることがなかったかもしれない景色。
自分を呼んでいる。
ミューズは無意識のうちに手綱を握り締めた。
理由はまだ分からない。
だが、これから何かが始まる。
そんな予感だけは確かにあった。
その日の夕暮れ。
ミューズたちはついにローゼンの城がある城塞都市へ到着した。
夕暮れ時の到着だったため、謁見は翌日に持ち越された。
案内された客室は、農民であるミューズたちからすれば信じられないほど立派な部屋だった。
床は磨き上げられ、壁には装飾が施されている。
何より目を引いたのは寝台だった。
ふかふかの布団が敷かれ、一つもほつれがない。
「なんか落ち着かねぇな」
ガルドがベッドを見つめながら呟く。
向かいの寝台に腰掛けたミューズも苦笑した。
「同感だな」
柔らかな寝具を軽く叩く。
「俺のベッドの方がよく眠れそうだ」
「違いねぇ」
二人は顔を見合わせて笑った。
だが結局、その夜はほとんど眠れなかった。
翌日。
ついにローゼン伯爵との謁見の日がやってきた。
広い謁見室。
長い赤絨毯の両脇には武装した騎士たちが並んでいる。
その先、一段高い席に座る男を見て、ミューズは自然と背筋を伸ばした。
フェターゼン・エル・ローゼン。
代々王国に仕える名門貴族ローゼン家の現当主。
数多くの戦で武功を挙げてきた王侯貴族の一人だった。
年齢は四十代半ばだろうか。
白髪の混じった髪。
深く刻まれた皺。
だが、その瞳にはなお力強い光が宿っている。
『この人が……』
エリオは思わず見入った。
『なんか同じ貴族でもエミリーとは全然違うな』
脳裏に浮かぶのは、研究所で好き勝手に振る舞っている研究者の姿だった。
『帰ったら少し見習えって言ってやろうかな……』
そんなことを考える。
「シオン村村長、ミューズです」
ミューズが頭を下げる。
「付き人のガルドと申します」
伯爵は二人をしばらく見つめた。
そして静かに口を開く。
「村長か、若いな」
その視線がミューズを観察するように上下する。
「だが、強い」
突然の評価にミューズは少し戸惑った。
「ありがとうございます」
伯爵は満足そうに頷く。
「まずは長旅ご苦労だった」
そして続けた。
「無事にここまで来られたことを嬉しく思う」
その言葉にエリオは違和感を覚えた。
『無事に来られたこと……?』
まるで道中に危険があることを知っていたような口ぶりだった。
「シオン村での活躍については報告を受けている」
伯爵は穏やかに話を続ける。
「農民のみでゴブリンの群れを撃退したそうだな」
「運が良かっただけです」
ミューズが答える。
しかし伯爵は首を横に振った。
「運だけでできることではない」
そう言って小さく笑う。
「まずは支援を送れなかったことを謝罪しよう」
ミューズは少し驚いた。
貴族が農民へ頭を下げるなど想像もしていなかったからだ。
「そして今回の褒賞についてだ」
伯爵が指を一本立てる。
「一つ。シオン村の税を一年間軽減する」
続いて二本目。
「一つ。ゴブリン討伐によって得た財貨は全て村の所有を認める」
そして三本目。
「一つ。ローゼン伯爵家より感謝状を送る」
『いや、なんか微妙じゃないか?』
エリオは内心で首を傾げた。
『戦利品は元から村のものだろ。実質、感謝状だけじゃないか』
だがミューズの考えは違った。
(税が減れば、それだけでずいぶん違う。
冬を越すための備蓄も増やせるし、村のみんなが楽になる)
その価値を、現代育ちのエリオはまだ理解しきれていなかった。
「領主様」
ミューズが口を開く。
「褒賞はありがたくいただきます」
伯爵が頷く。
しかしミューズは続けた。
「ですが」
謁見室の空気が少し変わる。
「他にもご用件があるのではありませんか?」
ガルドが隣で冷や汗を流した。
農民が貴族へ向ける言葉としては、かなり踏み込んでいる。
だが伯爵は怒らなかった。
むしろ楽しそうに笑った。
「鋭いな」
そして椅子へ深く腰掛ける。
「その通りだ」
伯爵の表情が少し真剣なものへ変わった。
「実は頼みがある」
ミューズは黙って続きを待つ。
「最近、街道に野盗どもが住み着いていてな」
その言葉にミューズとガルドは顔を見合わせた。
脇道を教えてくれた男たちとは別の集団だろう。
伯爵は続ける。
「連中のせいで物流が滞っている」
「特に開拓村への影響が大きい」
『やっぱりか』
エリオは思った。
荒らされた村。
焼けた荷車。
街道を監視していた武装集団。
あの光景が脳裏に蘇る。
伯爵は静かに笑った。
「ミューズ村長」
「はい」
「君には、その野盗どもの討伐を依頼したい」
一瞬、謁見室が静まり返った。
ミューズも。
ガルドも。
そしてエリオも。
数秒間、言葉を失った。
「………………は?」
ミューズの間の抜けた声だけが、広い謁見室に響いた。